正直なところ、今更な話題ではあります。
 沼、沼、ダリチュ、3点ペイ。盾持ち。

≪優秀なカードが不遇な扱いを受けるとき――バッパラ、ラノエル、そして基本セットのローテーション≫
原題:When Bad Things Happen to Good Cards ―― Birds, Elves, and base set rotations
Mark Rosewater
2002年7月29日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr31
【原題の元ネタはクシュナー著『When Bad Things Happen to Good People / 善良な人間が悲運に見舞われるとき』――邦訳は岩波書店から『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』という題で出ている】

「あらゆる創造行為は、まず何よりも破壊行為から始まる」――パブロ・ピカソ

●バッパラかラノエルか
 数週間前の「第8版を選ぼう」企画において、我々は諸君に≪極楽鳥 / Birds of Paradise≫と≪ぶどう棚 / Vine Trellis≫の組か≪ラノワールのエルフ / Llanowar Elves≫と≪ユートピアの木 / Utopia Tree≫の組か、このいずれかに投票していただいた。勝者には第8版の収録枠が保証され、敗者にはその可能性が絶たれるという企画だ。【どの四枚も緑のマナクリーチャーだが、バッパラとラノエルはアルファ版から第7版にかけて全ての基本セットに収録され続けてきた皆勤賞の2枚だ。】そして投票の結果、≪極楽鳥≫と≪ぶどう棚≫の組が勝者となった。
 今回の記事で私は、みんなの口から囁かれた疑問に対して回答していこうと思う。すなわち「なぜ?」という問いだ。「なぜ研究デザイン部は、バッパラとラノエルの片方を除外する必要があったのか?」――これをヨリ広義的に言い換えると次のようになる――「なぜ黎明期から存在してきた古典的で優秀なカードが、ローテーション落ちしなければならないのか?」
 ともすれば私は疑問をヨリ複雑に言い換えてしまっただけかもしれない。以下に理由を複数記すことで、その回答とさせていただきたい。

●1:創造面における飽和を避けること
【Avoiding Creative Glut】
 創造面における飽和? 何ぞ? ローズウォーターよ、まともな言葉を使いたまえ――そんな苦情が聞こえてきそうだ。私の趣味の一つは創造的な思考について研究することだ。実際のところ、ロジャー・フォン・イーク著の『自分の頭の横側を見る方法 / A Whack on the Side of the Head』【副題「ヨリ創造的になる秘訣 / How You Can Be More Creative」】が私のお気に入りの一冊だ。フォン・イーク氏はこの本で、誰もが創造的になることができると主張している。それがなかなか実現できないのは、彼の言葉を借りると「十の知的拘束【mental locks】」が存在するからだ。頭が何らかの形で囚われているがために、人々は自分自身の創造性を閉ざしてしまっているのだ。余談ながら気付いた人のために言及しておくと、デュエリスト第4号収録の『マジックにおける十の知的拘束』という題の、今までで指折りの出来と思う記事は、この本に触発されて書いたのだ。
 閑話休題。フォン・イーク氏が三番目に挙げた知的拘束は、「規則に従うこと」だった。その章は、私が冒頭に挙げたのと同じピカソの言葉の引用から始まっている。フォン・イーク氏は続けて、創造的思考にとって最大抑止力の一つとは、既に存在する規則に則って物事をなしたいという願望である、と述べている。「私にはそれはできない。なぜなら規則がそうしてはいけないと定めているからだ」という心意気のことだ。
 この問題は人間の創造性に大いに影響を及ぼす。数週前の記事『禅とサイクル修理技術』で書いたことだが、人間は構造を非常に欲しがるものだ。以下に具体的に例を挙げてみよう。今ここに創造的な人物が、新奇で革新的な発想を提示してきたとしよう。周りの人間もそれを気に入ったとする。創造的な彼は、その発想を敷衍しヨリ詳しく述べることだろう。しかしながらそうして受け入れられる新奇な発想であっても、それに対峙するように存在してきた従来の発想と比べると、革新性の点ではそれほど変わらない――なぜならば既存の発想において人心を掴んでいたある種の因習が、新奇の発想にも含まれているはずだからだ。つまりその創造的な彼は、知らぬ間に構造の中に絡め捕られていたのだ【そしてそうであるがために、周りの人は彼の発想を「新奇な」と形容しながらも受け入れたのだ】。どの新世代の考え方も、先行する世代の考え方からヨリ多くの遺産を継承している。とどのつまり、創造的な人物が作る発想は因習の上に作られていて、ほとんどあるいは全く革新と関わりが無いということだ。以上のような創造性の停滞ないし退廃を、私は「創造面における飽和」と書いたのだ。
 これを踏まえて「創造面における飽和」という考え方をマジックに適用してみよう。リチャード・ガーフィールドが企画設計したマジックは、その初期のカードの多くが我々には「不朽 / timeless」と呼べるものだ。彼の手掛けたカードは端麗で、根幹を成す能力を持ち、理解に容易く、フレーバーに満ち溢れたものだ。そうであるが故に、以後の基本セットにおいて、開発チームはそれらのカードを把持し続けようと意気込んだのだった。だが各年につき三つの新セットが封切となり、そのそれぞれが新たな「不朽」のカードを少しずつ追加していった。それらのカードは基本セットに随時加えられている。この点について我々に与えられる選択肢は、次の二つに一つだと言えよう。すなわち――第一は、【収録カードを固定して】基本セットに空きを設けないという選択であるが、この場合は新たなカードを順繰りに収録させるのは諦めなければならない――第二は、【新規カードの枠を空けるために】時には「不朽」なカードの何枚かにも収録漏れをしていただくという選択である。第8版のラノエルが実演したように、我々は後者の道を選んでいる。

●2:デザイン上の気兼ねや制約を緩和すること
 緑のフレーバーの一つに、マナ生産の能力がある。とりわけ小型クリーチャーの存在が緑という色に永続的なマナ加速の力を宛がっている。時にはこのマナ加速によって、緑は緑以外の色マナにも手が届くことがある。設計者として私は、この豊穣な領域を開拓するのが楽しみで楽しみで仕方がない。だがそれを実行することはできない。なぜならば、新しいデザインの余地が残されていないからだ。
 ご存知、ラノエルとバッパラのカードパワーは階層秩序の最上部に位置する。かつての研究デザイン部が製作しただけあって、まさに優秀そのもののカードだ。だから競技環境で渡り合えるほどの緑のマナクリーチャーを新たに印刷するためには、そのカードがラノエルにもバッパラにも見劣りすることなく、さりとてそのどちらよりも強力にならないよう、細心の注意を以って図る必要がある。この七年間の私個人の経験の中で、マジックの設計者として上記の課題を克服できたのは、≪熊人間 / Werebear≫【2マナ1/1、タップで緑マナを出し、スレッショルドなら4/4になる】の一件だけだと思われる。
 設計における大きな秘訣の一つなのだが、ある種のカードの存在それ自体が他の数え切れないほどの発想の抑止力となっている。ラノエルは素晴らしいカードには違いないが、第8版を以って暫くの暇を取ることになる。そうなることで初めて、他のカードにもプレイの日の目が当たることになるのだ。

●3:変化の契機を設けること
 研究デザイン部の自明の理の中に次のようなものがある――マジックはカードよりも大きなものである――すなわち、マジックというゲーム全体は、個々のカードの総和よりも大きなものである。例えば全カードの中から任意の十枚を選んだとして、その十枚の存在を時間遡行によってこの時空連続体から抹消したとしよう。果たしてそれでどうなるだろうか? それでもなお、マジックというゲームは存続し続けるだろう。もっとも、画面の向こう側の切れ者はこう問い返すだろうが――「それではその十枚の中に、五種の基本地形を選んだらどうなるかしら?」
 よろしい。それでは次は、五種の基本地形に加え、諸君がこのゲームの中で最重要と考える他の五枚のカードをも、存在しないものとして考えてみよう。それでもなお、マジックはゲームとして消滅しえないはずだ。当然その姿は違ったものになっているだろう――基本地形が不在であるために、ともすればデュアルランドが代わりに現役かもしれないし、デュアルランド健在ならばペインランドの存在意義は無に帰すことになるだろう。いずれにせよゲームとしてのマジックは、その十枚が不在であるという変化に対して、致命的な影響をもたらすことのない取るに足らぬものとして振る舞うだろう。今回の企画に沿って換言するならば、確かに≪ラノワールのエルフ≫を失うことで【ローテーションがある環境の】マジックは変わるはずだ。だが、その変化は非常に大切なものではないだろうか。ラノエル不在のマジックはいかなるものとなるのか、それは我々にとって未知の領域である。今回のローテーションは、我々がそれを確かめる機会でもあるのだ。
 ゲームは変化を度重ねるものだ。マジックはこれまでも数え切れないほどの「主戦力となる / staple」カードの退席に耐え忍んできた。今一度【この「変化の契機」を想像するについて】別の道筋を提示しよう。研究デザイン部が顧みるに、マジックは時という試練に耐え忍びうるような古典的伝統的ゲームになりつつある。そこで私はこの百年間はマジック史学専攻家として時代を振り返りたいと思う。全てのカードについて、そこからはおそらく基本地形は例外となるだろうが、それら個々のカードが環境から退席した時に、何が起こったかを考察したいと思う。≪解呪 / Disenchant≫や≪石の雨 / Stone Rain≫や≪対抗呪文 / Counterspell≫を失った環境はどんなものであったか?【――先述の第一の道筋では思考実験としてカードの存在を抹消したが、第二の道筋では実際にカードが収録漏れをすることでゲームの何が変わったかを実証的に考察する、ということだ。】つまり、メカニクスが環境から出入りするのと同様に、個々のカードもまた環境から出入りして然るべきものなのだ。
 最後に挙げるのは切実な問題である。種としての人は変化を恐れるものだ。だがマジックの核心にあるのは、変化し続けるゲームだ。最大の恐怖の一つである変化を直接に取り扱うようなゲーム――人々がそれに参与するのを楽しむのはなぜだろうか? ともすればマジックは精神や知性にとってバンジージャンプに相当するのかもしれない。肝腎要のことは以下の点だ――もしあなたが変化を厭うのであれば、マジックは明らかにあなたに向かないゲームだ――そしてもしあなたが変化によってゲームにもたらされた肯定的なものから恩恵を得ているのなら、変化は時として否定的なものをももたらすという事実を容認するべきだ。

●4:ゲームに均衡をもたらすこと
 基本セットが版を改めるに際して、研究デザイン部は胸が小躍りするような新しいカードを入れ替わりで収録するが、我々の期待はそれが競技マジックに衝撃を走らせるかもしれないところにある。とはいえ悩ましいことに、他方で我々は基本セットのカードパワーの水準を高めたいとは思っていない。もし我々が高めてしまえば、それは拡張セットの影響力を削ぐことになる。それに加え、強力なカードについて拡張セットの占める割合が少なくなっても、誰も幸せにならない。この辺りのカードパワーの考え方について腑に落ちない方は、私の過去記事の『カードが駄目になるとき』に目を通していただきたい――そこでは研究デザイン部がカードパワーの劣る駄目なものを印刷する理由について述べてある。
 換言すると、どれほど些細であってもカードパワーの高いものを我々がゲームに持ち込むつもりならば、それと同程度のものがゲームから去らなければならない、ということだ。新規に優秀なカードが参入するたびに、一部の既存の優秀なカードは席を譲らなければならない。吉報なことに、今回の第8版でひとまず退席する≪ラノワールのエルフ≫は非常に優秀なカードであり、そうであるから埋め合わせとしてラノエル相当の、競技環境で使用に値するようなカードが収録されるはずだ。

●5:「帰ってくる」の前提は「去ったことのある」である
 マジックが誕生して間もなく、研究デザイン部はカードの再録の価値について考察していた。すなわち彼らは、自分たちは広く普及した先行事例を無視して新しいカードを常には作り続ける必要がない【原文:車輪の再発明】、と認識していたのだ。当初この姿勢は消費者観衆から嘲笑された――「そのカードならもう持ってるよ。わざわざパックを買ってもう一枚当てようなんて気にならないね」と。
 しかしながら時が流れ、状況が変わった。今では再録はカードの単なる使い回しではなく、往年の名カードが表舞台に返り咲く機会にもなっている。再録は楽しみへ変わった。かつては再録カードに対して総スカンを食らわせていた市場部門も、ジャッジメントで≪アーナム・ジン / Erhnam Djinn≫がスタンダードに復帰した時がそうだったように、今では再録を歓迎するようになった。昔お気に入りだったカードが環境に帰還すれば、気持ちは否応無く高ぶるものだ。【訳注:再録されたジンは全く使われなかった。歓迎するのと採用するのとは別問題である】
 経験が示すところによると、プレイヤー諸氏は往年のカードがスタンダードに戻ってくるのを好ましく感じている。会えないと想いが募るものだ。とはいえ我々は、環境から取り払ったことのないカードをそこに復帰させることはできない。今日の辛さは明日の楽しみである。私は何も、この第五の理由がラノエルの離脱について十分な共感を集めるだろうとは期待していない。何と言っても、喪失が心地良いはずがない。しかしこの記事で重要なのは私が読者全員に対して正直であることで、そして実際私が思うに、この第五の理由はラノエルのローテーション落ちに対するものとして大切なものの一つだ。どうか覚えていただきたいのだが、ローテーションは死刑宣告ではない。ラノエル達は束の間の休暇を取りに行くに過ぎない。今回の別れは、サンタクロースの姿を最後に一目見るのと同じでは、決してないのだと約束しよう。【訳注:最後の一文。原文ではI promise we haven’t seen the last of the jolly ol’ Elves――クレメント・クラーク・ムーアの詩『聖ニコラスの来訪 / A Visit from St. Nicholas』の中で、サンタクロースは「陽気なお年寄りの妖精 / jolly old elf」と表現されている】

●6:ナナナーナ、ナナナーナ、ヘイヘイヘーイ、グッバイ
【原文:Na Na Na Na, Na Na Na Na, Hey, Hey, Hey, Goodbye
――元ネタはSteamの歌『キスしてグッバイ / Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye』のサビの歌詞】
 最後に――カードは時として、時代にそぐわないからという理由で収録落ちする。ラノエルがバッパラと共闘した際の強力さは考慮すべき重大な案件ではあったが、今回のラノエル収録漏れに関してはこの第六の理由は必ずしも当て嵌まらない。しかし過去には何枚ものカードがこの理由で引退していった。例えば≪暗黒の儀式 / Dark Ritual≫は第6版を以って基本セットから退出し、マスクスブロックでの収録を最後にスタンダードの表舞台から姿を消した。研究デザイン部がこの判断を下したのは、ひとえにこのカードがゲームの健全性に悪影響を与えていると考えたからである。私は今後もおそらく、このカードの復帰を夢見て夜を明かすことはないだろう。

●エルフはもう建物を出ましたよ
【原文:Elvish Have Left the Building――元ネタは、名歌手エルヴィス・プレスリーがコンサートを終えても、アンコールを期待した観客がなかなか帰らないため、会場のアナウンスで「エルヴィスはもう建物を出ましたよ / Elvis has left the building」と伝えたという】
 私もまた、ラノエルには深い思い入れのある者の一人だ。私が今まで作ったデッキの中でおそらく一番であろうお気に入りには、ラノエルもバッパラも四枚ずつ積んでいた――1994年の世界選手権で使った青緑ウイニーだ――そう、私もこのマジック初の世界選手権に参加したのだ。そうであるからラノエルの退出は寂しく思う。実際のところ厳密にデザイン上の観点から考察すると、飛行持ちのバッパラは緑のフレイバーに合わないため、ラノエルの方が留まるべきだと私は考えている。しかし他にも大勢の関係者がいるのであって、今回に関しては私の意見が通らなかったということだ。
 最後になったが、ローテーションはマジックにおける生活様式だ――日常茶飯事の当たり前のことだ。変化こそマジックに不可欠な原動力である。私にとってラノエルの後姿を見送るのは悲しいことだが、ラノエルがそれによってもたらすこともまた大きいはずだと思う。そしていつの日にか再び、入れ墨の入った彼らの横顔を見れるだろうとも思う。
 さよなら、麗しのエルフ。また会う時まで。
 来週もまた参加していただきたい。千一夜に想いを馳せようと思う。
 その時まで、ラノエルを寝かせるのを名残惜しみつつ。

――マーク・ローズウォーター

コメント

オレンジ君
2017年2月26日23:17

念のための補足ですが、 A Whack on the Side of the Headは、マローの文章に時々でてくる「頭にガツンと一撃」で、「頭脳を鍛える練習帳―もっと“柔軟な頭”をつくる!」という題でもでも再訳されてるようです。

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