今回訳出した記事の本文には、NPCさんによる翻訳が既に存在します。http://web.archive.org/web/20040820002426/members.at.infoseek.co.jp/braingeyser/04/0423.html
 原文も翻訳も随分と昔の記事で、カラーパイの文献も当時から増えたので、新しく訳出してももう了承していただけるだろうと思っております。

≪黒の定義――雰囲気、機能、ゲームバランスの調整≫
原題:Defining Black ―― Balancing Flavor, Function and Game Balance
Randy Buehler
2004年2月6日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/rb109

 二年ほど前に研究デザイン部が「カラーパイ」の見直しを実施した際、我々はその作業を二つの段階に分けて行なった。第一段階はフレーバーの専門家が、各色は厳密には何を表象しているか、また各色はどのように他色と関わり合っているか、これらについて討論を通じ明確化させるというものだった。マークは月曜日の記事『腹黒さの中に』で、黒の背後にある哲学や黒のカードに与えられる予定のフレーバーを紹介することで、この第一段階の過程の成果を披露するという素晴らしい役目を果たしてくれた。【このマークの記事に関しては、記事の最後で欄外に言及するつもりだ。】カラーパイの議論の第二段階は、マジックのメカニクス全てを考察し、それらが五色の間で分配されている様相を分析する、というものだった。この第二段階には二つの大きな目的があり、一つ目は各色がメカニクスを公平に占めるよう計らうことで、二つ目は各色のメカニクスが新たに明確化されたフレーバー・パイと矛盾無く調和するよう計らうことだ。この記事で私が考察していこうと思うのは、これらの議論全体を黒のメカニクスは今どのように見ているかということだ。

 我々が出発点として取り掛かったのは、これまでのマジックの歴史を通じて蓄積されてきた各色のメカニクスを合計すること、そしてそれらの割り振りがどれほど平等であったかを分析することだった。当然ながら、メカニクスを勘定するのに使えるような精確な尺度は実際には存在しない。いくつかのメカニクスは他のものに比べて非常に多大な量のカードを有していたので、我々の試みは次のようなものになった。つまり平均的なブロックで各メカニクスについて、適正と思われる枚数はいくらなのか、それを総計してみる、というものだった。この演習の真の論点は結局のところ、我々がこれからもマジックの新しいカードを創案し続けられるのだと確かめることだったが、それはつまり、各色は引き出されうる潜在性を同量に有さなければならないことを意味する。

 過去のコラムで述べてきたことだが、我々が第一に出した結論は、メカニクスの公平な取り分に比して多くの要素を青が持っている、ということだった。よって我々はいくつかの物を青から移すことにした。メカニクス・パイの二割以上を占めるように思われたもう一つの色は、黒だった。メカニクスの一覧表を凝視すると、クリーチャー破壊、手札破壊、スーサイド・ブラックの小型クリーチャー、不利益持ちの大型クリーチャー、マナ加速など、黒には内容の非常に充実したメカニクスがいくつもあるように思われた。だがより肝腎だったのはデザイナー達の報告に、いつだって黒は設計するのが非常に簡単な色だ、とあったことだった。次のようなことは非常によく起こっていた。すなわち、企画書類が例によって、実に出来の良い黒のカードで所狭しという風に仕上げられ、一方でデザイナー達は、赤に入れられる他のカードを探し出すのに苦心していた、ということだ。

 黒から移動させる要素を探した際に我々が気付いたのは、過去の歴史と新たに明確化されたフレーバー・パイ、その両方に対して充分な敬意を払わなければならないということだった。例えば≪生命吸収 / Drain Life≫【黒のソーサリー。支払った黒マナの点数だけ対象にダメージを与え、さらに自分は同じ点数のライフを得る】はライフ獲得のメカニクスを含んでいるが、ライフ獲得そのものは黒のメカニクスではない【白や緑のものだ】。しかしながら、生命を吸い取るというフレーバーは黒に対して完璧に一致するので、我々はこれを黒に残すことにした。もっとも我々は、これが黒に与えられた唯一のライフ獲得の手段であるべきだと、黒は他から奪ってこなければならないと、明白にすることも忘れなかった。同様に、緑は墓地を資源として使用するのを最も得意とする色だが、≪死者再生 / Raise Dead≫【黒のソーサリー。墓地のクリーチャー・カードを手札に戻す】も非常に黒のフレーバーと歴史に合致するので、やはり我々はこれを黒に残した。

 我々が黒から移動させた最も大きな二つの物は、一時的なマナ加速すなわち≪暗黒の儀式 / Dark Ritual≫と【黒のインスタント。都合2マナ増やす呪文。赤版は≪煮えたぎる歌 / Seething Song≫】、一時的なパワー増強すなわち≪彼方からの雄叫び / Howl from Beyond≫だ【黒のインスタント。注ぎ込んだマナの点数だけクリーチャー1体のパワーを1ターン修正する。赤版は≪怒髪天 / Enrage≫】。≪暗黒の儀式≫が実際に行なっていることを見れば、このメカニクスは黒特有のものでないと了承していただけるだろう。リチャード・ガーフィールドはアルファ版を作るに際し、このメカニクスに非常に深い黒のフレーバーを宛がったが、もし悪魔の儀式によるものだというフレーバーを与えるならば、ほぼ全てのものを黒として見なすことができてしまうだろう。仮にいくつかの要素を動かす必要性を認識していなければ、我々はリチャードの最初の直観に喜んで従っていただろうが、しかし一度そのような必要性に結論付くと、これは【すぐ次で述べる理由から】良い選択のように思えたのだ。ついでながら、この判断にはリチャードも同意した。我々がフレーバー・パイとメカニクス・パイの両方を明確化する際に、彼は何度も相談に乗ってくれたのだ。さて、≪暗黒の儀式≫が移動する要素として特に良い選択だったのは、以下のような事情があったからだ。すなわち、赤はいくつかの要素を移入される必要のある色だと我々が認識していたこと、そしてフレーバー・パイの議論で浮かび上がった事実の一つに、非常に情熱的で「刹那的な」描写の赤があったこと、これらの事情だ。新たな赤は「今、今、今、それが欲しいんだ」と言う。カードアドバンテージが打ち棄てられようとも、今この瞬間により多く得るためならば、赤は申し分なく喜んで未来を投げ出すのだ。≪暗黒の儀式≫のメカニクスはこの哲学を完璧に体現しているので、我々はこれを黒から赤へと移すことにした。

 同様に≪彼方からの雄叫び≫も、黒のフレーバーを持ってはいたが、黒に特有のメカニクスというわけではなかった。≪彼方からの雄叫び≫は実際のところ、まさに初期の頃から赤に代表されていた≪炎のブレス / Firebreathing≫【赤のオーラ。赤マナ1点につきパワーに1の修正を与える】の能力を、インスタントの速度に焼き直したものだ。このメカニクスもまた資源を使い果たしてまでして、未来に役立たないような現在のアドバンテージを得るものだ。よって、これは赤へと移された。

 これらが黒に対して我々の行なった二つの大きな変更だ。しかし特に黒と赤の違いを整理する際、いくつかのメカニクスの明確化を試みることに我々はまた少なからぬ時間を費やした。例えば我々は長らく「攻撃強制」と「防御不可」を、赤のクリーチャーと黒のクリーチャーの両方の欠点として用いてきた。しかしながらこれらの欠点の表象を考察してみると、「可能ならば毎ターン攻撃する」ことは非常に赤に相応しい能力だと明らかになるだろう。赤のクリーチャーは自制できず、戦闘にひたすら突撃し、刹那の情熱に圧倒されてしまうので、戦場の反対側で≪トロールの苦行者 / Troll Ascetic≫【3マナ3/2で呪禁と再生を持つ緑のクリーチャー】が舌なめずりしているのも目に映らないのだ。他方で「ブロックに参加できない」ことは本質的に黒の態度だ。黒のクリーチャーはいかに状況が差し迫っていようとも、わざわざプレイヤーを守ろうとはしない。彼らは自分自身のことしか関心を持たないからだ。したがって我々はこの二つの欠点を相応しく分けることにした。それぞれの欠点を適切な色に限定することで、ゲームにはフレーバーを、各色には明確な個性を、幾ばくか取り入れることができると我々は考えている。

 我々が黒と赤の間で注目したもう一つの類似点は、何らかの欠点を持つ代わりにマナコストに比して強大であるようなクリーチャーを有している、というものだった。これは削除される必要性を感じさせるものではなかった。なぜならば≪バルデュヴィアの大軍 / Balduvian Horde≫【赤のクリーチャー。戦場に出たとき無作為にカードを捨てなければならない。4マナ5/5】のようなカードは「今を得るために将来を投げ打つ」という赤のフレーバーに上手く一致するし、他方で≪にやにや笑いの悪魔 / Grinning Demon≫【黒のクリーチャー。アップキープ毎に2点ライフを失う。4マナ6/6】のようなカードは「悪魔との駆け引き」という黒のフレーバーに上手く一致するからだ。しかしながら我々は、二色の個性をより際立たせるためにこの類似点を明確化させるのは意義深いことだ、と判断した。我々が注目した点のひとつは、赤は既に大型クリーチャーの二番手だという点だ。すなわち、図体の大きなクリーチャーの頭数に関して赤が遅れを取るのは緑に対してだけであり、実際のところ赤には費用の割安な大型クリーチャーの色である必要性はなかった。転じて見れば黒こそが、こういった「高い危険性と大きな見返り」を持つ大型クリーチャーを最もよく扱えるべきだろう。我々は≪ファイレクシアの抹殺者 / Phyrexian Negator≫【旧枠時代の黒の代表的なクリーチャー。3マナ5/5トランプル】のようなカードを「スーサイド・ファッティ」と呼ぶことにし、今ではこれらを黒の為すことの本質的な部分だと見なしている。

 一方で、いずれかの色がスーサイド・ウイニーに最も長けることになるのだが、我々は赤がその役割に最適な選択だと結論付けた。≪ジャッカルの仔 / Jackal Pup≫【赤のクリーチャー。自身へのダメージがコントローラーにも飛び火する。1マナ2/1】、≪はぐれ象 / Rogue Elephant≫【緑のクリーチャー。戦場に出たとき森を1つ生け贄に捧げなければならない。1マナ3/3】、≪ミノタウルスの探検者 / Minotaur Explorer≫【赤のクリーチャー。戦場に出たとき無作為にカードを捨てなければならない。2マナ3/3】、これらのカードはまさに赤に相応しい、というのも黒は小型クリーチャーの色だと見なされていないからだ。この判断を下しうる視点は二つある。第一は、非常にメカニクス寄りの視点だ。五色全てで、あるいは五色中四色で、優秀な小型クリーチャーのデッキを構築することがもし可能ならば、ゲームの楽しさは減じてしまうだろう。いずれかの色が四番手であるべきなのだ【四番手が不得手ならば、必然的に良質な単色ウイニーデッキは三色の内に留まりうる】。第二は、非常にフレーバー寄りの視点だ。邪悪と契約を結ぶのは容易ならない取引だ。代償は大きいが、報酬もまた大きい。「ゴブリン・ウイニーの大軍」という響きは聞こえが良いが、「デーモン・ウイニー」という響きは締まらない。マジックはフレーバーとメカニクスが共に並び補い合うとき円熟するのだが、それはまさにここで我々が行なったことだと考えている。

 我々が黒に施した他の変更点は些細なものだ。全てのクリーチャーにダメージを与えるのは非常に赤の特性であるため、「疫病【pestilence】」というフレーバーの効果はメカニクスとしては-X/-X修正を与えるようにすべきだと決めた【≪黒死病 / Pestilence≫から≪紅蓮炎血 / Pyrohemia≫への移行】。クリーチャー蘇生の大部分は黒のメカニクスに留めたが、フレーバーと絶妙に合うならば、そのような白の復興呪文を臨時に作る可能性もある。「教示者」は引き続き、緑はクリーチャー、赤は運任せ、黒は悪魔との契約、【白はエンチャント、青はソーサリーやインスタントやアーティファクト】といったように、適性に照らして分散される。黒は飛行クリーチャーの三番手であり、再生クリーチャーの筆頭であり、アーティファクトやエンチャントを破壊できず、また当然ながら、クリーチャー破壊と手札破壊といった重要項目すべてを継承している。

 以上が黒の現状だ。我々の考えでは、フレーバーとメカニクスのどちらの視点から見ても、黒は依然として多くの素敵な要素を有しているが、それはどのセットでも黒の良いカードで溢れてしまうほどの過剰な量ではないはずだ。


【以下は注釈的な記述】


 マークの前回のコラム『腹黒さの中に』に呼応して立った掲示板は、私の見てきた中で最も魅了的な部類に入るものだった。記事でマークが展開した好奇心をそそる主張は、黒に関連しているような道徳についてだった。すなわち、黒は邪悪と同義でなく、また常に邪悪というわけでもない、そして邪悪になる潜在性はどの色にもある、という主張だ。そして記事の反響で掲示板は7ページにも達し、マジックに関連した道徳についての非常に知的な論戦で賑わっている。利口であることがいかに楽しいことか、それを思い出させてくれるような掲示板だ。さて私も自分の意見を少しばかり投げ込むために、演説台に上ってみようと思う。

 私が思うに、君たちの中にはニーチェを誤読している者がいる。とはいえ何も私はニーチェを、道徳なんてものは無視するべきだとか、やりたいことは何でもすべきだとか、そのように示唆する者だ、と読解しているわけではない。そうではなく、ニーチェが我々各人へ熱心に説いているのは、道徳を自分自身に照らして吟味し、各人の精神を我々が従うべき倫理規定へと磨き上げることだ、と私は考えている。著書『善悪の彼岸』は道徳の歴史についての魅了的な研究で、特に詳細に論じているのは、キリスト教が外面的行動や内面的意図を本質的に測量する基準を「善良と邪悪【Good vs Evil】」から「善し悪し【Good vs Bad】」へと変えていった過程だ。さて私が下した結論は、我々が企てるべきは受け継いできた標語【label:レッテル】の向こう側に移動することだ、というものだ。「民衆【herd】」とは、親や宗教を通じて彼らに手渡されるあらゆる倫理的教義に盲目的に従う者たちのことだが、自分自身をこういった民衆から分け隔てる手段は倫理を無視することではない。そうではなく自分自身のために倫理を考え、それに対する理解と信仰を通じて、自分の人生を過ごすための倫理規定を見つけ出すこと、これが民衆と区別される方法である。ニーチェの言う「超人」は反道徳的ではないし、超道徳的ですらない。その代わり彼は「善良と邪悪」という道徳の彼岸を開拓したのだ。とは言っても、これでともすれば、ニーチェに関して私が言いたいことは全て言い切ってしまったかもしれない。

 さて、私はニーチェが黒でないとは言っていない。彼の哲学はマジックの黒にかなり調和する。ただ私が思うに彼の見解は、彼に対する評判以上に名状しがたくかつ興味深いものだ。事実、私のニーチェに対する読解はマークの黒の心構えに対する説明と親和するものだ。「君の規則を押し付けないでくれ」とは、黒の魔術師が白の魔術師に対して言う台詞だ。私の読む限りではニーチェは青寄りの黒に配置されるが、やはり彼は本質的には自己中心的であり、それはまさに黒の本質とするところだ。

 話は変わるが、バート・シンプソンは明らかに黒だと私は思う。バートには大混乱を引き起こす傾向があり、私も最初は彼を赤と考える理由を見出せたのだが、より綿密に観察すれば、彼は混乱を見て楽しむために、慎重かつ回りくどく計画を練っていることが分かるはずだ。ホーマーと比べてみよう。シンプトンの中では実に赤いホーマーは決まって、脈絡も理由も全く無い行動を取っている。ホーマーはいかなる時点においても、自身の激情が命ずるがままに従っているのだ。

 最後に述べるのは、ただ単なる状況説明だ。行動と意図のどちらが道徳的な正しさを決定するのかという問いに対して、明解な回答が提出されることは決してないだろう。実際、この討論は何千年にも渡って紛糾してきたし、どちらの立場にも与しない非常に賢明な人もいる。しかしながら、過去の歴史全てがこの設問を、マジックの色に対する興味深いリトマス試験たらしめているのだ。マークが「邪悪とは信条ではなく行動の問題だ」と言うとき、当然彼は黒の声色で喋っている。そして白はちょうど正反対の見解を強調している。

 最近、私がこのゲームをどれほど好いているか、言ったかしら?【原文:Have I mentioned lately how much I love this game?――『Have I Told You Lately That I Love You?』という名曲があり、そのフレーズに似ている?】

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