覇者「なぁ・・・スケベしようや・・・」→気持ち悪い→終劇。
メリーラ「ねぇ・・・スケベしようよぉ・・・」→愛こそはすべて。
この違いは残念でもないし、むしろ当然だと言える。
メリーラ「ねぇ・・・スケベしようよぉ・・・」→愛こそはすべて。
この違いは残念でもないし、むしろ当然だと言える。
≪往時のカードデザイン――アルファ版で最も端麗なカード5枚はどれか?≫
原題:Design of the Times ―― What are the five most elegant cards from Alpha?
Mark Rosewater
2005年2月21日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr164
突き詰めて考えれば、執筆とは窃盗行為である。君たちが優れた考えを見出した時には、その発想が自分自身の人生における個人的な出来事であろうと、他人の人生に関する興味深い話であろうと、はたまた他の執筆者がしていることから見つけたものであろうと、その優れた考えを「借用する」ことだろう。優秀な執筆者は自分なりの捻りを【借りてきた考えに】付け足すが、結局のところ執筆とは、優れた発想の分捕り方や略奪手段を知ることだ。私の今回の記事も、例外ではない。
先日私は漫画家の書いた記事を読んだが、それは彼らが若かった頃の古典的な漫画作品に対する批評記事だった。私が非常に驚き感心したのは、漫画の非常に微細な部分全てに関して彼らが認識していたこと、またそれを文章として執筆できたことだった。そしてこの時、私は分かり始めた。何がおもしろいか、もうお分かりいただいただろうか。すなわち、芸術家は絶えず自分の芸術形式を試験している。おそらくこの考え方は、「メイキング・マジック」においても適用できるはずだ。
その一方で、私の脳裏には別の関心事があり、それは予てより熟考してきた「端麗」問題だった。ご存じの通り、一介の設計者として私は、端麗の虜だ。その度合いがあまりにも強かったので、私はほとんど知られていない道筋を示すための記事を、ある種の重要事項を叙述する試みとして作り上げた。その道筋は、『端麗』への路程と呼べる。しかしこの『端麗』という記事は、読者の多くにとっていささか「蚊帳の外に置かれた」感のするものに仕上がっていることが判明し、そのことから私は自分が端麗の概念を汚してしまったのだろうかと心配していた。事実、くだんの端麗という話題は、掲示板で拡散する冗談の類になりつつあった。こういったわけで私は、マジックのカード創造過程における端麗の重要性をより直接的かつ読者に親切な手段で明示すべく、何らかの行動を起こさなければならない、という認識を持っていた。
最初は【古典作品に対する批評と端麗問題に対する対応、これらの】どちらが甘いチョコレートでどちらが塩辛いピーナッツバターなのか、私にははっきりとは分からなかった。しかし、かつてハリー・バーネット・リース氏がピーナッツバターをチョコレートで包んだお菓子を考案したように【訳注:本当にそういうお菓子があるようです。想像するからに口に残りそうなお菓子です】、私にもそれができないだろうかとしばし悩んでいると、遂にその手の閃きが私の頭脳にも訪れ、どんな記事を書こうかという見通しを立てることができた。昔に作られた端麗なカードを何枚か取り上げ、それらが良く設計されたと感じる理由を述べる、そういった記事を書きたいと思うようになった。私はリース氏の手法を顧みているマジック設計者だと言えよう。またこの記事によって私は、実際にマジックのカードを関連付けさせながら、端麗について語ることができるだろう。私の執筆者としての直観がこう告げている。この記事はともすれば、執筆一般についての50単語のハイパーリンクの記事よりも、遥かに優れたものになるかもしれない、と。
私の最初の記事の話題は確然的に明らかだと思われる【※】――そしておそらくこの最新の記事もだと思うが、この記事の評判の良し悪しについては判断を保留させていただきたい。芸術や技法を学ぶ際には、原典や情報源に当たる必要がある、というのがそれらの話題だ。これから私はマジックの創造過程について批評を始めようとしているのだが、マジックを世界に知らしめたカードセットから始めずしては、この企図は頓挫しかねないだろう。すなわち、アルファ版から始めるより他はないと考える。また、些細な利点ではあるが、アルファ版には私自身が携わったカードが含まれていないので、私は少しばかり距離を取ることができ、それは情緒的な愛着を抜きにしてカードを分析するのに奉仕することだろう。
【※:最初の記事とは『A Nightmare To Remember』のこと。BluEさん翻訳『ナイトメアを忘れるな』http://bluemen.diarynote.jp/201408141233526484/ ――トーメントにおけるナイトメア能力はリチャードの草案によるものであり、それを元にしてチームがいかに練り上げていったかが紹介されている】
では、この記事の具体的な進み方について述べよう。私はアルファ版から五枚のカードを選んだ。判定基準は以下の五点に拠った。
1・そのカードの設計が端麗であること――すなわち、そのカードは役割を簡明かつ手際良い挙動で遂行することが求められる。以下のことを留意していただきたい――今回の記事は端麗ただ一点に話題を絞った記事ではなく、カードの創作過程に関しての記事であり、端麗とはカードの重要要素の一つだ、ということだ。
2・そのカードの設計が、プレイに重要な奥行や深みを与える造りであること――すなわち、そのカードは無数の種類に及ぶプレイの意思決定を形成するよう求められる。
3・そのカードが、優秀なフレーバーを持っていること――すなわち、そのカードはカード全体の印象を高めるフレーバーを持っていることが求められる。
4・そのカードが、私が他に挙げたものとは異なった点で、設計上の優秀な点を挙げていること――すなわち、記事を出来るだけおもしろい、かつ教唆に富ましたものにしたい、という私の個人的な願望が、カードの選定に非常に強い影響を与えた。
5・各色につき一枚のカードを挙げること――これは至極真っ当なことと思われる。
以下のカードの目録は、上位五枚のカードというわけではない。どんなカードが最上のものと考えるかに関しての、私の意見表明ではない。この記事は、リチャード・ガーフィールドによる華やかな創作活動に対しての、私なりの賛辞だ。御託は、いつもの悪い癖は、これくらいで十分であろう。
●神の怒り≪神の怒り / Wrath of God≫
(2)(W)(W)、ソーサリー、レア
すべてのクリーチャーを破壊する。それらは再生できない。
すべてのクリーチャーを破壊する。簡明であり、要を得ていて、そして非常に洗練させている。何と言っても、マジックは核心にクリーチャーがいるゲームだ。平易にそれら全員を一掃するという能力は強力なものだ。事実≪神の怒り≫は理屈抜きの直感的な迫力を持っているので、フレーバーテキストを設ける余地があるものの我々は意図的に空白のままにしてあるという、基本セットでは少数派のカードの一枚となっている。
しかし、これがこのカードの本領ではない。リチャードの傑作の真価を計るには、マジックの中心部へと深掘りしなければならない。その中心部に至れば、マジックが資源管理のゲームであることに気付かれるはずだ。対戦相手のライフ総量を零に叩き落とすという重要な目的を達成するために、各プレイヤーは自分の資源を最大化しようと試みている。そうであるから、マジックには資源獲得について詳述するカードが数多く含まれているのだ。資源という単語をパーマネントという単語に置き換えた方が、読者にとっては馴染み深く理解し易いものになるかもしれない。極度に単純化された視座ではあるが、また私のここの記述も簡単に割り切っていただきたいのだが、プレイヤーは対戦相手より多くのパーマネントを戦場に残したいと思うものだ。あるいは少なくとも、自分のパーマネント全体のカードパワーが対戦相手のそれを上回っていることを望んでいるはずだ。そこで、これを実現するには二つの基本的な方法がある。第一は、対戦相手がするよりも多くのものをプレイすることで、第二は、対戦相手のパーマネントを取り除き、自分のそれが数や力で上回るようにすることだ。
ゲームにおける大多数の除去が一対一交換の単体除去だ。例えば≪闇への追放≫は、自分の手札のカードと対戦相手のクリーチャーとの取引だ。だが一対一交換の除去はゲームで鍵となる構成要素、キャッチアップという追い付きの要素には貢献しない。すなわち、ある時点で対戦相手の手札と戦場のカードを合計が自分のそれより多くなると、一対一交換を続けても自分が相手に追い付くことは不可能となってしまう。そこでゲームの設計として重要なのは、遅れを取っている側のプレイヤーが対戦相手を飛び越えるための仕掛けの存在だ。その仕掛け無くしては、ゲームは【先手必勝という】運命づけられた退屈なものになるだろう。
以上が意味するところは、こういうことになる。マジックは全体除去を、つまり複数のカードを処分することができるカードを、必要としたのだ。しかし全体除去は不均衡の類の問題を孕んでいる。確かに良い面が一方であるものの、その不均衡な側面はかの追い付きの要素だ。マジックとは技巧のゲームであり、プレイヤーは自分の命運に対する無力さを感じたいとは思っていない。【もし全体除去が「唱えれば勝ち」のような手軽で強力なものならば、そういうカードを引くか引かないかという、先手必勝でないにしてもやはり運任せのゲームになるだろう。】したがって全体除去のカードは、それに見合うだけの対価が支払われることを必要としている。このあたりこそ我々が、一つの逆説が忍び寄ってくるのを見出したところである。もしカードの代償が高ければ、遅れを取ったプレイヤーはそれを使う機会を一度も得られなくなるかもしれない。【しかし代償が安ければ、ゲームは運任せになってしまうかもしれない。】では、どのようにプレイヤーに追い付き要素を与えつつ、なおかつ技巧をゲームから取り除かないように留めておけるだろうか。
≪神の怒り≫はこの古典的な課題に対して、非常に端麗な方法で解答を提示した。これは全員に影響を与える。ご存じ、君たちは対戦相手の全てのクリーチャーを破壊できるが、対価として自分のものをも差し出さねばならない。遅れを取っている場合には、このような取引に喜んで応じられるだろうが、しかしゲームが大詰めを迎えている場合には、それほど安易な決定を下すことはできなくなる。全体除去の影響範囲は全員に設定されているので、プレイヤーはその有用性を状況に応じて割り引く必要があるのだ。
だが≪神の怒り≫という鬼才はここで終わらない。存在すること自体が抑止力であり、これがゲームにクリーチャー管理という別の側面をもたらす。この構想を理解するために、ゲームには一枚の全体除去も存在しないと想像していただきたい。クリーチャーを手札に引き入れた際には、クリーチャーを並べ過ぎることに対する脅威は何もないのだから、手札に残すよりも余さず唱えてしまう方が良いだろう。だが現実には≪神の怒り≫を始めとする全体除去の存在により、どの程度のクリーチャー基盤なら常に展開して良いと思えるのか、プレイヤーはそれを何とかして見極める必要がある。プレイヤーが能動的になりうるのは、彼らが「クロックを上げる」のを望んでいるとき、つまり手番毎に与えるダメージを増やしてゲームを素早く終わらせたいときで、一方で彼らが受動的になりうるのは、彼らの勝ち筋が後出しとして振る舞うべき資源を必要とするようなときだろう。
最後に、このカードは白のフレーバー上の問題を解決する手立てになっている。白は、平等の色だ。白は特別扱いを好まず、代わりに、皆が従うべき規則を制定するのを望んでいる。そうかと言って白は、自分を人目につくよう振る舞おうとはあまりしない。では、自分が他者より一段の高みに着くことを望まない状況で、それでも優位性を得ようとするには、どうすれば良いだろうか。平等を武器に転じさせる方法を見つければ良い。平等よ、能動的かつ攻撃的に実現されよ――≪神の怒り≫はこの呼びかけに応えるのだ。戦場を平等化することは、そのプレイヤーが負けている状況において、あるいは、いつどのように計画され引き起こるのかを知っている状況において、極めて能動的な行為である。≪神の怒り≫は最も防御的な色に、幾ばくかの武器を与えている。
以上のように、≪神の怒り≫は追い付きの要素であり、ゲームの最重要資源の一つであるクリーチャーの管理に対して、戦略的な奥行と深みを付与している。そしてそれはフレーバーに満ち溢れている。非常に洗練されていると思わないだろうか。
●送還≪送還 / Unsummon≫
(U)、インスタント、コモン
クリーチャー1体を対象とし、それをオーナーの手札に戻す。
大きくて費用のかかる効果から、楽に手に入る小さな効果へと議論を移させていただきたい。公衆は豪快で派手なレアカードに思いを馳せがちだが、ゲーム設計者にとっての聖杯は端麗なコモンカードなのだ。設計者が創造したいと願う効果は、コモンたるに十分相応しいほど単純なものでありつつ、プレイの奥行きと深みを与えるに十分相応しいほどゲームに関連性を持つもの、このような効果だ。≪送還≫は、そういったカードの一つだ。
手始めに、このカードがいかに青の長所と短所に深く絡んでいるかについて考察していこう。青はリチャードの手によって除去が最も薄い色として創られた。この決定の背後にあった事情は、彼は打ち消し呪文を青に宛がうことにしていた、というものだった。打ち消し呪文は非常に強力なので、青に大きな弱点を設ける必要性をリチャードは認識していたのだ。パーマネント破壊ができないこと、このことは、呪文の解決を判定できる青の能力の代償として、折り合いがつくように思われた。青はどんな呪文でも打ち消すことができるが、一度その機会を逃してしまえば、問題を抱え込むことになる、というわけだ。
設計段階で打ち消し呪文が創られたことにより、青使いは継続的に選択を行なわなければならなかった。彼らは全てを打ち消せるほどの贅沢は持ってないので、どの呪文をそのまま通すかを選び抜く必要があった。このことから、青の魔法使いにはパーマネントに対処するための何らかの資源が与えられるべきだ、と考えられた。パーマネントは破壊できないということなので、リチャードは他の選択肢を探し始めた。盗み出す【≪支配魔法≫や≪秘宝奪取≫】、機能停止させる【≪幻影の地≫や≪枯渇≫】、関税をかける【≪魔力漏出≫】、使用する対戦相手を罰する【≪地の毒≫や≪フィードバック≫】などが作られた――特筆しておくと、青はいささかパーマネントへの対処が得意過ぎたため、これらの品目の多くは長い年月をかけて他の色に移されたのではあるが。【閑話休題、】そして、最も関心を惹く回答が、パーマネントを元に【唱えられる前の状態に】戻す、というものだった。魔術師がクリーチャーを戦場に召喚する魔法を使えるのであるなら、青の魔法使いはそれを元に戻すことはできないだろうか【という構想だった】。つまり、クリーチャーを手札へと送り返すのだ。
≪送還≫の鬼才は、カードは戦場から墓地以外の領域へ移送されることによっても除去されうる、という発想にある。特に移送先が手札である場合には、≪送還≫の使用者は汎用性を得るので、設計の観点からして興味深いものとなる。ご存じの通り、通常、カードの除去はゲームの展開を前に推し進める。どの観点から見ても事実上、墓地に置かれたカードは用済みのものだ。例えば、屍術師が立ち現れない限り、≪ショック≫で焼かれたクリーチャーは最早ゲームに影響を与えない、といった具合に。
≪送還≫の功績は、戦場に出ているという価値とカードの将来的な潜在性とを分け隔てたことだ。すなわち、≪恐怖≫はこのターンだけ≪灰色熊≫を抑止するだけでなく、以降の全てのターンをもその熊を抑止する。それに対して≪送還≫は、戦場に出ているクリーチャーという脅威に対処はするが、カードの潜在性については触れずに済ましている。そうすることによって≪送還≫は、青にとってまさに居城である領域に干渉し始めるのだ。つまり、時間という領域だ。クリーチャーをオーナーの手札に戻すことは、そのクリーチャーを一時的に、その場限りに、抑え込むに過ぎない。≪送還≫は問題に回答を与えるのではなく、プレイヤーが回答を探し当てるまでの時間稼ぎをするだけだ。往々にしてその回答は、打ち消し呪文である。≪送還≫を唱えることで青の魔術師は、そのクリーチャーを打ち消しから掻い潜らせるか否かの選択の瞬間を、再現することができるのだ。
古式ゆかしい除去カードは、ゲームにカードアドバンテージを、つまりカードやカードパワーを最も多く利用できるプレイヤーがゲームに勝つという発想を、もたらしたと言えよう。だが≪送還≫はテンポアドバンテージをもたらした。テンポアドバンテージの背後にある考え方は、手札から実際に離れることがなくともカードは死に札たりうる、というものだ。手札にあるカードで、プレイできないものは、相手から捨てるよう強要されたカードと非常に似通っている。
同様に≪送還≫は、二重の機能性を有するという便益を付与した。マジックの大多数のカードは、攻撃的であるか防御的であるかのいずれかだ。例えば、≪恐怖≫はほぼ常に対戦相手のクリーチャーに対して、≪巨大化≫はほぼ毎回自分のクリーチャーに対して、それぞれ唱えられるだろう。しかしながら中には≪送還≫のように、相手と自分のどちらに対して使うかによって、異なった挙動を行なうカードもある。対戦相手のクリーチャーに対しては、≪送還≫は攻撃的なテンポ・カードとなる。自分のクリーチャーに対しては、≪送還≫はより防御的なものとなる。二重の機能性を持つことで、≪送還≫は分割カードのように機能する。そして時代の流れが幾度となく示しているように、マジックにおける多才なカードは、それと同量の金【ゴールド】に匹敵する価値があるのだ。
≪送還≫の最後の有効性は、それがもたらすマナの不均衡だ。ここで思い出していただきたいのは、マナが源泉となって資源管理のゲームが成立している、ということだ。もし私がマナ生産において君たちを十分に凌駕すれば、私が勝つという見込みが強くなるだろう。これが、≪送還≫が往々にして良い仕事をする所以だ。この呪文には一マナだけ費やされるので、対戦相手はおそらくそれ以上のマナを費やすことになるだろう。適切な時機であれば、この【マナの不均衡という】効果は極めて大きな効力を示しうる。
興味深いことに、青は他の色とは非常に異なった様相でゲームに着手しているように見える。このことが一因となって、私は青が歴史的に環境を支配してきたのだと考えている。プレイヤーは自分のパーマネントに対して対戦相手が干渉してくるのを計算に入れるものだ。だがマナや時間に対してはどうだろうか。平均的なプレイヤーは事実上、盤面から手札へと跳ね返すことはできない。そして≪送還≫はこれらを青一マナでこなすことができる。
●夢魔≪夢魔 / Nightmare≫
(5)(B)、クリーチャ――ナイトメア・馬、レア、P/T=*/*
飛行
夢魔のパワーとタフネスはそれぞれ、あなたがコントロールする沼の枚数に等しい。
この指名には、些か驚いた読者がいるのではないだろうか。アルファ版の黒のカードの中から、私はどのような経緯でこの一枚を語ろうと選び取ったのか。そう、手始めに――かっこいい名前だ。また、不吉に空を飛ぶ燃え盛る馬だ。どれも誂え向きの性質だ。しかしながら、確かに非常に良くできたフレーバーだと皆認めるべきではあるが、これら≪夢魔≫のフレーバーが私を引き込んだわけではない。私がこのカードを語ろうと決めたのは、創作過程における端麗の特異な一例だからだ。私が他の候補に選んだカードは、多くが機能性を変える能力を持ったものだった。≪夢魔≫が変更するのはパワーそのものだ。そしてそれは非常にフレーバー溢れる方法で行なわれる。
実際に、フレーバーの面から論じていこう。往々にしてプレイヤーはフレーバーについて思慮を巡らす際に、カードの名前、絵、フレーバーへと目を向けるものだ。多くの人々が失念しているのは、メカニクスもまた大きなフレーバーを伝えうるということだ。≪夢魔≫はその完璧な具体例だ。不思議に思われるかもしれないが、順を追って考えていこう。まず≪夢魔≫のメカニクスが黒全般の主題にいかに関連しているか、述べさせていただきたい。マジックにおける各色は、それぞれが主体性を、自他の区別とする指標を持っている。黒はそういった特徴の一つとして、より多くの黒魔法を使わせるためプレイヤーを引きずり込もうと願望している。黒それ自体が一つの魔法であり、プレイヤーに、黒を使おう、また黒だけを使おう、と誓約させようと叱咤激励している。そしてリチャードは、このフレーバーを巧妙で緻密なものに仕立て上げた。彼は黒の呪文が他の四色より強い色拘束を持つよう取り計らったのだ。より多く黒を使っているほど強力になっていく呪文や【≪生命吸収≫や≪凍てつく影≫など】、デッキに大量の黒いカードを入れるよう推奨するような、黒い呪文の間に働く相乗効果が【≪不吉の月≫や≪ゾンビ使い≫など】、それぞれ数多く作られた。≪夢魔≫はそういったカードの一つだ。沼をより多くプレイしているほど、≪夢魔≫はより強くなる。プレイヤーは黒単デッキにする必要はないが、黒単でなければ≪夢魔≫はそれほどの脅威でなくなるだろう。そしてこのフレーバーは、名前や絵やフレーバーテキストから伝達されるものではない。すべてメカニクスから生じて来るものだ。
次にフレーバーを離れて、カードパワーについて言及していこう。マジックのカードの大多数は静的だ。ここで言う静的とは、どの手番においても同じカードパワーを持っているということだ。例えば≪灰色熊≫を唱えたとき、それは第二手だろうが第十手だろうが、常に同じカードパワーを持つ。そして利用可能な力に比例して――マナ体系は手番の進行に沿って漸次的にカードパワーを高めていくためのものなので――≪灰色熊≫は時間が経つと見劣りしていく。だがリチャードは、非静的なクリーチャーの存在が重要であると認識していた。非静的なクリーチャーとは、その価値が時間の経過によって変動する可能性のあるクリーチャーだ。このようなクリーチャーを設けることには、三つの重要な意義がある。
第一に、不断にカードを入れ替えなくとも、カードパワーを段階的に引き上げることが可能になる。ゲームが進行するにつれてカードパワーの水準が漸増していくとき、マジックの楽しみは増す。これらの中には、その後で使われたより強力な呪文によって対処されてしまうカードがあることだろう。だが非静的なクリーチャーは、この難解な絵合わせにおいて別の欠片である【ので、簡単には対処されない潜在性を持っている】。第二に、非静的なクリーチャーは、プレイの選択肢をより関心の引くものに創り上げる。例えば、≪夢魔≫は沼に依存すると周知させることで、プレイヤー双方の決断に何らかの変化が起こりうる。君が既に五枚の沼を場に出している場合であっても、対戦相手は戦略上必要と判断して≪石の雨≫で≪沼≫一枚を叩き割りに来るかもしれないのだ。第三に非静的クリーチャーは傾向として、資源管理問題を均一化するのに貢献する。なぜならば非静的クリーチャーは通常、何らかの資源を模倣するかのようにカードパワーを変動させているからだ。これが意味するところは、問題となるその資源は、当該プレイヤーにとって追加の価値を帯びたものとなる、ということだ。これを≪夢魔≫に当て嵌めてみよう。ゲーム後半に≪沼≫を引き当てることは一見では無意味に思えるものの、≪夢魔≫が戦場にあればすべての沼が重要となっているので、最早そのドローは無意味でなくなるのだ。
ご覧のように、愛らしい火の馬というだけではないのだ。
●地震≪地震 / Earthquake≫
(X)(R)、ソーサリー、レア
地震は、飛行を持たない各クリーチャーと各プレイヤーにそれぞれX点のダメージを与える。
全体除去に関しては≪神の怒り≫の項で既に述べたので、それ以外の≪地震≫の側面についていくつか焦点を当てていきたいと思う。まず、拡張性と私が呼ぶ様相を吟味していこう。すなわち、より多くの資源を、ほとんどの場合それはマナだが、それを注ぎ込むことで効果を強めることができる、そういった呪文のことだ。これらが果たす役割を見てみよう。ご存じの通り、資源管理の均衡のためにマジックが採用しているのは、マナ体系だ。自分の手番ごとに一枚しか土地をプレイできないと定めることで、強力な効果が立ち現われるのをゲームはごく自然に減速させている。だが、これには些か問題がある。マナ体系によってプレイヤーは、マナ曲線に沿うようなデッキを組むよう強いられてしまう。すなわち、自分のデッキが序盤の手番に有効な手を打てない場合には、そのプレイヤーは痛い目に遭うということだ。例えば、唱えるのに四マナ以上必要な呪文しか入っていないデッキを使うのは、非常に困難であるはずだ。と言うのも、対戦相手に三手も四手も先んじて渡すような余裕は、どのデッキにも無いからだ。
このことからプレイヤーは、ゲームの進行によって変動するマナ域の中で、【序盤、中盤、終盤というゲームの段階に応じて、】呪文を唱えざるをえない。そうであるからには、彼らには巨大な効果を持つ大型呪文を使う余裕は、【終盤においてのみ】僅かしか与えられていないということになる。これこそ、リチャードが拡張可能な呪文によって解決しようと試みた問題だった。≪地震≫は≪恐怖≫や≪紅蓮地獄≫、≪燎原の火≫や≪インフェルノ≫になりうる。この呪文は利用可能なマナ域に当て嵌まるよう拡大するのだ。
今ここで私は、大学での体験を思い出した。映画の座学で、古い映画を鑑賞していたときのことだ。私にはその映画が退屈に思えてならなかった。私が当然として捉えていた映画における技巧的な約束事は、それらが既に映画という情報媒体の主要素になっていたからこそそう思え得たのだが、やがて教授が説明したのは、そのような約束事は【銀幕の黎明期の】この映画以前には存在しなかったのだ、ということだった。この時を境に、私は映画の授業に興味を持つようになった。それまで存在しなかった映画上の約束事に対する必要性を、監督、脚本家、編集者、カメラマンがどのような経緯で認知するに至ったか、また彼らがいかにしてその必要性を満たすべく品目を創っていったか――これらに対して理解することは、まさにマジックの創造過程においても訪れる瞬間の一つだ。X呪文は今日では疑念の余地が無いほど分かりやすいものかもしれないが、それもリチャードがゲームに必要だと理解していたからこそ生み出された賜物だ。
このカードの興味深い設計上の様相は、私が「目盛り盤の効果」と呼ぶものだ。このカードは効果を拡張することができるので、プレイヤーの一連の決断に興味深い影響を与える。≪地震≫はどれほどの大きさであるべきだろうか。大抵の場合その答えは、「可能な限り最大にする」だ。これ以上ないほど巧みに唱えられた≪地震≫は往々にして、まさに寸分違わずに仕事を遂行する。そしてこのことが、プレイヤーの一連の意思決定に非常に深い奥行きを与えている。
留意していただきたいのは、これらの意思決定はその時に至るまでに限ったことではなく、それから先においても非常に重要な規定になる、ということだ。具体例として、君の手札に≪地震≫があると想定してみよう。その≪地震≫の存在は、いつクリーチャーを唱えるか、またどのクリーチャーを唱えるか、という君の判断を規定するし、立場上その≪地震≫を先読みしなければならない対戦相手をして、類似した対応を取らせることになるだろう。
最後になったが、私はここまで不注意にも、このカードのフレーバー上の美点について称賛を挙げてこなかった。私が思うに、フレーバー上の目的のためにメカニクスに追加の制限を課すのは、非常に注意深く取り扱われるべきことだ。しかし≪地震≫における「飛行を持たない」という制約は、見事なものだと思う。
概して≪地震≫は、良く設計されたカードに求められるものを全て持っていると言えよう。強力で、融通が利き、関心を引く意思決定を創り、そしてフレーバーを釘付けにしている。これ以上何を求めることができようか。
●巨大化≪巨大化 / Giant Growth≫
(G)、インスタント、コモン
クリーチャー1体を対象とする。それはターン終了時まで+3/+3の修正を受ける。
【英語版:Target creature gets +3/+3 until end of turn.】
さて、我々は緑をもって締め括りを迎える。心配はご無用で、緑は第一級の華を持っている。≪巨大化≫が素晴らしいのは、僅かなことを以って多彩なことを為せるからだ。カード設計における端麗の本質が欲しいなら、≪巨大化≫を数秒間見つめるのが良い。私が以下に話を進める間、英語版のこのカードが僅か八単語のルール文章で成り立っていることを――なるほど、技術上は七単語に「+3/+3」の勘定を加えた文章だが、ともあれ――是非念頭に置いていただきたい。
それでは≪巨大化≫の何が偉大なのか。おそらくこのカードの最も重要な側面は、クリーチャーの戦闘に影響を与えるということだ。≪神の怒り≫の項で既に述べたことだが、マジックは、その要所、その核心として、クリーチャーのゲームである。大量のお便りが届く前に急いで強調させていただきたいが、私は何も、このゲームがクリーチャーに従属的に規定されていると言いたいのではない。そうでないことは重々承知している。確かに、クリーチャーを一切使用しない優秀なデッキも、数多く存在している。しかしながら、クリーチャーという脅威は絶え間なくゲームに現存する。ダメージをマナコストで測量した場合、クリーチャーが最も効率の良い資源となる。一体の一マナ1/1のクリーチャーは、それ一枚でゲームに勝利する潜在性を有している。非クリーチャーの一マナ呪文には、20点のダメージを与えられる潜在性を秘めたものは一枚もないのだ。いや、訂正しよう、「ほとんど一枚もない」だ――≪魔力激突 / Mana Clash≫についてお便りを送るような真似は是非自重していただければ幸いだ【≪魔力激突≫:赤一マナのソーサリー。自分と対戦相手の双方が同時に表を出すまでコインを投げ続け、裏が出るたびにそのプレイヤーに一点ダメージが飛ぶ】。
何はともあれ、クリーチャーはマジックのゲームで非常に大きな役割を演じている。そしてもし両方のプレイヤーがクリーチャーを有していれば、クリーチャー同士の戦闘が次に問題になってくるだろう。だがここに、クリーチャーの戦闘に、根本的な問題があるのだ。【もし≪巨大化≫のようなコンバット・トリックがなければ、】大体の場合戦闘が退屈になる、という問題だ。なぜそうなるかと言うと、全ての情報が公開されているからだ。私が3/3のクリーチャーで攻撃する際、対戦相手の防御の選択肢を全て知っているからこそ私はそうするのだ。もしどれか一つでも私の意に沿わない選択肢があるなら、私はほとんどの場合攻撃しないことを選ぶはずだ。しかし≪巨大化≫やその系譜のカードの存在は、こういった全ての状況を一新させる。≪巨大化≫はクリーチャーの戦闘に色気を付け足し、推理や不可解性、緊張や不確定性の気風を帯びさせる。もはや私は、公開情報である盤面の上では不利であっても、3/3のクリーチャーで攻撃しうる、ということになる。そして、その決断には自分の手札に≪巨大化≫が実際にある必要がないのだ。カードがただ存在しうるという抑止力には、対戦相手の行動を変える可能性がある。カードがデッキに入ってさえいない場合でも、【「飛んでくるかもしれない」と対戦相手に思わしめ、】役割を果たすかもしれない。もっとも、そうなるのは自分のデッキが緑を含んでいる場合に限られるだろうが。【いずれにしても】これは強力なカードだ。
さらに、≪巨大化≫はその多芸性の点で、成績優秀の評価を私から勝ち取っている。以下にいくつか、このカードが為しうることを列挙しよう。
・対戦相手に追加の三点ダメージを与えること。≪火炎噴流≫などに相当。
・自分のクリーチャーに、太刀打ちできなかった相手のクリーチャーを破壊させること。≪恐怖≫などに相当。
・致死ダメージによる破壊からクリーチャーを守ること。≪治癒の軟膏≫などに相当。
・パワーを参照する能力や効果を更に高めること。これに直接的に相当するカードは存在しない。【≪巨大化≫は≪Berserk≫の効果を「より強いものにする」のであって、≪巨大化≫がそれ一枚で直接的に≪Berserk≫の役割を果たすわけではない。】
・タフネスを参照する能力や効果を更に高めること。相当するカードは、同上。
それにしても、八単語だ。50のハイパーリンクで端麗だと言うのは、余りにも長過ぎたということだ。八単語で試みなければならない。端麗の広報ポスターの子供役としては、このカードの他に適任なのはないだろう。これは僅かなことを以って多彩なことを為す。また、端麗なフレーバーを持ってさえいる。これはきっと、彫刻家たちがフローレンスを旅しミケランジェロのダビデ像を目の当たりにしたときに感じるのと、同じ感覚ではないだろうか。彼らはおそらく部屋の後ろの方に座り込んで、「これを上回るには、一体どうすれば良いのだろうか」と自問したに違いない。
この問いかけこそ、私が≪巨大化≫を見たときに感じたものだ。カードは非常に単純であるのに、プレイには狂気と隣り合わせの奥行きがあり、まさに肝が潰されたとはこのことを言うのだ。
●設計を終えて【原文:Design Off】
本日の記事が読者諸賢にとって、マジックのカードの図案の美について、何らかの価値を認める契機になれば幸いだ。すべての断片が集まることで、出来の良いカードは一つの芸術のようになるのだ。この記事を、マジック博物館の黎明期区画を歩いたかのように捉えていただきたい。
来週もまたご覧いただきたい。六番目の色について語るつもりだ。いや、それは実際には六番目の色でないのだが、
その時まで君たちがゲームの最中に一瞬でも、自分がプレイしようとするカードの真価、それを見定める時を設けているのを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
●お待ちください、まだあります【原文:But Wait There’s More――アメリカの通販司会者ロン・ポウピール氏の口癖】
二週間後もまた、テーマ週間ではない。つまり、私は何か話題を自前で用意しなければならない。そして薄々気づき始めたのだが、どうも私にはその話題が思いつかない。そこでこうすることにした。今週中に、このメイキング・マジックで私に語ってほしい話題を【メールで】伝えていただきたい。いかなる話題も制限されない、どんな話題でも構わない。もし私に何か語ってほしいものがあるなら、今回がその機会だということだ。
次週は【順当に進めば】楽しい企画になるはずだ。私の想像力をくすぐる話題を寄せられた全体の中から一割選ぶので、次週の記事では君たちにその中から更に選んで投票していただく。そのまた次の週に私は、君たちの投票の上位二つの話題を織り込ませた記事をお披露目する、こういう算段だ。上位二つだ――私はちゃんと明言したぞ。私の仕事は上位二つの話題をどう織り交ぜるか考えることであり、かつ、それをマジックの創造過程に関連付けさせることであり、かつ、その記事を楽しいものにすることだ。
なぜこのような企画をするのか。なぜ魔術師ホーディニーは、拘束服を着せられ、箱に厳封されて、海に投げ込まれたのか。君たちならどちらも答えは分かっているだろう。「ただ刺激を求めたから」だ。これから起こることを目の当たりにするのが、私には非常に楽しみでならない。
だがそのためには、まず君たちの手番から始めなければならない。是非、私に話題を送っていただきたい。
コメント
既にご存知なのかもしれませんが、自分はマローコラムの翻訳記事のまとめを作成しております。そこで、土門丈祐さんの翻訳記事もこちらのリストに加えさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?
こんにちは。いつもありがとうございます。BluEさんの記事は予ねてより参照させていただいてましたので、一覧に加えていただけるのは嬉しく思います。今後ともよろしくお願いいたします。