この記事に対してマロー本人は『二百回記念 / Two Hundred Counting』の回で、「星5つか星1つ」という自己評価を下しています。「私が書いた記事で、この記事以上に読者の反応を二極分解させたものはない」ということです。マジックそのものに対する直接的な言及がなく、抽象的で理論的な文章になっていますので、MTGプレイヤーに限らず有用な記事だと思います。

 2017年2月追記――段落分けや本文の一部に変更を加えました。各段落は元記事のハイパーリンク1つに相当します。また、段落の冒頭にある【】で括られた英単語は、元記事の中でハイパーリンクとして掲げられている単語です。本文でも語られていることですが、ほとんどの各段落がリンク元の単語と関連するようになっているゆえ。

≪端麗――僅かな紙面で多きを語る≫
原題:Elegance ―― Saying a lot with a little space.
Mark Rosewater
2004年10月18日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr146

 端麗【Elegance】
 この話題は、私がかねてより書いてみたいと思っていたものだ。皮肉なことに、この概念を説明するのに必要な言葉が、この記事を端麗から程遠いものにしてしまっている。そこで私は、どの芸術家も行なっていることを踏襲した。
 つまり、僅かな紙面で多きを語る方法を探したのだ。

 楽しんでいただきたい。

 ――マーク・ローズウォーター









































【Elegance】
 メリアム・ウェブスター携帯版辞書は、「elegence」に対して以下五つの定義を示している。
 1:洗練された気品、あるいは、品位ある作法
 2:設計や図案、装飾における嗜好の凝らされた豪華さ
 3:高貴な、優美な、落ち着いた表現方法の美しさ
 4:厳正に精確であること、均整の取れていること、単純であること
 5:elegantであるもの
 共通している要素は、上品、簡潔、審美にあると言える。【よって、「優雅」でなく「端麗」と訳出した。】

【This】
 この端麗という概念には考察が欠かせないが、同様に感性もまた欠かせない。端麗な散文への評価は、その文が読者にどんな思いを抱かせたかに左右される。散文は平穏な情感を生じさせる必要があり、そうして初めて読者は穏やかな気持ちになれる。文章を構成する全てのものは、適切な効果を創出するために入念に配置されている、あたかもそうであるかのように機能しなければならない。

【is】
 これとは別に対照的なことだが、執筆者の最も有用な道具は、動詞である。名詞は実体を与え、形容詞は装飾を携えるが、動詞こそが文章を押し進めるものだ。力強い動詞を選べば、そうして記述された動詞や文は才気や意図を帯びるようになる。弱々しい動詞を選ぶと、その文からは戯曲の風味が完全に抜け落ちてしまう。

【a】
 ここでちょっとした遊びを紹介しよう。端麗に関連した技術を推し量るためのもので、昔ながらのほのめかし遊びを基にしたものだ。手順は、まず無作為に名詞を一つ選ぶ。そしてその名詞を他の参加者に伝えるのだが、その際できるだけ少ない字句数に留めるよう心掛ける。試していただければおそらく、いかにごく僅かな字句で意思疎通が可能であるか、驚かれることだろう。

【topic】
 端麗にとって最大の悩みの種の一つ、それは取り上げる話題を単一の焦点として選ばざるを得ない、という不可避性だ。端麗は単純の十分条件だ。単純は、思考が単一の目標に向かうことの十分条件だ。すなわち、端麗は何か一つの単語が書かれるよりも先んじて【思考の中に一つの目標として】存在していなければならない。優秀な彫刻家は鏨【たがね:彫刻用の道具】を手に取る前に、頭の中で具体的な絵柄が出来上がっているに違いないのだ。

【I’ve】
 端麗に対する世間の誤謬の中に、書き手が空想力豊かでなければならない、というものがある。だが端麗とは形式尊重の堅苦しさよりも、むしろ熟知に基づく親しみだと言える。俗語や短縮形といった、どちらかと言えば友人向けの言葉、そういった言葉は怠惰な要素よりも気楽な要素を付け加えると推測されるので、それを使うのを恐れるべきではない。

【wanted】
 端麗の重要な要素は、情熱という感覚である。簡潔は言葉から感情ではなく攻撃性が追い出された状態だ。もし書き手が何かを書く際、より少ない語数にしようと自分で制限を課したなら、実際に書かれる個々の言葉に対しては、剰余の感情的な迫力が詰め込まれるべきだ。削られるべきは所記【伝えたい内容】ではなく、能記【伝える手立て】の方だ。

【to】
 端麗を理解するのに適した方途は、詩を学ぶことだ。詩は、執筆形態の芸術の中で最も単純なものだ。感化を最大限にしようと努めつつ、表現を最小限にしようと努める。各々の語が趣を伝え、それらの要旨が連なって、詩の伝えんとする内容の本質が想起される。もしある単語が自身の重みを伝えられないならば、その単語は取り除かれて然るべきだ。

【write】
 端麗な執筆者になるには、散文の学徒にならなければならない。言語の構造を学べば、文章がいかに形作られうるかを理解できる。頭の中の感情を有意義な言葉に翻訳する術、それを習熟して晴れて、端麗への道を歩み始めることになる。

【about】
 また、両義性のある曖昧な表現に心を奪われないよう注意しなければならない。その美には人を陶酔させる魅力があるが、端麗にとっては敵対するものだ。肝に銘じていただきたい、執筆者の目標は、読者を理解のために苦心させることではない。そうではなく、彼らを確然的に明らかな結論へと導くことだ。端麗は光明を投ずるものであるべきで、混乱させるものではないはずだ。

【for】
 端麗な散文は読者との結びつきが不可欠だ。つまり、執筆者は読者が何者かを理解していなければならない。この手順より先に来るものは何もない。執筆が始まる前に、彼らへの理解が深まっている必要がある。私はこれを旅行の計画と比べるのが好きだ。つまり目的地として熟知した町を選べば、地図は無用になるということだ。

【a】
 端麗へのもう一つの鍵は、重箱の隅の重要性を認識することだ。鎖の全体としての強度はその結び目の中で最も弱い部分であるが、同様に散文の断章の引き締まり具合も、文章全体の中で最も乱雑な部分によって決まってくる。優秀な執筆者は名詞や動詞や形容詞だけを選んで満足したりしないのだ。

【long】
 端麗と簡潔を混同してはならない。端麗な文章は短いが、それはそうなるべくしてなったのではない。端麗な散文を綴るのは困難であり、また時間の限界も相まって、執筆者は手短に書かざるをえないからだ。例えば端麗な小説は確かに存在するが、その数は少なく、それらは互いに時と場所とも隔たっている。

【time】
 古代ローマの雄弁家であり文筆家であったマルクス・トゥッリウス・キケロは、次のような言葉を残している。「もし私にもっと時間があれば、もっと短い文章が書けただろうに」
 単純化のために費やされる時間は、短いのではなく、長いのだ。万言を尽くして論旨を述べるのは誰にでもできる。だが十や五十の単語でそれができるのは、本物の芸術家だけだ。【訳注:原文では五十の単語それぞれにハイパーリンクが貼られている】

【Ironically】
 皮肉は論評にとって大きな武器だ。皮肉という機才が存するのは次のような事実、すなわち物事の実際の有り様には触れず、むしろ実際とは異なるように言及する、こういった事実にある。出来の良い頓知のように、皮肉は笑いをもたらす。だが最良の類にある頓知のように、皮肉は考察をももたらす。したがって皮肉は、滑稽という意味でおもしろくもあり、同時に楽しいという意味でおもしろくもあるのだ。

【the】
 執筆における端麗は、なかんずく言葉に結びついている。等しく重要なのは、どれほど言葉が互いに編みこまれているかだ。速度、間隔、律動、これらは言葉を文章の一部に据えさせるための仕掛けだ。自分の書いた文章を声に出して読んでみていただきたい。言語の自然な脈拍は、目ではなく耳に適しているのだ。

【words】
 言葉の力を認識するためには、まず言葉の仕組みを理解しなければならない。芸術とは表現であり、言葉とは意味を内包する暗示的なものである。言い換えれば、他人の考えを抽出するという機能、これを使って言葉は自らの力を汲み上げているのだ。円は誰が見ても円だが、「怖い」の概念は人によってそれぞれ異なる。

【needed】
 端麗は、何か特定の性質に還元できるものではない。それは数多の要因が調和して生み出された化合物だ。ここに、端麗は習得するのが困難な技巧だ、ということの事情がある。ほとんどの人は自分の頭をポンとなでたり、お腹をさすったりすることができる。だがこれらを同時するとなると、それほどまで容易なことではなくなってくるはずだ。

【to】
 散文の端麗な箇所は、読者の腑の底に響くものでなければならない。ほとんどの場合読者は、自分がその箇所を気に入った実際の理由、その理由を知らないでいるだろう。しかし彼らは、その箇所を読んだ時に何かを感じ揺さぶられた、とは自覚するはずだ。鋭敏や巧妙が見出されない文章には数多くの種類がある。端麗な文章は、それらから一線を画されたものだ。

【explain】
 自分の発想を説明するには、いくつもの手段がある。やはり最も端麗な説明は、定義ではなく例示を通じて行なわれるものだ。説明する側は、受け手が既に持っている知識に自分の発想を結びつけることで、受け手を過去に学ばさせるという作業から自由になれる。教育は困難だが、比較対照は容易だ。

【the】
 執筆を家屋の建築に喩えるなら、文章構造は土台ということになるだろう。設計図を描くのは、実際に家をどう建てるのかを決めるためだ。もし土台に欠陥があれば、どんなに機転を利かして煉瓦を積んだところで、損害的な結果を取り繕うことは決してできない。そうであるから、文章構造が自分の望む散文に適っていること、これを確実にするために時間を割くべきだ。

【concept】
 概念の力を過小評価すべきではない。端麗の肝腎な点は、壮大な考えを僅かな言葉に濃縮することにある。これは簡単な作業とは程遠いものだ。往々にして、天才がその一生の時間を捧げて初めて、真に革新的な概念が創り出されるのだ。そうであるからには、先人たちの苦心と霊感の成果に預かって、その恩恵を享受すべきだろう。

【kept】
 端麗に至る道でよく見られる障害は、有用な手法は一つだけだと思い込んでしまうことだ。往々にして執筆者は、一旦書いてしまった愛しい散文の綴りを放棄することができない。客観的状況が彼の意向の正反対を示している時でさえ、だ。もし散文の一部分が自身よりも大きな感覚を付与しないなら、執筆者はそれを諦めることを覚えるべきだ。

【the】
 読者は分刻みの単位では、知性の解釈の能力を遥かに超えて、物事に気付くことができる。つまり、読者は文章の細部に意識的に注目することはないかもしれないが、無意識の内にその細部へ気が向くことになるだろう、ということだ。美学が教えるところによると、この無意識の構造こそが「適切だ【right】」と感じるか否かを決定付けている。

【column】
 意思疎通を図る者は、演説と印刷物のどちらを通じてであれ、声を見出す必要がある。声は親しみを付加し、聞き手や読者に情報をより早く取り入れる手立てを教えるものだ。端麗とは、発想の保存だ。自分を導くための声を前もって習熟しておくことは、非常に貴重な武器になる。

【from】
 ここまで幾ばくかの紙面を費やして、読者を理解することに関して述べてきた。だがもう一人、理解するのがより肝腎な人物が存在する。執筆者、自分自身だ。執筆は、自分の発想を他者と共有することだ。もし自分の考えを理解するための時間を持たなければ、どうやってそれを伝達することが可能だろうか?

【being】
「一枚の絵は千の言葉に相当する」といった言い習わしがある。この決まり文句が失念しているのは、単一の単語がどれほどの数の単語に相当するのか、という視座だ。例えば「存在【being】」という単語を取ってみよう。この「存在」が表象するものの本質を把握するためには、数万あるいはそれ以上の単語が必要だろう。

【elegant】
 端麗であることの意義は何か? なぜこのことを気にかけるべきなのだろうか? 端麗は耽美を付加し、詩を喚起し、美を実現させる。端麗な散文は読者をより近くに引き込むが、それは文章が学ぶべきものだけでなく、感心に値するものをも提供するからだ。優良な散文は頭を活気付けるが、端麗な散文は心に響き渡る。

【So】
 誰が、何を、何処で、何時、如何に――どれも重要な問いかけだ。だが執筆者にとってこれらは、何故に比べれば見劣りするものだ。もし自分が表面下の論理を理解できていなければ、他の細部は見当違いのものになるだろう。端麗の実践は、理由を強固に結びつけることだ。つまり意図を定め、文章の中に浸透させることだ。

【I】
 端麗は非常に個人的なものだ。もしある物事が自分に共鳴していなければ、その物事を読者に共鳴させる手立ては全く存在しないのだ。執筆とは芸術であり、科学ではない。これこれのようでなければいけない、という規則書は存在しない。もし直観的に、文章で何かおかしなものがあると感じたなら、その直観の声に耳を傾けるべきだ。

【did】
 道具箱の中の重要なもの、それは時間だ。端麗は大急ぎで達成できるものではない。知的な反復作業がより深まるのは、より徹底的にその作業に集中する場合に限られる。予定表の中に作業時間を確保して組み込めば、その時間外には執筆作業から逃れることができる。来週の一時間は、今日という一日に相当するものだ【――疲れ切った頭でその日の残りを無為に費やすよりも、日を改めて新鮮な頭で集中する方が有効だ】。

【what】
 細部に注意を払うがために、文章全体が持つ大意を見失ってはいけない。この記事を例に取ってみよう。私は各々のハイパーリンクとなる見出し語やリンク先の文章に対して、多大な時間をかけて微調整を行なった。その際にも、それらの見出し語や文章を一同に並べた時に生じるであろう効果、つまり記事全体としての文意を念頭に置き続けていた。

【all】
 端麗は、執筆の総体的な観点に着くことを要求する。全ての単語、全ての文章、全ての段落が、巨大な絵合わせの断片だと言える。どれか単一の要素がもたらす影響を理解しただけでは不十分だ。自分の書いた物の説得力を理解しようと思えば、全ての要素の相互作用をも、それもどの組み合わせについても、理解していなければならない。

【artists】
 端麗と芸術は密接に絡み合っている。両方とも似たような目的に到達するのを目指している。すなわち、表現の対話を通じて、光明を投じ人々を鼓舞する、という目的だ。もし端麗であろうと努力するなら、私が思うにそれは、芸術家として自分を考えるのに役立つはずだ。芸術家としての直観は、端麗の必要事項を鏡のように写し出している。

【do】
 いかなる執筆でも重要な作業は、自分が喚起させようとしている感性を理解すること、次に、その感性を喚起させるためにはどの機能的な技法を使えば良いか、これを認識すること、以上の作業だ。用語の選択、動詞の時制、文章の長さ、頭韻、言葉の流れ、音韻――これらはどれも、文の雰囲気や調子を制御しうる技法だ。

【I】
 執筆者の人生こそ、究極の素材だ。自分自身の経験を測量することに恥じ入る必要はない。他の誰でもなく自分こそが、それらをより深く、より個人的に理解している。どの絵師も、自分の最高の塗料を使うことを拒絶したりしないだろう。また付随的な効用としてだが、自分の経験を使うことで、自分自身への理解がより深まることもありうる。

【found】
 肝に銘じておくべきは、公開という行為は探究という行為でもある、ということだ。自分が果たして、想定する読者よりも多くを学んできたかどうか、といった恐れを抱く必要はない。執筆は厳正厳格な科学ではないし、厳正厳格な芸術でもない。往々にして、救済に至るまでの道のりは枝分かれしているのだ、と気付いていただけることだろう。

【a】
 自分の未来には、自分の過去が敷かれている。執筆者になる手立てを学びたいなら、自分がこれまで書いてきた物を振り返る必要がある。時間をかけ、また私心無き視点を用いれば、自分の過去の失敗が明瞭になってくるはずだ。忘れてはならない、成功ではなく失敗こそが、学習へ突き動かされる最高の契機だということを。

【way】
 単一の解決策を探すことの問題点は、二つ目以降を探そうとしなくなることだ。そして最初の案が必ずしも最良の案だとも限らない。だがもし、どんな問題にも無数の回答がありうる、という考えを受け容れれば、自分の望む解決策を選び抜く余地を確保できるだろう。

【to】
 文章は居候で溢れかえっている。執筆者は過剰な書き込みを好む傾向にあるようだ。私もその類の者に含まれると自覚している。確実に行なっていただきたいのは、不要な言葉を刈り込むという編集者側の作業をこなす、そのための時間を設けることだ。もしある言葉が、文章に何の損害も残さずに取り除かれうるならば、それがそこに留まる権利は無いと言えるのだ。

【say】
 私はここまで、散文における端麗について述べてきたが、この大部分は演説についても適用できる。鍵となる差異は、散文においては見た目や語調といった特性の果たす役割が演説におけるよりも小さいことだ。端麗な演説の鍵は、他の何でもなく言葉に、人々の関心を引き付けさせることだ。

【a】
 皮肉なことだが、単純を極めようと設計されたものが複雑怪奇に仕上がりうる。だがそれは――あぁ、我が信愛なる読者諸賢よ――端麗の楽しみであり、謎であるのだ。ちょうど玉葱のように、端麗は無数の層から成っていて、慎重に剥がすことで初めてその姿を現すものだ。あぁ、そしてそれは、時として涙の出るような作業たりうる。

【lot】
 おもしろい演習を紹介しよう――自分の使っている各単語を一瞥し、それらの中にどれほどの意味が込められているかを考える。そして、同様の役割を果たしつつ追加の意味をも含んでいる、そのような別の言葉が存在するかどうかを探してみる。もし置換に値する言葉が見つからなければ、次の単語へと作業を移す――こういう演習だ。

【in】
 端麗の理解を深めるための良い方法は、日々の生活においてそれを見出そうとすることだ。私の予想ではあるが、意外な所で、またいかに頻繁にそれが見出されるか、諸君に喜びと驚きの念を生じさせることだろう。各々の事例を入念に考察し、それを端麗たらしめているものを指摘できるかどうか、試みていただきたい。

【a】
 執筆とは、共有された心掛けだ。誰であろうとも、言葉を占有できない。もしある者が有効な技巧を駆使したなら、恥じることなくそれを借用すれば良い。科学と同様、執筆も技術を創り出す。技術は集団に立ち返り、更なる進展に拍車を駆ける。道具箱を駆使するのを拒絶しなかったとしても、端麗は実現するのが非常に困難なものだ。

【little】
 端麗であるためには、文章のそれぞれの長さはどの程度であるべきか。その答えは、必要な分だけの長さであり、それより一単語も多くてはいけない。ジェンガを思い浮かべていただきたい。散文が崩壊する直前まで、言葉を慎重に引き抜いていくべきだ。

【space】
 芸術における最重要項目のひとつは、控えめで消極的な【negative】空間の価値を学ぶことだ。つまり、何も無い場所にも視線は等しく注がれる、という考え方だ。散文にも非常に類似した性質がある。執筆の際には、自分が述べていないことに対して深長な配慮を払うべきだ。それは往々にして、大声で喋りたてているからだ。

【Enjoy】
 どういったわけか、気品と真面目は同等視される傾向にある。そしてそこから、端麗には頓知を利かす余地が無い、という誤った結論が導かれる。頓知としての皮肉は、最も端麗な様式の一つだ。良質な冗談とは、その役割が全体にとって必要不可欠である限りにおいて、良質たりうるのだ。

【Mark】
 【記事の結論部という】踏み鳴らされた道を進む時にはいつもそうだが、どんな反応が寄せられるか、非常に興味深く思っている。この記事について何を思ったのか? おもしろかっただろうか? 教育的だっただろうか? 五十余りの段落を本当に全て読んだのだろうか? もし読まなかったなら、その理由は?
 是非、教えていただきたい。探究心が疼いてならない。

【Rosewater】
 恒例の結びの言葉を無くしては、今週の記事を終えることはできない。そんなことをすればどれほど無粋【inelegant】だろうか。
 来週もまた参加していただきたい。私は一介の文学青年【a letter man】から学校代表の運動選手【a Letterman】へと変貌を遂げているはずだ。
 その時まで、「何を」だけでなく「どのように」「何故」についても価値を認めていることを願いつつ。

――マーク・ローズウォーター

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