以前訳出した『端麗』からの続きになります。
 拙訳(http://imatoki.diarynote.jp/201505081447563651/)の通読と、原文(http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr146)の一瞥がまだの方は、まずこちらの方から読む、ないし見るのをお勧めします。

≪端麗な感想――『端麗』を書いた理由を語る≫
原題:An Elegant Response ―― Mark shares his reasons for "Elegance"
Mark Rosewater
2004年11月1日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr148

●端麗な感想
親愛なるマーク・ローズウォーターへ。

あなたの記事『端麗』に関してですが、

ファック・ユー。

 気に入りました。あなたの書いてきた記事の中だけでなく、ウィザーズ社全体の中で見ても、です。他の感想もこの記事に敬意を示しているのを願いつつ。

 お疲れ様でした。
――ジョン・カタルド

 親愛なるマーク・ローズウォーターへ。

 私は、普段はあなたの記事のファンですが、あの記事はいささか馬鹿げています。あれは端麗に完璧に反しています。あれほどの数のハイパーリンクで取り繕っているのですから。どこかに要点があるはずだと希望を持ちながら、一つずつクリックしていきました。おそらく実際にはあったところを、私が見逃しただけなのでしょうね。ともあれ、私はアンヒンジドの冗談かと思いました。なるほど確かに、あの記事は冗談でした。ですが、読者をからかうことを目的とした冗談でした。何てことでしょう。

 私は物書きの助言が欲しくてメイキング・マジックを読んでいるのはありません。マジックのデザインについて知るために読んでいるのです。あなたの風変わりで奇異な記事のほとんどを、私は楽しく拝読してきましたが、『端麗』は腹立たしさ以外の何物でもありませんでした。どうかマジックを守っていただきたい、と思います。どうしても必要な時には、ちょっと他の方法に手を出すのがよろしいでしょう。つまり、内省的な散文の領域へと不思議の念を以って駆り立てられた際には、個人としてのウェブページにおいて、私たち抜きでコツコツとやっていただきたい、ということです。

 それではまた!
――ダニエル・ヒル

 マローへ。

 まず、お疲れ様でした。『端麗』はこれまで書かれた記事の中で、かなりのお気に入りのものだったと思います。【デザインチームであるマローは、ルールチームのマーク・ゴットリーブ、愛称マゴーと犬猿の仲にありますが、】普段私はマゴーの方を支持しています。彼の筆は踊る様で、デッキ構築は独創的だからです。『端麗』は、確かに楽しいものではなく、記事として相応しくありませんでしたが、執筆に対する洞察に満ちた視座を示していました。掲示板の多くの人は、おそらくあなたも目を通していることでしょうが、この洞察を理解するだけの忍耐力を持ち合わせていないようです。なるほど確かに、あの手の記事はほぼ確実に、万人受けするものではないと思います。しかし「ふざけるな!」と言うようなものでは決してありません。楽しみに対するある種の思考態度が取られていますし、ハイパーリンクを行き来するためボタンをクリックすることに対しては、確かに私もいささか気後れを感じましたが、しかし私が直前まで持っていた予想というものが、次の断章が現れる都度に、ますます埋め合わされていくようでした。感嘆するような中身の断章だったと思いますし、おそらく、私の楽しめたという【正の】感覚は、百人の楽しめなかったという【負の】感覚に匹敵すると思います。

 敬具【Most sincerely】、
鼠の鳴き声より。【That Which Squeaks】

 親愛なるマーク・ローズウォーターへ。

 くだんの記事『端麗』についてですが、あなたの「少ないのが良い」という考え方に則りますと、あれは「戯言」でした。
 もしあなたがご自身の叙情詩を磨き上げたいと思うようでしたら、マジックプレイヤーであるからこそあなたの記事を読む、そういう読者の時間をネコババしないでいただきたいです。執筆のゼミ演習にでも行って、そこで行なえばよろしいでしょう。
 記事を読んでいていかに酷い気持ちになったか、それを書きつける必要性を感じたのは今回が初めてです。普段のあなたは面白い読み物を書くので、あの記事はあなたの汚点だと、そう思う次第です。

――ジェイソン・パトリッジ

 拝啓、ローズウォーター氏。

 手始めに、私がこの記事をどれほど楽しめたかについて、語らせていただきます。私はよくあなたの週刊記事を読みますが、そうであるがゆえに、『端麗』の週にあなたが使ったあのような技巧に私は甚だ驚かされました。
 あなたは様式と内容の両面で、少なくとも私にとっては面白いものを混ぜ合わせたわけですが、またこれは昨今では滅多に見られないものですが、ともあれ相当な手間暇を割かれたと推察するところです。私もまた、ほとんどが散文ですが、執筆者でありますから、あの記事が作られるのに必要不可欠だった作業時間がいかなるものだったか、察することができるというわけです。
 つまり私が言わんとしているのは、読んでいて楽しいものだったと、そういうことです。

 敬具。
――イバン・ゴードン

 史上最低最悪の記事である。

 これで端麗だと言うのか? どこまでも極悪非道で、恐れ入ったことだ。56キロのモデムを以てしては、あれは苦痛以外の何物でもなかった。あんたは端麗へ近づこうとするあまり、「感性」に絡め捕られて、無粋、支離滅裂、むしろ出鱈目で要領無しになっているわけだ。この連載記事はMTGの研究デザイン部について述べることになっているはずであって、「英語の理解」についてではないはずだ。この記事は、実に、痛々しくて鬱陶しいものだ。

――名無しの迷える羊【--Sheep】

 親愛なるマーク・ローズウォーターへ。

 本当にお疲れ様でした。
 正直なところ、あの記事を読み始めた時に私が最初に思ったのは、マローに向かって「おまえ、何してるんだよ!?」と怒鳴りつけてやりたい、ということでした。
 読み進めて、あなたの意図が分かりました。情報の詰まった、知性を刺激する、示唆に富んだ、そういう記事をもう一度書こうとしているのだと。

 あなたが記事の最後で書いた質問【「何を思ったか」とか「おもしろかったか」とか】に対して、次の二つを回答しておきます。
 第一。あれは平易に手軽に読める記事ではなく、そのため私には娯楽面の価値が減じているように思われました。しかしながら記事の構成は、各段落が意味するところを考えさせられたため、その目的に巧みに資していました。
 第二。非常に教育的な記事で、今後物を書くときには常にこの記事が教唆するところを意識しようと思いました。

 掲示板のここまでの書き込みを読んだあなたが、あの記事は無駄な努力だったのだと思ってしまうことのないように、と私は切に思っています。あれはあなたがこのウェブサイトに掲載したものの中で、間違いなく最高のものだと、私は考えています。
 それから、あなたの書いた考えがたとえ少しずつであっても、この掲示板であなたをけなしている人全員に理解されていくことを、ただただ願っています。
 否定的な意見のために、今後あなたが私たちの知性を鍛錬させるのを躊躇うのではないか、と想像すると残念に感じます。

 繰り返しになりますが、お疲れ様でした。
――英国マンチェスター在住、エド・ライアル

親愛なるマーク・ローズウォーターへ。

 あなたの記事『端麗』に対する感想ですが――もしマジックのカードの創作に関するような類の記事に仕上がっていれば、あの記事は良い物になっただろうと思われます。ともすれば、毎週これこれのように書かれるはずだという偏見のようなものがあるかもしれません。
 あの記事は「メイキング・マジック」に連なりうると考えられたのかもしれませんが、やはり、そう呼ぶのは無理があります。あれは「詩」の書き方について論じたのでありますから。
 そうは言っても、良い考え方だとは思いました。もしマジックのカードやウェブの記事に対して影響力をお持ちの人をどなたかご存知でしたら、私の要望【冒頭の、『端麗』をマジックに直接関わらせて書くこと】を彼らに通してはいただけないでしょうか?

――ブラッドより。


 二週間前、私は『端麗』という題の記事を掲載した。未読の人はまずそちらを一読するのをお勧めしておく。私が何について話しているかを分かっていれば、今日の記事は遥かにおもしろいものになるはずだからだ。
 くだんの記事に対する反響は、どんなに控えめに言っても、興味深いものだった。公開掲示板には三百を超える書き込みが寄せられた。平均的な掲示板には五十足らずの書き込みが寄せられるので、あの記事には普段の九倍近くの反響があったと言える。さらに私宛てのEメールは五百通ほど届いたが、こちらは平均的な記事だと五十通から百通ほどなので、大体二倍強の関心を惹いたことになる。掲示板は否定的な意見に、Eメールは肯定的な意見に、それぞれ慣例的に傾倒しがちではあるが、双方とも以下二点の明白な事実を指摘しているということ、我々はこれを認める必要がある。第一の点は、あの記事は確かに強い反響を呼び起こしたということで、そして第二の点は、それらの反響は満場一致からは程遠いということだ。
 それでは、実際のところ私が意図したのは何だったか。なぜ私は『端麗』を書いたのか。書き終えてすぐにそれを公表した誘因は何か。記事で述べられていることが、果たして、マジックの創造過程とどういう関係があるのか。記事がこれほどまで気に入られた、ないし目の敵にされた、その原因は何か。今日の記事ではこれらすべての疑問に対する回答を、またそれ以上【の示唆】をも提示していくつもりだ。今回はマジックの創造過程における土台の側面に洞察を向けていくので、どうかブラウザを閉じずに、私を信じて読み進めていただければと思う。記事の箇所によってはそうした洞察に見えないかもしれないが、メイキング・マジックの筆跡は、辿ればどれもマジックの創造過程へと行き着くようになっている【ので、この点もまた信頼していただきたい】。

●私マークの意見に用心するように
 ブラウザの向こう側の読者諸賢の中で、果たしてどれほどの人数が、週刊記事を執筆する圧力を受けているのか、私には知る由もないが、こういった執筆はまさに挑戦だと言える。新たな題材が常に必要となれば、通常時には分析しないような物事に関して隈なく探究するよう強いられることだろう。そこで私が執筆の際に使う小細工の一つは、まず見通しの立つ考えをいくつか書き並べ、それらがいかにも使えそうな記事はどんなものかを時間を置いて考える、というものだ。私の良い発想は、傾向として大きく二つの群に割り振られる。すなわち、一方は自分が述べてみたいと思うような話題で、他方は自分が実践してみたいと思うような様式だ。
 一例は、「冒険を選ぼう / choose your own adventure」という形式の採用だ。これはオンライン記事の長所に合致した企画だ。だがこの構成の利点になるような話題を明解に提示するには、半年もの時間が必要だった。読者はどうなりたいと思っているだろうか、また、どの冒険を選ぶだろうか。【それを思い悩んでいた中、】ある日私は、研究デザイン部の一員としての自分の一日を書こう、と思い至った。そしてこれは【述べたい話題と実践したい様式の】二点が完璧に噛み合った記事だった。私の挙げている記事に心当たりのない人は、『日常のとある一日 / A Day in the Life』を参照していただきたい。【http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr58 ――訳注:マロー自身『100回記念 / One Hundred and Counting』で星五つと自己評価している記事なのですが、DNで訳出するにはどうにも一手間かかりそうです】
 非常に似たような経緯で『端麗』も生まれた。この発想は今から一年ほど前に思いついた――短い記事ではあるが、記事内のすべての単語が別の短い記事にハイパーリンクで繋がっている、という構成だ。その後少し考えて分かったことだが、リンク元の記事を50の単語で書き、その各単語にリンク先として50単語の記事を充てれば、全体としては2550単語になり、これで私の記事の平均語数に相当する。しかしこのような形式を使って述べたいことを、その時はどうしても思いつけなかったので、私はこの発想を無意識の内へと棚上げすることにした。もっとも以下で確認するように、そんな場所で無為に過ごすのに甘んじるような発想ではなかったわけだが。

●陰が陽と交わるとき【相反する対概念が邂逅するとき】
 私の感興がそそられるのは次のような事情、すなわち――50単語の記事五十個に繋がっている50単語の記事、この全体的な発想は極めて端麗であるものの、これを実行に移すこと自体は無粋【inelegant】であり、かつ、こうした構想は端麗であること――この事情にあった。あの記事の発想は、無粋が織り込まれた端麗なもの、と言えた。構想としては、まさに端麗を無粋と混ぜ合わせるという発想なのだから、非常に素敵なものだ。同時に、記事を読み進めていく手続きは、非常にまどろっこしいものだ。構想の素晴らしさのためだけに読者に煩雑な読解を強いる気には、私はなれなかった。再び私はこの発想を厳封したのだった。
 後日、私はこの発想に死角から不意打ちを突かれた。無粋であることを不手際ではなく仕様とすれば、どうなるだろうか。無粋であることが目的に適うとすれば、どうなるだろうか。まさにこの時に、くだんの構造が特定の話題を必要としているのだと、その話題は端麗それ自体であると、私ははっきり理解したのだった。かつて私が選抜候補者名簿の中に50語の記事とハイパーリンクという発想を書き連ねたのと同様に、マジックの創作過程における端麗に関して述べる記事を書こうと決心したのだった。
 皮肉にも、端麗は非常に入り組んだ話題であり、正確に説明するのは困難だろうとは私も承知していた。特に難解なのは、創造過程における端麗には一つだけではなく実際には二つの異なる意味合いが含まれている、という発想だ。すなわち、構想における端麗、実践における端麗、この二つだ。これら二つの考え方は似通っていて本来的に結びついている、そのような響きがあるかもしれないが、事実はそうではない。私はこれを説明したかったのだが、その術については分からなかった。恐ろしく複雑であるものの、端麗はマジックの創造過程において土台を成している。
 そこで私は、端麗かつ無粋な文章構造を用いることで、真に端麗に関わらんとする記事に仕立て上げたのだ。これがなぜ端麗なのかと言うと、こういうことだ。もし無粋な文章構造の記事が【端麗や無粋以外の】他の話題を取り上げたなら、おそらくその記事は単に焦れったいものに過ぎなくなるだろうからだ。端麗という話題を取り扱うことで、依然として焦れったさは残るものの、極めて重要な作用が二つ供されることになるはずだ。第一の作用は、記事が、欠如による証明【demonstration by omission】と我々が執筆において呼ぶものになる、ということだ。すなわち、端麗がなければ何が起こるかということを実演することで、私の主張しようとする要点が際立つだろうと期待された。そして第二の作用は、皮肉な並列になる、ということだ。並列による対比が、記事における端麗に光輝を集中させるだろうと期待された。
 記事は教育的で啓蒙的になる見込みだったが、非常にはた迷惑な代物になる可能性も高かった。そこで私は、自分自身の中で対話を交わしてみることにした。余談ながら、信頼置ける読者はご存じだろうが、私はこの手の独白や自己省察を頻繁に行なっている。
賛成派「50語の記事で、各語が50語の別の記事へのハイパーリンクになっている。最高に洗練されているだろ?」
反対派「つまり読者に、50のハイパーリンクをクリックさせようとおっしゃるのでしょうか?」
賛成派「あぁ、そうさ」
反対派「それがどれだけ迷惑なことか、想像つかないのでございましょうか?」
賛成派「いや、その対比こそが勘所なんだ。【記事の形式は】恐ろしく無粋だ。無粋であることを通じて、端麗を論証していくのさ」
反対派「端麗についての記事で、かつ端麗である記事、これでは駄目なのでございましょうか?」
賛成派「あー、それは確かに端麗だろうね。構想としては」
反対派「つまり、実践としては無粋だ、ということでしょうか」
賛成派「正解」
反対派「ということは、基本的にあなたは、≪Ice Cauldron≫なマジックの記事を書く気でおられる、そういうわけでございますね?」
賛成派「いや、そんな風に考えたことは一度もないんだが」
反対派「創造における古典的な板挟みを論証していくわけでございますね」
賛成派「そんなつもりでもないんだが」
反対派「いいえ、いいえ! まさにあなたは創造における、古典的な板挟みを論じようとしているのであります! よろしいではございませんか! 【それとも、】構想における端麗と実践における端麗、この二つの差異を峻別するような論証、そういった論証がいかに困難であるか全く想像がつかない、【つまりこの二つには差異がないか、あったとしても容易に論証できる、】こうおっしゃるのですか?」
賛成派「いや、そうは思ってない【それは難しいことだ】」
反対派「我々に対して口先で語るだけでなく、常に実際に示して見せようとする、あなたはそういう人間ではないとおっしゃるのでしょうか?」
賛成派「いや、そうありたいと思うよ」
反対派「そうでありますならば、この記事は創造過程の核心を通じて、構想と実践の対立を強調することになるでしょう。まさに我々がかねてより言及したいと思ってきた対立でございましょう。加えて、単に小手先の叙述になるわけでなく、目映いネオンの光で照らされ論証される、という運びになるでしょう」
賛成派「ちょっと待ってくれ。あんた、反対派じゃなかったのか?」

訳注:アイスエイジの4マナのレア・アーティファクト≪Ice Cauldron≫(氷の大釜)の、読むのが嫌になるような能力は、次の通り。
(X),(T):~の上に蓄積カウンターを1個置き、あなたの手札から土地でないカードを1枚ゲームから取り除く。そのカードが追放されている限り、あなたはそのカードを唱えてもよい。この能力を起動するために支払われたマナのタイプと量を記録しておく。この能力は、~の上に蓄積カウンターが置かれていない場合にのみ起動できる。
(T),~の上から蓄積カウンターを1個取り除く。:あなたのマナ・プールに、最後に記録されたタイプと量のマナを加える。これらのマナは、最後に~によって追放されたカードを唱えるためだけにしか使えない。


●共に立ち起こる計画が私は大好きだ【I Love It When A Plan Comes Together】
 では、なぜ私は『端麗』を公表することを選んだのか。その理由は――マジックの創造過程という話題に専心した他のすべての記事よりも、この『端麗』こそが、その話題について読者により多くを教唆できる――と私は考えたからだ。『端麗』はマジックの創造過程の基本原理を、他の記事とは違った方法で読者の心に銘記できた。
 もっとも、御託はもう充分であろうから、記事の肝腎な中身の方へと移って掘り下げていこう。
 先週つまり『端麗』の翌週の記事の冒頭で、私は数多くの賛否両論に対する詳細な応答は次週つまり今回の記事に回すとした上で、それまでの間に読者に討論していただきたい議題として「『端麗』は端麗か否か」という質問を投げかけた。回答には然りと否の両方があった。『端麗』は構想としては非常に端麗だ。記事の背後にある発想や記事としての一般構造は、端麗だと思われる。だが『端麗』は実践としては非常に無粋だ。記事を読むためには、気狂い沙汰の数の腹立たしいハイパーリンクを飛ばなければならない。記事を楽しむという実体験は、記事が強要する読み方のために、複雑に歪曲されてしまっている。
 そこで、この端麗がマジックの創造過程にどう影響するのかと、疑問に思われるかもしれない。それに対する答えは、非常に多くの影響がある、ということになる。ご存じの通り私の仕事は、困難であっても取り組まなければならないのだが、関心を惹きかつ遊んで楽しいようなマジックのカードを作ることだ。このために私は、人々を楽しませるのに資するような種や仕掛けを知恵袋一杯分、駆使する必要がある。その中の最大の利器が、端麗だ。端麗な発想は、より審美的な喜びをもたらし、理解をより単純明快なものとし、多きを少なきの中に含み、そして創造過程を改良するのに役立つ。ちなみに、いかに端麗になるかという秘訣に関しては、『端麗』の記事に戻って確かめていただきたい。これらの秘訣はすべて、実際に、マジックの創造過程に適用されている。
 大概の人は端麗が何たるかについて理解していただけたと思う。大多数の人がその重要性を理解しているだろうし、あるいは少なくともそう理解することに信を置いているだろう。しかしごく少数の人しか、端麗とは一つの物事ではない、という事実を認識していないようだ。すなわち端麗は、多くの物事に対する取り組み方のことを指す。比喩を使うならばそれは、芸術家が発想を実体へと織り込んでいく際に使用する一連の利器である。単純に言ってしまえば、端麗は二つの大きな範疇に嵌め込まれる。すなわち、構想における端麗と実践における端麗だ。
 構想における端麗は、発想そのものだ。それは実体を持たないものであり、情動や認識や直観そのものであり、そして物事を「正当だと感じさせるよう」にするものだ。
 実践における端麗は、過程そのものだ。それは物事を効率的に行なう手法を探すことであり、簡潔さや焦点や指図そのものであり、そして物事を「正確に動作させるよう」にするものだ。
 この二種類の端麗は、全く異なった一連の技法にそれぞれ役立てられる。だが優秀なマジックの設計者には、この両方を駆使できることが必要とされている。つまりその設計者は、これら二種類の端麗の差異について理解していなければならない。

●あちらを立てればこちらが立たず【One Thumb Up, One Thumb Down】
 突然ではあるが、余談を挟ませていただきたい。私がここで意図するのは、記事への反応がはっきりと分かれた理由、それを私なりの解釈で手短に説明することであり、それ以上のものはない。その理由とは、人が異なればその人が応じやすい端麗の種類も異なるから、というものだ。幾分か一般化された見方であると念頭に置いていただきたいところだが、以下の三つの陣営があると私には思われる。

第一陣営:実践よりも構想における端麗の方を重視する
 これは発想に魅せられた集団だ。ここに分類される人は、構想の美に対して至上の喜びを見出している。そうであるから、彼らは構想により重い価値を置いているので、無粋な実践を通じてでも端麗な構想に辿り着くことを望んでいる。この集団が『端麗』の皮肉な並置を高く評価したのも、それが構想として非常に洗練されていたからだろう。この集団は、『端麗』を成功だったと見なすだろう。

第二陣営:構想よりも実践における端麗の方を重視する
 こちらはより実利的な集団だ。彼らが望む経験は、出来る限り楽しめるようなものだ。もし実践が無粋であるなら、彼らはそのような実践を導いた構想を決して称賛しようとはしない。無粋な実践は彼らの癪に触るのだ。この集団の多くはおそらく、『端麗』を途中で投げ出し、全てのハイパーリンクを巡らなかったのではなかろうか。おそらくあの記事には、苦痛を甘受してまで通読するほどの価値はなかったのだろう。この集団は、『端麗』を徹底的に失敗だったと見なすだろう。

第三陣営:構想と実践双方の端麗を等しく重視する
 この集団は、先の二つの間で均衡を取っているものだ。彼らは構想の端麗を称賛しようという気になりつつ、そうかと言ってそのために実践の無粋を見逃そうとは思わない。この集団は『端麗』の構想は評価しつつも、やはり全てのハイパーリンクを巡る過程で興を殺がれてしまったようだ。彼らは一部分に対して気に入ったものの、全体に対してはそう思ってはいない。この集団は、『端麗』を壮大ではあるが失敗に終わった試みだったと見なすだろう。

 いかなる類の集団分けに付き物だが、上記三つの集団に当て嵌まらない人もいるということを留意していただきたい。しかし概して、私の元に届いたのはこれら三つの反応だった。

●実践の立証
 設計者がカードを設計するために椅子に座る際には、構想と実践の双方で端麗なカードを作ること、これがその人の究極的な目標となる。そして、両方とも成し遂げてみせるときがあれば、片方だけというときもあるし、また両方とも駄目だったというときもある。これらを順に分析していこう。

第一群:構想、実践ともに端麗なカード
 この範疇には、どの設計者も自分のカードが最終的に落ち着いて欲しいと願っている。この範疇に含まれる古典的な例は、≪Time Walk≫【時間遡行。追加ターンを得る2マナのソーサリー】だ。この構想は、目を見張るほど強力だ。魔法使いは魔法を使って時間を捻じ曲げ、追加ターンを得る。これが実践するところは、非常に率直であろう。見た、得た、好きになった。こういった類のカードこそが、設計者を嬉しく思わせるのだ。

第二群:端麗な構想だが無粋な実践のカード
 これらのカードは何らかの意味で非常に洗練されたことをするが、幾つかの点では――このカードに関連した規則、カード文章の鋳型、あるいはカードがいかに機能するかに関してのメカニクス、これらの点では――幾分か野暮ったいものとなっている。これは≪Ice Cauldron≫の範疇であると言えよう。核心部では、≪Ice Cauldron≫は手際の良い構想を持っている。このアーティファクトを使えば、プレイヤーは後で使う呪文のためにマナを備蓄することができる。だがこのカードは実践では非常に交錯しており、この乱雑さの大部分は過剰な文字と不要に複雑なメカニクスに依拠するのだが、そのため多くのプレイヤーは、どう使うかを理解するより遥かに前に、これを投げ出してしまうのだ。もっとも、≪Ice Cauldron≫はこの範疇の中でも極限にあるカードであるということは、念頭に置いていただきたい。マジックには実践よりも構想の方に比重を置いたカードが多くあるが、≪Ice Cauldron≫と同程度に野暮なものはそれらの中の一握りに過ぎない。
 この範疇は、第一陣営【実践よりも構想の端麗を重視する読者】の領域に含まれる。第一陣営の群集は、洗練された効果を得るためには多くを我慢して構わないと思っている。次のことを強調しておくのは重要だ。すなわち――研究デザイン部の設計技術が発展するにつれて、我々は第二群のカードを第一群のカードへと変換する方法を見出しつつある――ということだ。例えば、数年前だと≪精神隷属器 / Mindslavor≫【プレイヤー一人の次の1ターンをコントロールするアーティファクト。専用ルールが設けられた】や≪時間停止 / Time Stop≫【ターンを終了する青のインスタント。注釈文が長い】は、≪Ice Cauldron≫とは【カードの文章を読んで理解できるが、ルール上は非常に厄介であるという形で】対極を成すものの、両方ともこの第二群に落ち着いただろう。だがカード文章の鋳型が発展するにつれ、我々はより短く簡明な鋳型を採用できるようになった。【なのでこの二枚のカードは無事に第一群に分類できるのだ。】

第三群:端麗な実践だが無粋な構想のカード
 これらのカードは、機能を満たすために作られたものだ。胸を躍らせるようなものは何も持たないが、カードとしての仕事は完遂している、というものだ。この範疇の良い例は、≪忍び寄るカビ / Creeping Mold≫【アーティファクトかエンチャントか土地を一つ破壊する緑のソーサリー】が挙げられるだろう。このカードは非常に効果的にかつ端麗に仕事をこなす。しかし、このカードの設計の核心部を吟味していただければ了承していただけると思うのだが、幾ばくか退屈に思えてこないだろうか。なぜこのカビは、これら特定の三種類のパーマネントを破壊するのだろうか。誰が知るだろうか。というよりも、誰か気に留めただろうか。アーティファクトやエンチャントや土地に対する対策カードが必要なら、この≪忍び寄るカビ≫が選択肢に入る。【以上のように、この手のカードとプレイヤーの関係は、ビジネスライクで色気も味気もないものだ。】
 第二陣営【構想よりも実践の端麗を重視する者】は機能を高く評価するため、これらの類のカードに美を見出しうるだろう。そのカードはメカニクスとして有用であり、理解が容易であるか――これが第二陣営の必要とする全てだ。ここ数年間でのこの範疇における最大の進歩は、クリエイティブ・チームの発展にある。フレーバーは、物事を一緒に束ねたり、あるいはカードの創造的な構想を綴ったりすることで形成される。平凡なカードにより強い構想上の端麗さを付与するには、このフレーバーが効果的な利器である、と示されてきたのだ。

第四群:構想、実践ともに端麗を欠いたカード
 私にはあなた方を欺くつもりは毛頭ない。こういったカードは存在する。だがこれらは我々が意図してそうなったと言うよりかは、余儀なくそうなったと言えるものだ。通常この種のカードが作られてしまうのは、そのカードが設計と開発の欠陥たる網の目を掻い潜ってしまったことに依拠する。研究デザイン部は全てのカードに焦点を当てることはできないので、どの拡張セットにもこれらの不発弾が一定数忍び込んでいる。

 ここでの教訓は――カードの端麗さには異なる水準と種類がある、そして第四群はさておき、どの種類にも最優秀候補がある――ということだ。

●危険思想
 私が『端麗』を書いた背景には、三つの主目的が念頭にあった。

第一:読者と特別な何かを共有すること――端麗という話題は、私にとって非常に特別なものだ。そうであるから、私はあの記事に多大な時間を費やした。読者によって読解や反応の微妙な差異がどれほど出てくるか、それを予期すると私は胸が躍った。読み物としての出来、またマジックの創造過程への関連性、この両方において『端麗』は今までの記事【第148回時点】の五指に入る、と私は見なしている。

第二:二種類の端麗の違いを実証すること――この構想と実践という対比は、具体例を見ない場合には理解するのが非常に難しくなる。この二種類を相違した極限に配置することを通じて、これらがいかに異なるかという明確な標本を読者諸賢に提示できたなら、私は幸いに思う。

第三:各読者に自分がどの種類の端麗を重視するのかを知らせる契機となる、そういった点で『端麗』は貴重な方策だと思われたこと――プレイヤーの陣営が異なるということについて話すのは、私にとっては容易だった。だが反応を強いるように仕向けることで、私はあなた方に自分自身について知っていただこうと思ったのだ。

 そして、我が信頼置ける読者は今、【端麗に関しての自己省察という】私がかつてあった思考過程の途上にある。もし『端麗』を楽しめたのであれば、私は嬉しく思う。もしそうでなかったのであれば、しばらくの間はあの手のことはしないと約束しよう。いつものことながら、私はどのような意見が寄せられるのか、待ち遠しく思っている。『端麗』のような、娯楽以外の目的を持った記事を私は書くべきだろうか? マジックとの関連性は、常に何よりも前面に押し出されているべきだろうか? 56キロという遅いモデムの読者に対して、私はもっと配慮するべきだろうか? もし何か意見があれば、是非知らせていただきたい。あなた方の意見や感想が、この記事の未来を形作っていくのだから。

 来週もまた参加していただきたい。遂にアンヒンジドのデザインについて、語るべき時が来たようだ。
 その時まで君たちが、何かしら第二診断を受ける時間を設けているのを願いつつ。

――マーク・ローズウォーター

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