正直なところ、今更な話題ではあります。
沼、沼、ダリチュ、3点ペイ。盾持ち。
沼、沼、ダリチュ、3点ペイ。盾持ち。
≪優秀なカードが不遇な扱いを受けるとき――バッパラ、ラノエル、そして基本セットのローテーション≫
原題:When Bad Things Happen to Good Cards ―― Birds, Elves, and base set rotations
Mark Rosewater
2002年7月29日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr31
【原題の元ネタはクシュナー著『When Bad Things Happen to Good People / 善良な人間が悲運に見舞われるとき』――邦訳は岩波書店から『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』という題で出ている】
「あらゆる創造行為は、まず何よりも破壊行為から始まる」――パブロ・ピカソ
●バッパラかラノエルか
数週間前の「第8版を選ぼう」企画において、我々は諸君に≪極楽鳥 / Birds of Paradise≫と≪ぶどう棚 / Vine Trellis≫の組か≪ラノワールのエルフ / Llanowar Elves≫と≪ユートピアの木 / Utopia Tree≫の組か、このいずれかに投票していただいた。勝者には第8版の収録枠が保証され、敗者にはその可能性が絶たれるという企画だ。【どの四枚も緑のマナクリーチャーだが、バッパラとラノエルはアルファ版から第7版にかけて全ての基本セットに収録され続けてきた皆勤賞の2枚だ。】そして投票の結果、≪極楽鳥≫と≪ぶどう棚≫の組が勝者となった。
今回の記事で私は、みんなの口から囁かれた疑問に対して回答していこうと思う。すなわち「なぜ?」という問いだ。「なぜ研究デザイン部は、バッパラとラノエルの片方を除外する必要があったのか?」――これをヨリ広義的に言い換えると次のようになる――「なぜ黎明期から存在してきた古典的で優秀なカードが、ローテーション落ちしなければならないのか?」
ともすれば私は疑問をヨリ複雑に言い換えてしまっただけかもしれない。以下に理由を複数記すことで、その回答とさせていただきたい。
●1:創造面における飽和を避けること
【Avoiding Creative Glut】
創造面における飽和? 何ぞ? ローズウォーターよ、まともな言葉を使いたまえ――そんな苦情が聞こえてきそうだ。私の趣味の一つは創造的な思考について研究することだ。実際のところ、ロジャー・フォン・イーク著の『自分の頭の横側を見る方法 / A Whack on the Side of the Head』【副題「ヨリ創造的になる秘訣 / How You Can Be More Creative」】が私のお気に入りの一冊だ。フォン・イーク氏はこの本で、誰もが創造的になることができると主張している。それがなかなか実現できないのは、彼の言葉を借りると「十の知的拘束【mental locks】」が存在するからだ。頭が何らかの形で囚われているがために、人々は自分自身の創造性を閉ざしてしまっているのだ。余談ながら気付いた人のために言及しておくと、デュエリスト第4号収録の『マジックにおける十の知的拘束』という題の、今までで指折りの出来と思う記事は、この本に触発されて書いたのだ。
閑話休題。フォン・イーク氏が三番目に挙げた知的拘束は、「規則に従うこと」だった。その章は、私が冒頭に挙げたのと同じピカソの言葉の引用から始まっている。フォン・イーク氏は続けて、創造的思考にとって最大抑止力の一つとは、既に存在する規則に則って物事をなしたいという願望である、と述べている。「私にはそれはできない。なぜなら規則がそうしてはいけないと定めているからだ」という心意気のことだ。
この問題は人間の創造性に大いに影響を及ぼす。数週前の記事『禅とサイクル修理技術』で書いたことだが、人間は構造を非常に欲しがるものだ。以下に具体的に例を挙げてみよう。今ここに創造的な人物が、新奇で革新的な発想を提示してきたとしよう。周りの人間もそれを気に入ったとする。創造的な彼は、その発想を敷衍しヨリ詳しく述べることだろう。しかしながらそうして受け入れられる新奇な発想であっても、それに対峙するように存在してきた従来の発想と比べると、革新性の点ではそれほど変わらない――なぜならば既存の発想において人心を掴んでいたある種の因習が、新奇の発想にも含まれているはずだからだ。つまりその創造的な彼は、知らぬ間に構造の中に絡め捕られていたのだ【そしてそうであるがために、周りの人は彼の発想を「新奇な」と形容しながらも受け入れたのだ】。どの新世代の考え方も、先行する世代の考え方からヨリ多くの遺産を継承している。とどのつまり、創造的な人物が作る発想は因習の上に作られていて、ほとんどあるいは全く革新と関わりが無いということだ。以上のような創造性の停滞ないし退廃を、私は「創造面における飽和」と書いたのだ。
これを踏まえて「創造面における飽和」という考え方をマジックに適用してみよう。リチャード・ガーフィールドが企画設計したマジックは、その初期のカードの多くが我々には「不朽 / timeless」と呼べるものだ。彼の手掛けたカードは端麗で、根幹を成す能力を持ち、理解に容易く、フレーバーに満ち溢れたものだ。そうであるが故に、以後の基本セットにおいて、開発チームはそれらのカードを把持し続けようと意気込んだのだった。だが各年につき三つの新セットが封切となり、そのそれぞれが新たな「不朽」のカードを少しずつ追加していった。それらのカードは基本セットに随時加えられている。この点について我々に与えられる選択肢は、次の二つに一つだと言えよう。すなわち――第一は、【収録カードを固定して】基本セットに空きを設けないという選択であるが、この場合は新たなカードを順繰りに収録させるのは諦めなければならない――第二は、【新規カードの枠を空けるために】時には「不朽」なカードの何枚かにも収録漏れをしていただくという選択である。第8版のラノエルが実演したように、我々は後者の道を選んでいる。
●2:デザイン上の気兼ねや制約を緩和すること
緑のフレーバーの一つに、マナ生産の能力がある。とりわけ小型クリーチャーの存在が緑という色に永続的なマナ加速の力を宛がっている。時にはこのマナ加速によって、緑は緑以外の色マナにも手が届くことがある。設計者として私は、この豊穣な領域を開拓するのが楽しみで楽しみで仕方がない。だがそれを実行することはできない。なぜならば、新しいデザインの余地が残されていないからだ。
ご存知、ラノエルとバッパラのカードパワーは階層秩序の最上部に位置する。かつての研究デザイン部が製作しただけあって、まさに優秀そのもののカードだ。だから競技環境で渡り合えるほどの緑のマナクリーチャーを新たに印刷するためには、そのカードがラノエルにもバッパラにも見劣りすることなく、さりとてそのどちらよりも強力にならないよう、細心の注意を以って図る必要がある。この七年間の私個人の経験の中で、マジックの設計者として上記の課題を克服できたのは、≪熊人間 / Werebear≫【2マナ1/1、タップで緑マナを出し、スレッショルドなら4/4になる】の一件だけだと思われる。
設計における大きな秘訣の一つなのだが、ある種のカードの存在それ自体が他の数え切れないほどの発想の抑止力となっている。ラノエルは素晴らしいカードには違いないが、第8版を以って暫くの暇を取ることになる。そうなることで初めて、他のカードにもプレイの日の目が当たることになるのだ。
●3:変化の契機を設けること
研究デザイン部の自明の理の中に次のようなものがある――マジックはカードよりも大きなものである――すなわち、マジックというゲーム全体は、個々のカードの総和よりも大きなものである。例えば全カードの中から任意の十枚を選んだとして、その十枚の存在を時間遡行によってこの時空連続体から抹消したとしよう。果たしてそれでどうなるだろうか? それでもなお、マジックというゲームは存続し続けるだろう。もっとも、画面の向こう側の切れ者はこう問い返すだろうが――「それではその十枚の中に、五種の基本地形を選んだらどうなるかしら?」
よろしい。それでは次は、五種の基本地形に加え、諸君がこのゲームの中で最重要と考える他の五枚のカードをも、存在しないものとして考えてみよう。それでもなお、マジックはゲームとして消滅しえないはずだ。当然その姿は違ったものになっているだろう――基本地形が不在であるために、ともすればデュアルランドが代わりに現役かもしれないし、デュアルランド健在ならばペインランドの存在意義は無に帰すことになるだろう。いずれにせよゲームとしてのマジックは、その十枚が不在であるという変化に対して、致命的な影響をもたらすことのない取るに足らぬものとして振る舞うだろう。今回の企画に沿って換言するならば、確かに≪ラノワールのエルフ≫を失うことで【ローテーションがある環境の】マジックは変わるはずだ。だが、その変化は非常に大切なものではないだろうか。ラノエル不在のマジックはいかなるものとなるのか、それは我々にとって未知の領域である。今回のローテーションは、我々がそれを確かめる機会でもあるのだ。
ゲームは変化を度重ねるものだ。マジックはこれまでも数え切れないほどの「主戦力となる / staple」カードの退席に耐え忍んできた。今一度【この「変化の契機」を想像するについて】別の道筋を提示しよう。研究デザイン部が顧みるに、マジックは時という試練に耐え忍びうるような古典的伝統的ゲームになりつつある。そこで私はこの百年間はマジック史学専攻家として時代を振り返りたいと思う。全てのカードについて、そこからはおそらく基本地形は例外となるだろうが、それら個々のカードが環境から退席した時に、何が起こったかを考察したいと思う。≪解呪 / Disenchant≫や≪石の雨 / Stone Rain≫や≪対抗呪文 / Counterspell≫を失った環境はどんなものであったか?【――先述の第一の道筋では思考実験としてカードの存在を抹消したが、第二の道筋では実際にカードが収録漏れをすることでゲームの何が変わったかを実証的に考察する、ということだ。】つまり、メカニクスが環境から出入りするのと同様に、個々のカードもまた環境から出入りして然るべきものなのだ。
最後に挙げるのは切実な問題である。種としての人は変化を恐れるものだ。だがマジックの核心にあるのは、変化し続けるゲームだ。最大の恐怖の一つである変化を直接に取り扱うようなゲーム――人々がそれに参与するのを楽しむのはなぜだろうか? ともすればマジックは精神や知性にとってバンジージャンプに相当するのかもしれない。肝腎要のことは以下の点だ――もしあなたが変化を厭うのであれば、マジックは明らかにあなたに向かないゲームだ――そしてもしあなたが変化によってゲームにもたらされた肯定的なものから恩恵を得ているのなら、変化は時として否定的なものをももたらすという事実を容認するべきだ。
●4:ゲームに均衡をもたらすこと
基本セットが版を改めるに際して、研究デザイン部は胸が小躍りするような新しいカードを入れ替わりで収録するが、我々の期待はそれが競技マジックに衝撃を走らせるかもしれないところにある。とはいえ悩ましいことに、他方で我々は基本セットのカードパワーの水準を高めたいとは思っていない。もし我々が高めてしまえば、それは拡張セットの影響力を削ぐことになる。それに加え、強力なカードについて拡張セットの占める割合が少なくなっても、誰も幸せにならない。この辺りのカードパワーの考え方について腑に落ちない方は、私の過去記事の『カードが駄目になるとき』に目を通していただきたい――そこでは研究デザイン部がカードパワーの劣る駄目なものを印刷する理由について述べてある。
換言すると、どれほど些細であってもカードパワーの高いものを我々がゲームに持ち込むつもりならば、それと同程度のものがゲームから去らなければならない、ということだ。新規に優秀なカードが参入するたびに、一部の既存の優秀なカードは席を譲らなければならない。吉報なことに、今回の第8版でひとまず退席する≪ラノワールのエルフ≫は非常に優秀なカードであり、そうであるから埋め合わせとしてラノエル相当の、競技環境で使用に値するようなカードが収録されるはずだ。
●5:「帰ってくる」の前提は「去ったことのある」である
マジックが誕生して間もなく、研究デザイン部はカードの再録の価値について考察していた。すなわち彼らは、自分たちは広く普及した先行事例を無視して新しいカードを常には作り続ける必要がない【原文:車輪の再発明】、と認識していたのだ。当初この姿勢は消費者観衆から嘲笑された――「そのカードならもう持ってるよ。わざわざパックを買ってもう一枚当てようなんて気にならないね」と。
しかしながら時が流れ、状況が変わった。今では再録はカードの単なる使い回しではなく、往年の名カードが表舞台に返り咲く機会にもなっている。再録は楽しみへ変わった。かつては再録カードに対して総スカンを食らわせていた市場部門も、ジャッジメントで≪アーナム・ジン / Erhnam Djinn≫がスタンダードに復帰した時がそうだったように、今では再録を歓迎するようになった。昔お気に入りだったカードが環境に帰還すれば、気持ちは否応無く高ぶるものだ。【訳注:再録されたジンは全く使われなかった。歓迎するのと採用するのとは別問題である】
経験が示すところによると、プレイヤー諸氏は往年のカードがスタンダードに戻ってくるのを好ましく感じている。会えないと想いが募るものだ。とはいえ我々は、環境から取り払ったことのないカードをそこに復帰させることはできない。今日の辛さは明日の楽しみである。私は何も、この第五の理由がラノエルの離脱について十分な共感を集めるだろうとは期待していない。何と言っても、喪失が心地良いはずがない。しかしこの記事で重要なのは私が読者全員に対して正直であることで、そして実際私が思うに、この第五の理由はラノエルのローテーション落ちに対するものとして大切なものの一つだ。どうか覚えていただきたいのだが、ローテーションは死刑宣告ではない。ラノエル達は束の間の休暇を取りに行くに過ぎない。今回の別れは、サンタクロースの姿を最後に一目見るのと同じでは、決してないのだと約束しよう。【訳注:最後の一文。原文ではI promise we haven’t seen the last of the jolly ol’ Elves――クレメント・クラーク・ムーアの詩『聖ニコラスの来訪 / A Visit from St. Nicholas』の中で、サンタクロースは「陽気なお年寄りの妖精 / jolly old elf」と表現されている】
●6:ナナナーナ、ナナナーナ、ヘイヘイヘーイ、グッバイ
【原文:Na Na Na Na, Na Na Na Na, Hey, Hey, Hey, Goodbye
――元ネタはSteamの歌『キスしてグッバイ / Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye』のサビの歌詞】
最後に――カードは時として、時代にそぐわないからという理由で収録落ちする。ラノエルがバッパラと共闘した際の強力さは考慮すべき重大な案件ではあったが、今回のラノエル収録漏れに関してはこの第六の理由は必ずしも当て嵌まらない。しかし過去には何枚ものカードがこの理由で引退していった。例えば≪暗黒の儀式 / Dark Ritual≫は第6版を以って基本セットから退出し、マスクスブロックでの収録を最後にスタンダードの表舞台から姿を消した。研究デザイン部がこの判断を下したのは、ひとえにこのカードがゲームの健全性に悪影響を与えていると考えたからである。私は今後もおそらく、このカードの復帰を夢見て夜を明かすことはないだろう。
●エルフはもう建物を出ましたよ
【原文:Elvish Have Left the Building――元ネタは、名歌手エルヴィス・プレスリーがコンサートを終えても、アンコールを期待した観客がなかなか帰らないため、会場のアナウンスで「エルヴィスはもう建物を出ましたよ / Elvis has left the building」と伝えたという】
私もまた、ラノエルには深い思い入れのある者の一人だ。私が今まで作ったデッキの中でおそらく一番であろうお気に入りには、ラノエルもバッパラも四枚ずつ積んでいた――1994年の世界選手権で使った青緑ウイニーだ――そう、私もこのマジック初の世界選手権に参加したのだ。そうであるからラノエルの退出は寂しく思う。実際のところ厳密にデザイン上の観点から考察すると、飛行持ちのバッパラは緑のフレイバーに合わないため、ラノエルの方が留まるべきだと私は考えている。しかし他にも大勢の関係者がいるのであって、今回に関しては私の意見が通らなかったということだ。
最後になったが、ローテーションはマジックにおける生活様式だ――日常茶飯事の当たり前のことだ。変化こそマジックに不可欠な原動力である。私にとってラノエルの後姿を見送るのは悲しいことだが、ラノエルがそれによってもたらすこともまた大きいはずだと思う。そしていつの日にか再び、入れ墨の入った彼らの横顔を見れるだろうとも思う。
さよなら、麗しのエルフ。また会う時まで。
来週もまた参加していただきたい。千一夜に想いを馳せようと思う。
その時まで、ラノエルを寝かせるのを名残惜しみつつ。
――マーク・ローズウォーター
内容からしてマジック初心者向けの記事だと思われますが、≪基本に帰れ≫ということで、熟練プレイヤー諸兄も一読していただければ幸いです。
≪再掲企画「忘れられた知識」:マジックにおける十の知的拘束――憶測と習慣の克服によるプレイングの改善≫
原題:Forgotten Lore:10 Mental Locks of Magic ―― Improving your play by challenging your assumptions and habits
Mark Rosewater
2004年10月11日
http://archive.wizards.com/magic/magazine/article.aspx?x=mtgcom/feature/234
【訳注:段落が少なく冗漫な印象を受けたので、適宜改行を施しました】●編集部注
マーク・ローズウォーターは現在ウィザーズ社に常勤職を持っており、マジック界の名士として周知されているが、実は彼は入社以前から、マジック初の雑誌「デュエリスト誌」の執筆者としてマジックに携わっていた。私が今年初めから「忘れられた知識 / Forgotten Lore」と題した再掲企画を起こしたのも、デュエリスト誌収録の最良品質の記事に日の目を見せる機会を設けたかったからなのだが、その企画段階で私が彼に「この時期で特に出来が良いと思う記事は何かあるか?」と聞いたところ、彼はこの記事の題名を即座に挙げたのだった。この企画で挙げられた他の記事の中には、当時の特定のカードに言及しているものもあり、ともすればそういった記事は今では時代遅れで埃まみれのものかもしれないが、しかしながら、この記事はマローの考えるところでは、原文発表から九年経った時点でも真実として通用するようなものに仕上がっている。
読者諸兄が今回の記事を読むことで、過ぎ去りし日々への情景を楽しんだり、古風な文献に微笑みを向けたり、そしてその過程で何か有用な助言を得ることになれたなら、編集者冥利に尽きる限りだ。
――magicthegathering.com知的財産管理人、スコット・ジョーンズ
本稿の初出は1995年出版のデュエリスト誌第4号である。以下に全文を再掲する。
平凡なマジックプレイヤーは、非常に優秀なマジックプレイヤーから何によって隔てられているのだろうか?
所有するカードの枚数だろうか? 否。優秀なプレイヤーなら構築済みデッキと拡張パック数個さえあれば十分渡り合えるものだ。単なる蒐集家にとっては、そういったプレイヤーに対して二本連続で勝てたなら、極めて運の良いことなのだ。
ゲームのメカニクスに対する知識だろうか? 確かに馴染み深いということは一助になるが、しかしながらやはりこれも、勝つための鍵ではない。仮にそうだとすれば、ジャッジのように規則に詳しいプレイヤーが常勝しているはずだが、実際は必ずしもそういうわけではない。
では、平凡なプレイヤーと優秀なプレイヤーとの間にある分水嶺は、一体何なのだろうか? プレイヤーの考え方である、というのが私の意見だ。あまりにも往々にして、プレイヤーは存在しない規則を勝手に作り出すことによって自分自身に枷を嵌めている。ロジャー・フォン・イーク氏の『自分の頭の側面を見る方法 / A Whack on the Side of the Head』に謝意を示しつつ、その本の叙述に倣って、以下にマジックにおける十の「知的拘束」を挙げていこうと思う。
●1:「大きければ大きいほどヨリ優秀だ」
こういった知的拘束は、入門者に対して容易く観測できる。彼らが初めて構築済みデッキを開封する場面を見てみよう。彼らは≪ベナリアの勇士 / Benalish Hero≫や≪スケイズ・ゾンビ / Scathe Zombies≫やマーフォークを流して見ているが、≪大喰らいのワーム / Craw Wurm≫のところで手を止める。「すっげぇ、6/4だ!」――彼らにとっては使わざるを得ないというわけだ。考えの筋道そのものは非常に理に適っているように一見したところ思われる。つまりクリーチャーが大きいほど、対戦相手のライフを無くすための手数は少なくて済み、ゲームを素早く決着させられるのだ。
そして、この「大きいほど短期決戦に持ち込める」という発想はクリーチャーだけに留まらない。「≪破滅のロッド / Rod of Ruin≫は1ターン当たりたった1点ダメージなのか。≪アラジンの指輪 / Aladdin’s Ring≫は4点だって言うのに」――「≪粉砕の嵐 / Shatter Storm≫なら全部のアーティファクトを壊せるんだから、≪粉砕 / Shatter≫は要らないや」――「このデッキに≪飛行 / Flight≫を入れたら、≪炎のブレス / Firebreathing≫と≪Lance≫と≪穴掘り / Burrowing≫と相まって僕の≪丘巨人 / Hill Giant≫は大変なことになるぞ!」――こういった具合に、アーティファクト、呪文、エンチャントへと拡張していってしまう。どの事案についてもこのプレイヤーは、大規模な資源こそが勝利をもたらすという誤謬に囚われている。
この考え方が放棄しているのは、ヨリ大きなカードや効果を得るために対価として支払うべきもの、それへの考察だ。【すなわち当人は失念しているのだが、】彼らは増長された力を手にするために、制御における損失を対価として受け入れなければならない。
大型クリーチャーを例に取ってみよう。それらはいずれも著しいほどに、重い総呪文コストや厳しいアップキープコストが課せられているものだ。そうであるからには、大型クリーチャーやその増長された力を充てにすることは、制御を失うこと、すなわち幸運に多く依存することを意味する。
大味なアーティファクトについても同様であって、重い総呪文コスト、さらには重い起動コストが課せられていたり、使用条件が設けられていたり、回数が限られていたりするものだ――≪アラジンの指輪≫は唱えるにも起動するにも八マナ必要であり、≪Rocket Launcher≫など戦場に出てすぐに使えるわけではない代物も多く存在し、ほとんどの状況において≪ネビニラルの円盤 / Nevinyrral’s Disk≫は使い捨てだ。
制御を失うことは、大規模な効果を引き起こす呪文のほとんどに明白に表れている。自分の安否が戦場に出ている特定のアーティファクトの維持にかかっている状況では、すべてを破壊してしまう≪粉砕の嵐≫は小回りの利かない役立たずになってしまうのだ。
最後に挙げた≪丘巨人≫の例は、私が「お手製の / make your own」種類と呼ぶものだ。大型クリーチャーを唱えるのでなく、代わりに小型クリーチャーにエンチャントを何枚も貼り付ける、そういうのが好みのプレイヤーが一定数いるのは事実だ。彼らはそのクリーチャー単独でゲームに勝てると思っている。やはりここでも制御の低減が、可変性の強化と引き換えに生じてくる。一体のクリーチャーに勝敗が左右されてしまうという構造は、多くの色に渡ってそのクリーチャーを破壊できるような呪文がありふれている場合に、悩ましい事情になってくる。
なるほど確かに、大型クリーチャーや大規模な呪文にはその役割があるが、それを使うためにはヨリ小さな、ヨリ軽いカードをも採用して釣り合いを取る必要がある。「十ターン目に自動的に勝っちゃうデッキを持ってるんだけどねぇ、何が足りないかって言うと、僕をその分だけ生き永らえさせてくれる対戦相手なんだよねぇ」――友人がかつて言っていた冗談は、この第一の知的拘束に基づいたデッキ構築の欠点を見事に表現していると言えよう。
●2:「レアカードの方がヨリ優れている」
交換の場においてレアカードは、非常に価値のあるもの、すなわち数枚のアンコモンないし大量のコモンに相当するものとして扱われる。また【――原文発表当時はウェブの普及が不完全だったので――】レアカードはその存在自体があまり知られていないので、神秘的な雰囲気や胸躍るような雰囲気を醸し出しているものだ。以下のような魔法の問い掛けを耳にする楽しさは、多くのプレイヤー諸賢が経験から知るところではないだろうか――「そのカード、どういう効果ですか? ちょっと見せてもらって良いですか?」
だがプレイヤーがレアカードの交換価値を使用価値の重要性を混同してしまう時、問題は生じてくる。マジックの生みの親リチャード・ガーフィールドが度々言明してきたことだが、稀少度とカードパワーは必ずしも正比例の関係になっていないのだ。
具体例として白のコモン≪ベナリアの勇士≫と緑のレア≪森林狼 / Timber Wolves≫を挙げよう。色やクリーチャータイプの違いを除くと、この二枚は全く同じ性能、1マナ1/1のバンド持ちだ。確然的に明らかに、【この二枚だけの間では、】どちらか一方が他方よりもヨリ強力だということにはなり得ない――どちらも同じ性能のカードだ。では、なぜ≪森林狼≫はレアなのか? バンド能力は緑の役割ではないから、というのがその理由だ。事実、リバイズド版においては≪森林狼≫が緑では唯一のバンド持ちクリーチャーだ。この独自性こそ、その稀少度としてレアを規定する要素なのだ。
この第二の知的拘束を克服するためには、特定のデッキで有用性があるわけでないなら、【レアカードを新しく採用したいがために】屋台骨のカードを不採用にするようなことは止めるべきだ。確かに、時としてプレイヤーは自分の片腕であるカードを特定のレアカードのために手放すことがあるかもしれない。しかしそうして手に入れたレアカードがどのデッキでも役に立つとは限らないのだ。
●3:「カードの使い道は一つだけだ」
新しい呪文を目の当たりにした時、プレイヤーは通常、それがどのようにプレイされるカードなのか判別しようとするはずだ。この第三の知的拘束が言い表しているように、不幸なことにプレイヤーの多くは、カードの使い道を一つ見つけてしまうとそこで探求を終えてしまう。
基本土地タイプを書き換えるエンチャント≪幻影の地 / Phantasmal Terrain≫を例に取ろう。ともすればこのカードからは、自分の土地に使って必要な色マナを生産するという役割を見出せるだろう。そしてもしこの呪文を「変テコな」カードだと思って、そそくさと次のカードへ目移りしてしまうのだとすれば、そのプレイヤーは≪幻影の地≫の他の使い道に気付かず仕舞いということになる――土地渡りの補佐であったり、エンチャントそのものであることを活かしたり、特殊地形を無効化したり、対戦相手の特定の色マナを締め上げたり等々、他にもあるのだ。
プレイヤーは自分の探し求める物のみを見つけ得るのだから、この知的拘束への対抗策は「自分の期待や予測に幅を持たせる」ということになる。自分が熟知するものであっても、どの呪文にも他の用途があるのだと肝に銘じて、その後でカードに視線を向けるべきだ。マジックの白熱した楽しみは多くがプレイヤーの創造性にかかっている。創造的なプレイングは試合をヨリおもしろくするだけでなく、競技的な激しさをも追加し得る。どのプレイヤーもX火力呪文である≪火の玉 / Fireball≫で勝利を収められるが、ダメージ軽減アーティファクトの≪保護器 / Conservator≫でそうできるプレイヤーは極僅かしかいない。
●4:「自分の前向きなカードを対戦相手に対して使わない」
一般的に、プレイヤーはマジックの呪文を二つに分類する。「前向きな / positive」ものと「後ろ向きな / negative」ものだ。前向きな呪文は≪邪悪なる力 / Unholy Strength≫のように有益な結果をもたらし、後ろ向きな呪文は≪衰弱 / Weakness≫のように破滅的な結果をもたらす。普段から前向きな呪文は自分のために備えておき、後ろ向きな呪文は対戦相手のために取っておく。これは誤謬なのだが、マジックでは非常に流布した考え方でもあるので、プレイヤーの間に二つの知的拘束を作り出している。その原因はまさに、ある種の性質は良くて別の種の性質は悪い、という発想そのものに根付いている。
例として≪飛行≫を考えてみよう。飛行クリーチャーは攻撃の際には対戦相手の地上クリーチャーを無視でき、防御の際には地上空中どちらのクリーチャーにも対応できる。なるほど、なかなか良い能力だと思うだろうか? だが、そこに落とし穴がある。時には飛行持ちであることが枷となりうるからだ。先に≪飛行≫を使っておいて、その後で例えば≪ハリケーン / Hurricane≫や≪Earthbind≫を唱えれば、その≪飛行≫が付いたクリーチャーは破壊され得る。そのクリーチャーが対戦相手のコントロールする厄介なやつだとしたら、自分の前向きな呪文をそういう風に使うのも、そんなに悪くはないと思わないだろうか?
留意しておくべきことだが、エンチャントのコントローラーのみがそのエンチャントの起動型能力を起動できる。例えば君が≪再生 / Regeneration≫を対戦相手のクリーチャーに対して使った場合で、そのクリーチャーが破壊されようという状況になった時、その殺生与奪の権限は対戦相手でなく君の方にあるのだ。このプレイングが君にとって有利になるのは、≪ロック鳥の卵 / Rukh Egg≫や≪Blazing Effigy≫など、君からすれば墓地送りにしたくないクリーチャーを対戦相手がコントロールしている、そういった状況においてだ。
いかなる呪文であっても、その影響は自分自身だけでなくゲーム中の全てに及ぶのだと捉えるべきだ。場合によっては、対戦相手の≪放浪熱 / Wanderlust≫付きのクリーチャーを生かすために≪治癒の軟膏 / Healing Salve≫を唱えたり、≪恐怖 / Terror≫と≪魂の鎖 / Creature Bond≫の組み合わせの間に≪巨大化 / Giant Growth≫を挟んだり、あるいは対戦相手の≪茂みのバジリスク / Thicket Basilisk≫と≪寄せ餌 / Lure≫に対して≪ドワーフ戦士団 / Dwarven Warrior≫の能力を使ったり――このように前向きな効果を対戦相手に対して使うことが、大局的には有効な指し手となりうるのだ。
鍵となるのは、自分の知性をあらゆる可能性に対して開かせておくことだ。そしてここから、次の知的拘束が導かれてくる。
●5:「自分の後ろ向きなカードを自分自身に対して使わない」
先述の「前向きな」呪文と同様に、カードに対する評価はそれが引き起こし得る結果に基づいて下されるべきだ。例として≪衰弱≫を挙げよう。これを自分のクリーチャーに対して使うのはアドバンテージの損失としか思えないかもしれないが、対戦相手が≪弱者の石 / Meekstone≫をコントロールしているなど、自分がヨリ低いパワーのクリーチャーを必要とする盤面では、有効打になるかもしれない。
自分に対して後ろ向きな呪文を唱えることには、プレイヤーは不断に慎重を期している。この知的拘束を打開する鍵は、最も破壊的な呪文から有用な使用法を探してみることだ。例えば、対戦相手に追い詰められている状況下での咄嗟の延命手段として自分の≪大喰らいのワーム≫に≪剣を鍬に / Swords to Plowshares≫を唱えたり、≪煙幕 / Smoke≫を回避してアップキープ中にアンタップさせるために自分の≪シヴ山のドラゴン / Shivan Dragon≫に≪麻痺 / Paralyze≫を付けたり、≪Oubliette≫で自分の≪セラの天使 / Serra Angel≫を隠してから≪天秤 / Balance≫を唱えて対戦相手のクリーチャーを皆殺しにしたり、等が考えられる。
マジックにおける高揚感は、カードの予想外な使い方を、それも遠回りで素直でないものを見出す時に感じられる。実際に見つけるのは容易ではないが、探してみるとかなり楽しく思えるものだ。
●6:「定石に則ること」【Don’t Forget The Order】
メインフェイズにおける定石的な手順はそれほど長くないものであって、それは一試合か二試合ほど観戦すれば了承していただけることだと思われる。すなわち、まず土地を出せるなら出して、次に唱えたい呪文があれば唱えて、最後にクリーチャーで攻撃を行なう――この手順は単純明快であって、実に覚えやすいものだ。しかしながらこれは規則として定められたものではない。
往々にしてこのような定石的手順は、次のような漫然とした意識を引き起こす。つまり、「土地というのは出したその瞬間から利用できるのだから、メインフェイズの最初の一手として出すのが正解だろう。戦闘で影響を与える呪文が手札にあるのなら、それを全部先に可能なだけ唱えてしまって、他にすることが無くなったなら、晴れて攻撃宣言しよう」といったものだ。しかしながらこの知的拘束の要点は、まさにこのような習慣の危険性にある。人間の意思決定は、思考的にというよりかは無意識的に行なわれるものだ。その結果としてプレイヤーの多くは、自分が可能なほどには効果の高い指し手を打てていない。設計の段階からして、マジックは反応のゲームである。いずれのプレイヤーも、他のプレイヤーの反応に基づいて行動を決定する。そうであるから、対戦相手を寄せ付けない最善の策は、自分がどのような対応をし得るかに関して対戦相手に悟られないよう努めることだ。このような理由からメインフェイズは今後の行動の準備段階である一方で、自分の対応に関する予測不可能性を最大化させるべきものなのだ。対戦相手に読み違いをさせ、資源を浪費させることこそがここでの狙いだ。
例えばもし君が何か重要な呪文を唱えたいのなら、おそらくは攻撃が終わった後で唱える方が成功しやすいと思われる――というのも、対戦相手のリソースは戦闘後の時点の方がヨリ低くなっているはずだからだ。あるいは君が有用な特殊地形を戦場に出したいなら、盤面によっては追加の呪文を引いて手札の火力を整えてからの方が無事に着地できるかもしれないのだ。
こういった柔軟性を駆使することで、対戦相手の防御を突き崩すことができる。些細な想定外の事であっても、それは長続きしてゲームの後々まで響き得るものだ。
●7A「出来るだけ早い内からカードを使わなくては」あるいは、
●7B「出来るだけ長くカードは残しておきたい」
プレイヤーは上記いずれかの極端に陥りがちだ。前者は呪文を使えるようになった時にすぐに使ってしまい、後者は有用な呪文は出来るだけ長く手札に残しておこうとする。まずは「今すぐに使わなくては」の思考態度から詳らかにしていこう。このやり方でリソースを戦場に送るのは有用たりうることで、序盤からアドバンテージを獲得できるのだが、だからと言って、唱えられるようになった呪文を片っ端から目暗に使っていくべきだとはならない。
具体例として、君の手札に≪ほとばしる魔力 / Mana Flare≫がある時を考えてみよう。これは各プレイヤーの全ての土地のマナ生産量が二倍になる全体エンチャントだ。そして君がこれを唱えるべき状況は、以下のように思われる場合に限られる――「土地一つから供給される余剰の一マナを、対戦相手よりも自分自身の方がヨリ活用できる」と。
別の例をとして≪稲妻 / Lightning Bolt≫を挙げよう。自分への利得が最大となるのは、≪稲妻≫を今すぐ唱えた場合だろうか、それとも後の好機を窺った場合だろうか。ゲームの展開がどうなるか、考えてみていただきたい。小型クリーチャーの大群が今にも立ち現れそうだと思うなら、≪稲妻≫は即撃ちせず手札に残しておくべきだろう。というのもインスタント、インタラプト【現在はインスタントに統合】、ファストエフェクト【インスタントタイミングでスタックに乗る呪文や能力】、これらはどの瞬間でも使うことができるので、使用の機会を逸する心配は少ないからだ。
では「呪文を残しておきたい」とするプレイヤーはどうだろうか。今しがた述べた助言になぞらえると、この種のプレイヤーは次のように恐れている――呪文を今唱えてしまうことで後のヨリ良い好機を逃してしまうのではないか、と。これは合理的な配慮であるが、しかしヨリ大きな脅威、すなわち対戦相手に対して今この瞬間に隙を見せる判断でもある。通常の小型クリーチャーは今このターンに唱えられた≪稲妻≫によって即座に焼かれれば、それ以降君に対して何ら影響を及ぼさない存在に変わり果てるはずだ。
この七番目の知的拘束を克服する鍵は、バランスだ。君は呪文をいつでも使えるように備えておくべきだが、しかしそれを無駄遣いしないよう配慮もするべきなのだ。
●8:「対戦相手を叩かなくては」
主流な勝利条件は対戦相手のライフをゼロにすることなので、「対戦相手を叩ける機会は全て物にするべきだ」という知的拘束には多くのプレイヤーが陥っているところだ。これに関して留意すべき点が二つある。
第一の留意点は、攻撃と防御のバランスを取ることだ。対戦相手に直接ダメージを与える企ては、往々にして自分自身をクリーチャーの攻撃に対して無防備にしてしまう。初心者がよく犯す間違いの一つに、1/1のクリーチャーに対して≪火の玉≫を使うのを躊躇ってしまう、というものがある。彼らはそのクリーチャーを脅威として捉えていないので≪火の玉≫を対戦相手本体に向けて唱えるのだが、そうして生き延びた1/1のクリーチャーが着実に攻撃を重ねてきて、結果的に自分のライフの半分を奪っていった、という結果に行き着くこともあるのだ。
第二の留意点は、対戦相手に長期間に渡ってヨリ多くの損害を与える手段の方が、短期間でライフを失わせる手段よりも多い、ということだ。例えば、ゲーム序盤に唱えるならX火力の≪分解 / Disintegrate≫よりもX手札破壊の≪精神錯乱 / Mind Twist≫の方が後の展開に影響を与え続けるものだ。≪枯渇 / Mana Short≫による一ターンの土地拘束は≪火の玉≫という火力呪文ではできないやり方でプレイヤーを救うかもしれない。そしてマナ基盤の薄い色を的確に狙った≪石の雨 / Stone Rain≫は、対戦相手の手札を腐らせて≪稲妻≫数枚分の仕事をすることさえあり得る。
この知的拘束に対する鍵は、ゲームを全体として、総体的に、大局的に考えることだ。対戦相手に直接ダメージを与える呪文は差し当たっては良好な代物に感じるかもしれないが、そのツケが後の展開に響いてくるかもしれないのだ。
●9:「パーマネントを生け贄に捧げるべきではない」
次の五枚の共通点は何だろうか――≪エイトグ / Atog≫、≪ラト=ナムの賢人 / Sage of Lat-nam≫、≪Elder Spawn≫、≪恐怖の中の恐怖 / Horror of Horror≫、≪アシュノッドの供犠台 / Ashnod’s Alter≫――読者諸賢もこれらが使われるのを頻繁に見かけるということはないだろう。なぜならばこれらのカードは全て、平凡なプレイヤーが疫病に対してするかのように忌避して止まない行為、すなわち生け贄を必要とするカードだからだ。彼らはこう不思議に思っている――「クリーチャーやアーティファクトや土地や手札を犠牲にしなければロクな働きをしない、そんなカードを使う理由がどこにあるんだろう?」――その答えは三つにまとめられる。
第一の理由は、自分のデッキの外にある資源を搾り取ることができるからだ。例えば、君は≪Rocket Launcher≫の能力を起動してしまったとしよう。≪Rocket Launcher≫はそのターン終了時には墓地送りになってしまう。その前に≪エイトグ≫に食べさせてあげれば、君は二点分の打力を損失無く手にすることができる。別の例を挙げよう。ゲーム終盤で対戦相手が君の≪センギアの吸血鬼 / Sengir Vampire≫を殺したという状況だ。君がそれまでに≪恐怖の中の恐怖≫を出していれば、手札に余っている沼カードを捨てて≪センギアの吸血鬼≫を再生し生き残らせることが可能だ。いずれの事例でも、その時点で既に価値の無い資源は生け贄を通じて価値のあるものへと変換されている。
次の理由は、生け贄を要求するカードによって、最早望ましくなくなったパーマネントを処分することができるからだ。≪アシュノッドの供犠台≫は対戦相手から≪放浪熱≫を付けられたクリーチャーを墓地送りにできる。≪ラト=ナムの賢人≫は対戦相手よりも自分の方を痛めつけている≪Copper Tablet≫を御役御免にできる。≪堕天使 / Fallen Angel≫が横にいれば、解決前に生け贄に捧げることで対戦相手の≪支配魔法 / Control Magic≫を無効化できる。そしてどの事例でも、自分の手元には何らかの特典がもれなく残される――≪供犠台≫からは二マナが、≪賢人≫から手札一枚が、≪堕天使≫にはPTへの修正が、といった具合にだ。
最後の理由は最も巧妙な中身だ。ファストエフェクトとして機能できるカードを戦場に出しておけば、対戦相手は警戒を怠ることができなくなる。例えば君が≪エイトグ≫で攻撃した時点では、対戦相手はその≪エイトグ≫がどれだけ大きくなり得るかは分かっても、実際にどれだけ大きくなるだろうかまでは滅多に知りえないはずだ。この不可解性は大きな情報アドバンテージである。君たちの次のデッキ構築では、是非とも生け贄を要求するカードに着眼していただきたい。二度三度と見ることで、一見した以上のものが発見できることだろう。
●10:「ライフこそ全て」
可能な限り大量のライフを得ることが勝ちに繋がる、という誤謬はこの知的拘束から導かれるものだ。十分なライフを蓄積できたプレイヤーは対戦相手よりも単純に長生きできるので勝てるはずだ、という考え方だ。
この発想の盲点は、どれほど大量にライフを確保しても、そのライフ自体が対戦相手を叩きのめしてくれるわけではない、というところにある。君が自分自身の精力に集中しているようなターンは全て、対戦相手にとっては抑止力無しに攻撃できるターンである。結局は君のライフ回復能力か対戦相手のダメージ能力か、そのどちらが強いかを比べる競争になる。マジックにおいては、ダメージを与えるカードは回復カードに比べて二十倍から三十倍ほどの枚数差を誇っているので【注:95年時点】、君にとっては典型的な負け試合ということになるだろう。
またライフ獲得に専念することはプレイヤー間の相互作用を無視することになり、君は最大のアドバンテージ、つまり意外性や驚きという要素を放棄してしまっている。もし君が自分自身のライフのみ焦点を当てるのであれば、それはその時点で君は君自身という名の対戦相手にとって最大の障害物を取り払ってしまった、ということを意味する。加えて留意していただきたいのだが、≪剣を鍬≫など対戦相手にライフを与えるような呪文は、それだけ重要な働きを行なうのであれば、必ずしも悪いものではない。
マジックとは相互作用のゲームだ。プレイヤーが勝利へ辿り着くのは対立への参加を通じてであって、対立からの逃走を通じてではない。
●結論
マジックで指折りに楽しい要素は、それによって鼓舞される創造性だ。新しい使い方や組み合わせでカードや呪文をプレイすることこそ、まさにマジックの核心部であり、魔法そのものだ。
今回取り上げた知的拘束は、プレイヤーが自分自身の認識に課した制限でしかない。これら全ての知的拘束に対する鍵は、究極的には同一であって、すなわち創造性こそが親鍵だ。憶測と習慣を克服することで、プレイヤーは従来の方式を打破し、新しく刺激的な探究へと進むことができる。
マジックのプレイヤーとして限りなく高みに至ろうと試行錯誤するならば、今現在の自分自身こそが最大の対戦相手なのだ。
――マーク・ローズウォーター
太字タグの不備があり、投稿ミスしていました。すみません。
今回訳出した記事『Zen and the Art of Cycle Maintenance』にも、ホビージャパン時代に出された公式訳『サイクルの禅と美』が存在します。
http://web.archive.org/web/20040305011205/http://www.hobbyjapan.co.jp/magic/articles/files/20020905_01.html
原文も公式訳も随分古いものであること、前回訳出した『単純であり続けるためには』で「審美については別の記事で述べよう」と言及されていたこと、そして『100回記念』で「この記事の一番おもしろい箇所は、審美についての段落のところだ」と触れられていたこと、こういう事情から再び訳出しても了解していただけるだろうと思い、手をつけました。
今回訳出した記事『Zen and the Art of Cycle Maintenance』にも、ホビージャパン時代に出された公式訳『サイクルの禅と美』が存在します。
http://web.archive.org/web/20040305011205/http://www.hobbyjapan.co.jp/magic/articles/files/20020905_01.html
原文も公式訳も随分古いものであること、前回訳出した『単純であり続けるためには』で「審美については別の記事で述べよう」と言及されていたこと、そして『100回記念』で「この記事の一番おもしろい箇所は、審美についての段落のところだ」と触れられていたこと、こういう事情から再び訳出しても了解していただけるだろうと思い、手をつけました。
≪禅とサイクル修理技術――サイクルという審美≫
原題:Zen and the Art of Cycle Maintenance ―― The aesthetics of cycles
Mark Rosewater
2002年7月8日
http://archive.wizards.com/Magic/magazine/article.aspx?x=mtgcom/daily/mr28
【原題の元ネタは『Zen and the Art of Motorcycle Maintenance / 禅とオートバイ修理技術』という長編小説。記事の内容から離れますが、「サイクル」を「カラーパイ」に変えればオートバイと語感を似せられます】
サイクル週間へようこそ! もっとも、執筆者各人がサイクル一般について述べるわけではない。全員の記事が揃うと、全体として一つのサイクルになるというわけだ。あれまあ。
●同種の五枚
おそらくは、サイクルの厳密な説明から始めるべきだと思われる。サイクルとはメカニクス面で結びつきを持った一連のカード群のことである。往々にしてそれらのカードは、名前やフレーバーテキストや絵画といったフレーバー面でも共通項を持っているが、この点は必須というわけではない。最も馴染みのある種類のサイクル、私はそれを「伝統的な」サイクルと呼んでいるが、それは各色一枚ずつの五枚から成り立つようなものだ。最近のセットからだと、ジャッジメントの願いサイクル――≪黄金の願い / Golden Wish≫≪狡猾な願い / Cunning Wish≫≪死せる願い / Death Wish≫≪燃え立つ願い / Burning Wish≫≪生ける願い / Living Wish≫――あるいはオデッセイの噴出【Burst】サイクル――≪生命の噴出 / Life Burst≫≪霊気の噴出 / AEther Burst≫≪精神噴出 / Mind Burst≫≪集中砲火 / Flame Burst≫≪筋力急伸 / Muscle Burst≫――これらがその具体例として挙げられる。
通常、ひとつのサイクルを形成するカードは、どれも等しい稀少度で同一のセットに収録される。しかし必ずしもそうというわけではなく、例を挙げると、アルファ版収録のサイクルの起源である「ブーンズ」、すなわち≪治癒の軟膏 / Healing Salve≫≪Ancestral Recall≫≪暗黒の儀式 / Dark Ritual≫≪稲妻 / Lightning Bolt≫≪巨大化 / Giant Growth≫は、稀少度がそれぞれ違っているが、「代替勝利条件」エンチャント、すなわち≪機知の戦い / Battle of Wits≫≪偶然の出会い / Chance Encounter≫≪死闘 / Mortal Combat≫≪忍耐の試練 / Test of Endurance≫≪勇壮な戦闘 / Epic Struggle≫は、オデッセイ・ブロックの別々のセットに収録されている。時に研究デザイン部は、複数のブロックに渡って一つのサイクルを設けることがある。最初の「エイトグ」サイクル、≪エイトグ / Atog≫≪森エイトグ / Foratog≫≪時エイトグ / Chronatog≫≪ネクロエイトグ / Necratog≫≪オーラトグ / Auratog≫は五種類のエキスパンションに分けられて収録された。そしてメガ・メガの伝説の土地サイクル、≪テフェリーの島 / Tefferi’s Isle≫≪ヴォルラスの要塞 / Volrath’s Stronghold≫≪ヤヴィマヤのうろ穴 / Yavimaya Hollow≫≪コーの安息所 / Kor Haven≫≪ケルドの死滅都市 / Keldon Necropolis≫は五つのブロックに渡って収録された。
余談ながら、全サイクルの中で最も有名なアルファの「ブーンズ」は、色の定義として企図されたものだ。このサイクルにおいて青は気違いに強力に定義され、白は臆病な小心者に定義されてしまった。十年経ってもなお、我々はこの青強白弱という定義の上でマジックに取り組んでいる。
閑話休題。伝統的サイクルの次に馴染みのある種類のサイクル、それは私が「無色の」サイクルと呼んでいるもので、これは土地やアーティファクトとして仕上がるものだ。つまりこの種のサイクルは五枚のカードで成り立ちながら、五枚の土地ないし五枚のアーティファクトとして出来上がり、そして個々の土地ないしアーティファクトは五色の中の一つに――時には複数に――何らかの結び付きを持っている、というわけだ。最近の無色サイクルの事例としては、共にオデッセイ収録の卵サイクル――≪スカイクラウドの卵 / Skycloud Egg≫≪ダークウォーターの卵 / Darkwater Egg≫≪シャドーブラッドの卵 / Shadowblood Egg≫≪モスファイアの卵 / Mossfire Egg≫≪サングラスの卵 / Sungrass Egg≫――とスレッショルドランド――≪遊牧の民の競技場 / Normad Stadium≫≪セファリッドの円形競技場 / Cephalid Coliseum≫≪陰謀団のピット / Cabal Pit≫≪蛮族のリング / Barbarian Ring≫≪ケンタウロスの庭園 / Centaur Garden≫――が挙げられる。
第三は「多色の」サイクルだ。一つの多色サイクルは五枚の多色カードから成り立ち、それらは友好色の組み合わせ五枚のときもあれば、対抗色の組み合わせ五枚のときもある。ご存じ、時には三色のサイクルが作られるし、いつの日にか四色のサイクルがお披露目されるかもしれない。直近の事例では、オデッセイ収録の≪ファンタトグ / Phantatog≫≪サイカトグ / Psychatog≫≪サルカトグ / Sarcatog≫≪リサトグ / Lithatog≫≪ソーマトグ / Thaumatog≫の多色エイトグや、インヴェイジョン収録の≪ガリーナの騎士 / Galina’s Knight≫≪ヴォーデイリアのゾンビ / Vodalian Zombie≫≪シヴのゾンビ / Shivan Zombie≫≪ヤヴィマヤの蛮族 / Yavimaya Barbarian≫≪ラノワールの騎士 / Llanowar Knight≫の多色の「熊」が挙げられる。
第四は「単色の」サイクルだ。一つの単色サイクルは同一の色の五枚のカードから成り立ち、それぞれが別々の五色を参照している。この種のサイクルで最も名の知れた具体例は、基本セットに常連の防御円だろう。
●少ない方がヨリ良い
マジックのいかなる要素についても、必ず例外項目が存在する。サイクルの大多数が五枚のカードで成り立っているものの、全てがそうだというわけではない。以下に、四枚、三枚、あるいは二枚から成立するサイクルを紹介しよう。
では、四枚のカードはどのようにしてサイクルたりうるのだろうか。俄かには信じがたいかもしれないが、いくつかの道筋がある。四枚カードのサイクルが最も一般的に表現されるのは、以下の状況においてだ――ある一色が他の四色を巻き込みつつ、他の四色それぞれはその一色のみを巻き込んでいる、このような状況だ。これに誂え向きの事例としては、トーメント収録の汚れた土地サイクルが挙げられる。≪汚れた原野 / Tainted Field≫≪汚れた島 / Tainted Isle≫≪汚れた峰 / Tainted Peak≫≪汚れた森 / Tainted Wood≫はそれぞれが沼のコントロールを運用上の必要としており、したがって黒版の一枚を設ける必要性は無かったということだ。
四枚カードサイクルを作る第二の道筋は、ある一色を基軸として他の四色それぞれと組み合わせることで、四枚の多色カードを作るというものだ。具体的には≪吸収 / Absorb≫≪蝕み / Undermine≫≪窒息の旋風 / Suffocating blast≫≪神秘の蛇 / Mystic Snake≫から成る、インベイジョンブロック収録の多色の打ち消し呪文サイクルが挙げられる。最後の、第三の道筋は、二色同士で「鏡写し」の効果を二重に施すことだ。「鏡写し」の詳しくは後で述べるが、この二色による四枚カードサイクルの例として誂え向きなのは、アルファ版収録の≪大気の精霊 / Air Elemental≫≪大地の精霊 / Earth Elemental≫≪炎の精霊 / Fire Elemental≫≪水の精霊 / Water Elemental≫という四大精霊サイクルだろう。【他にはウルザズ・サーガ初出の東西南北の聖騎士サイクルがあり、こちらは色対策要素をも兼ね備えている。】
三枚カードのサイクルは稀有なものだが、単一の色の三枚のカードが三つの稀少度に割り振られることによって成立しうるものだ。この手法が採用される際には、稀少度が上がるにつれて効果もまた漸増していくのが通例となっている。最近の例だとオデッセイ収録の頭脳喰らいサイクル――≪思考をかじるもの / Thought Nibbler≫≪思考を食うもの / Thought Eater≫≪思考を貪るもの / Thought Devourer≫――あるいはアポカリプス収録の暗影サイクル――≪暗影のボブキャット / Penumbra Bobcat≫≪暗影のカヴー / Penumbra Kavu≫≪暗影のワーム / Penumbra Wurm≫――が挙げられる。
二枚カードのサイクルは、我々が「鏡写し」と呼ぶ過程を通じて創作される。すなわち二枚のカード、通常は対抗色の二枚が「鏡」という名前の通りに、効果を互いに忠実に反映しているというものだ。アルファ版の古くから存在する鏡写しのサイクルとして、次のカードが挙げられよう――≪白騎士 / White Knight≫≪黒騎士 / Black Knight≫、≪青霊破 / Blue Elemental Blast≫≪赤霊破 / Red Elemental Blast≫、≪死の掌握 / Deathgrip≫≪生の躍動 / Lifeforce≫――リチャードは鏡写しを大層好んでいたと、分かっていただけることと思う。また、友好色同士であっても、その二枚が似通いつつも反対の効果を持っている場合、それらは鏡写しとして扱われることがある。この種の具体例として最適なのは≪地震 / Earthquake≫と≪ハリケーン / Hurricane≫だろう。加えて、似通いつつも僅かに異なった効果を設けることによって、鏡写しの二枚を単一の色の中においてさえ存在せしめることができる。このような鏡写しは、プレーンシフト収録の≪殺戮 / Slay≫とオデッセイ収録の≪処刑 / Execute≫のように、色対策カードに多くの事例を見出せる。
以上で我々はサイクルの何たるかを一通り知ることができたので、いよいよ最重要課題に取り組む時機に来たと言えよう。すなわち、サイクルの存在理由は何か、という問いだ。その答えは、いつものことながら、入り組んだ事情だ――ともすれば読者諸賢にとって、こういう展開は予想通りだっただろうか? 以下に述べるのは、サイクルが実際にどんな役割を果たしているかについてだ。
●審美の創造
私はボストン大学でコミュニケーション学部に所属していた。ご存じ、私がハリウッドでドラマ『ロザンヌ』の脚本を担当する前の話だ――あぁ、失礼、どうも私は一ヶ月に一度はこの話題に触れねばならないと感じているようだ。閑話休題、私の専攻は放送と撮影、つまりテレビと映画だった。メディアを研究する際の最も素晴らしい側面は、娯楽を嗜好し血肉にすることが研究である、という事情にある。富裕層はいかにテレビで描かれたかという研究課題の下で『アーノルド坊やは人気者』、『ダイナスティ』、『ダラス』、『探偵ハート&ハート』を視聴したり、カルト映画の役割について述べるために『レポマン』の論文を書いたり、ある授業では週刊『テレビガイド』を毎週読まされたり――とにかく全てが楽しいものだった。
なぜこういう話題を持ち出したのかというと、私がそこで必修として受けざるを得なかった授業の一つ、しかも必修でなければ選択しなかったであろうもの、それに言及するためだ。その授業こそ、「審美学 / Aesthetics」と呼ばれるものだった。この授業の背景にある考え方は粗方次のようなもので、すなわち――未来の娯楽企画者として学生諸君はメディアにおける芸術と美の役割を理解しておく義務がある――というものだった。この授業の大半の時間は伝統的な形態の芸術の鑑賞に費やされ、美という概念に至る一般的原理への理解が目的とされた。
果たしてこの「審美学」の授業は私にとって、四年間の大学生活の中で指折りに気に入った授業の一つになった。この授業で学んだいくつかの非常に重要な教訓は、私のマジックの設計に強い影響を与えている。
教訓1:美とは主観的なものではない――我々がこの授業で最初に学んだのは、美とは非常に客観的なものだということだ。ある性質を他のそれよりも魅力的に感じる、そのような特性が人間の脳には間違いなく組み込まれている。そしてこのことは、人によって意見の不一致があることを否定するものではない――事実、考え方や好みの違いというものは確然的に明らかに存在するのだから。そうではなく、審美学は【脳という生命科学の領域を参照することで】科学として研究されうる、と言っているのだ。
教訓2:人が感じ取るものは、自分が意識的に知覚していないものだ――おそらくこれが私の学んだ教訓で最も価値の高いものだろう。この教訓の背後にある考え方は、ある一つの物の審美を決定付ける要素の多くは、観測者が意識している要素ではない、というものだ。すなわち、全ての規則に従うことは、そのことがプレイヤーに直接知られるわけではないとしても重要なことなのだ。【この教訓によれば】総合的な影響が出てくるはずだからだ。
教訓3:美は細部に宿る――これは教訓2の延長線上にある。被造物の全体的な美は、多くの細分化された諸要素によって決定付けられる。教訓3が我々に言わんとしているのは、カードを設計するに際して我々は、些細な物事に対しても非常に大きな注意を払う必要があるということで、それというのも、プレイヤーが完成品を見た時に、その些細な物事は一緒くたになって彼らの目に映り、彼らの感想に大いに影響を及ぼすからだ。
教訓4:構造は美である――人間は構造を好き好むものだ。それも非常に。そうであるから彼らが下す美の定義は、対象がどれほど構造化されているかという点に非常に大きく左右されている。設計のためにどれほどの量の規則や制約が課せられているか、それを知ると多くの人々が衝撃を受けるところだが、これらの規則の存在には重大な意義があるのだ。つまりそういった規則や制約が存在が、【マジックというゲームの構造化の一端を担っているのであり、】製品をヨリ魅力的なものにしているのだ。
教訓5:均衡こそ重要である――これは教訓4と関連している。人間は均衡に対して生まれながらにして願望を抱いているものだ。人間の審美的な感性は、平等化された物事に対して好意的な反応を示す。マジックのフレーバー全ての核となるカラーホイールはまさに、この人間の願望へ直接に働きかけているのだ。
教訓6:物事には結び付きが必要である――これもまた教訓3と関連している。人間は本能的に物事を結び付けようとする。以下に挙げる授業からの引用は、このことの最良の具体例だろう――すなわち、無作為にテレビのチャンネルを選び、音声を切る、そして無作為にCDをかけ、無音のテレビを観ながらCDの音楽に耳を傾ける、という実験だ。テレビの映像とCDの音楽とが、次第に結び付いて感じられるようになるはずだ。何故かと言うと、人間の脳に物事を結び付ける能力が実装されているからだ。これこそ、脳がもたらす作用だ。【互いに無関係な二つの物事さえまとまりのあるように理解される、そのような本能が人間の脳には組み込まれている、】けれども、結び付きがヨリ容易であるほど、脳はヨリ嬉しく感じるものであって、そしてその感覚がヨリ審美的な感性に変換される、ということだ。
以上が、私が審美学の短期集中コースの授業で学んだ教訓だ。マジックにとってこれらの意味するところは、設計者も開発者も細部に対して非常に時間をかけなければならない、という点にある。そうすることで商品はヨリ審美的な、つまり「ヨリかっこいい」ものに仕上がるはずだ。
そこで、これがサイクルにとってどのような意義を持ってくるのかが問題になってこよう。サイクルとは審美である――構造化されていて、均衡を有していて、互いに結び付きを持っている。つまりサイクルは、その収録されたセットを審美的に高める役割を担っているのだ。
●フレーバーの付与
マジックの最重要要素の一つはフレーバーである。もっとも、読者諸兄の中にはフレーバーをさほど重要視していない者がおられることも、私は重々承知している。そういう人にとってゲームとは印刷されたカードが全てたりうるだろう。それは素晴らしいことであって、そういった遊び方も私は嬉しく思うところだ。しかしながら全体として見れば、そのような考え方をしない集団も確かに存在するのであって、ゲームのフレーバーに強い関心と注意を払っている人もいる。例えばある特定の色のカードしか使わないという人、特定の色のカードは絶対使わないという人、何か特定のお題に則ってデッキ構築をするという人、あるいはマジックの背景設定の小説を読んで楽しむという人。こういう人々のことを考えて、我々製作者側はフレーバーを注意深く取り扱う必要があるのだ。
そこで次なる問題が生じてこよう――フレーバーにとってサイクルは何故そんなにも重要なのかと。理由は次のようなものであって、つまりマジックにおいてフレーバーの中心にあるのはカラーホイールであるからだ。各色の定義は孤立して行なわれているのではなく、相互に対比されることを通じて行なわれている。サイクルを用いることで我々は、そういった色同士の差異を適確に表現できるのだ。オデッセイブロックの「代替勝利条件」サイクルを例に取ってみよう。これらのカードのフレーバーは、各色が他の色と比べて自分の最も得意とする、そのような勝利条件を新たに創ってゲームのルールを変えてしまう、というところにある。
白の思いは、対戦相手よりも長生きすることが最重要だというものだ。青が欲するのは、対戦相手の頭脳を出し抜くことだ。黒は対戦相手に苦痛を与えるのが最良だと考えている。赤が好ましく感じるのは、対戦相手が適切に対処できないような混沌とした状況を演出するときだ。そして緑は、クリーチャーの大群を呼び寄せて彼らと戦うことだけを欲している。これらを比較対照すれば、各色について理解できるのみでなく、互いにどれほど相違しているかをも知ることができるはずだ。
●全員を幸せにするためには
我々開発陣がマジックに携わることで得られる喜びや満足のひとつは、ゲームに新しい物事を付け加え続けるというところにある。ジャッジメント収録の「願い」のように、時として我々は非常に洗練された物を、是非ともプレイヤー全員に使っていただきたいと思える物を付け加えることができた。サイクルを通じて我々は全員に公平な機会を設けることができる。当然、一つのサイクルのカードが全て同程度の力を持っているわけではない。しかしながら時間をかけてではあるが、どの色にも輝ける時機が来るよう我々は取り計らっている。
●採血の許容【Allow Bleeds】
マジックにおけるもう一つの喜びや満足は、我々は規則に対して厳格でなければならないのだが、それを時どき意図的に破ってみるというところにある。しかし規則を破る上で問題なのが、それが特別な例外として行なわれた苦心の成果であるのだと、プレイヤーに理解してもらうことだ。サイクルはこの目的を果たすのに大きな役割を担っている。
ドラゴンを具体例として挙げよう。普段ならばドラゴンは赤のクリーチャーだ。しかしミラージュにおいて我々は、他の四色にもドラゴンを宛がう機会を設けてみてはどうだろうか、と考えたのだ。我々は≪真珠のドラゴン / Pearl Dragon≫≪霧のドラゴン / Mist Dragon≫≪地下墓地のドラゴン / Catacomb Dragon≫≪火山のドラゴン / Volcanic Dragon≫≪梢のドラゴン / Canopy Dragon≫から成るドラゴンサイクルを創った。これはプレイヤー全員に楽しんでもらいつつ、サイクルであるがために四体のドラゴンは特例だろうと留意していただけたわけだ。以上ように、色の役割の領分が他の色に一時的例外的に侵食されている、そのようなサイクルが時として作られるのだ。
この点に関して最近の事例を挙げると、トーメントの「ライフを支払う」フラッシュバックのサイクル――≪ほとばしる魂 / Spirit Flare≫≪緻密な分析 / Deep Analysis≫≪ひどい憔悴 / Crippling Fatigue≫≪抵抗の誇示 / Flash of Defiance≫≪ドングリの収穫 / Acorn Harvest≫の五枚がそれだ。通例では、代替コストとしてライフを支払えるのは黒の特権だ。しかしトーメントは「黒に焦点を当てたセット」であったので、黒の支配性を表現するために黒の能力のいくつかを他の色に輸血させるのは、ともすれば手際の良い演出かもしれないと我々は考えたのだ。サイクルとして仕上げることで、我々はこの黒優位のフレーバーを自然なやり方で実現することができた。
●あなたのためのサイクル【原文は「A Cycle Built For You」。名曲『デイジー・ベル:二人乗りの自転車』の原題は『Daisy Bell――A Bicycle Built for Two』】
お分かりのことと思うが、サイクルについて語りたいことは非常に多くある。サイクルは設計上非常に重要であるので、私が今回述べられたのは氷山の一角に過ぎないと思われる。ともあれ今回はここで一区切り付けよう。続きは他日、機会を設けるつもりだ。今回の記事が読者諸兄にとって、サイクルが果たす役割の重要性を少しでも深く理解する契機になったなら幸いだ。
来週もまた参加していただきたい。Type1、現ヴィンテージについて述べるつもりだ――冗談ではなく、本当の話だ。
その時まで、君たちの贔屓の色が次のサイクルで一番になっているのを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
今回訳出した記事には公式訳『リミテッドにおける2色の組み合わせ』が存在します。
http://mtg-jp.com/reading/translated/0014981/#
なんとなくカラーパイに関係してそうだと思って原文発表直後に訳出を始めたのですが、訳出終了の前日に公式訳が発表されてしまったので、USBメモリの中に幽閉していました。やはり最新記事の訳出は迅速に完遂しなければいけません。
http://mtg-jp.com/reading/translated/0014981/#
なんとなくカラーパイに関係してそうだと思って原文発表直後に訳出を始めたのですが、訳出終了の前日に公式訳が発表されてしまったので、USBメモリの中に幽閉していました。やはり最新記事の訳出は迅速に完遂しなければいけません。
≪リミテッドにおける二色の組≫
原題:Color Pair Building Blocks
Marshall Sutcliffe
2015年5月20日
http://magic.wizards.com/en/articles/archive/limited-information/color-pair-building-blocks-2015-05-20
ここDailyMTG.comではモダン週間を迎えている。だが、我々は≪出産の殻 / Birthing Pod≫の禁止について討論するわけでもなければ、≪集合した中隊 / Collected Company≫が現環境へ与える影響について討論するわけでもない――それはおそらく君たちが期待するところであるはずだ。そう、私はこの記事を確然的で信頼置けるリミテッドプレイヤーへ捧げるつもりだ。我々が愛して止まないリミテッド、それと同等の特別な思い入れがこの記事には込められている。デッキ構築、マナ基盤、パックの並び【variance:平方偏差】、計画練り、開封作業、そして時計を用心深く見ながらゲームを全うすること――これらに君たちも夢中になる必要がある。
40枚デッキへの志向を取るがために、我々はモダンについての議論を避けてしまうかもしれないが、実際にはそう的外れな話題に終始するわけではない。何と言っても各セットをそれぞれ特別にしている要因のひとつは、我々が新たな素晴らしいカードでドラフトを行なえるようになる、という点にある。それは我々の大多数にとって、初めての機会であろう。今回私が取り上げるのは、十通りの色の組がリミテッドで普段どのような様相を呈するか、ということについてだ。そしてモダン週間に敬意を示すため、モダンマスターズ2015【MM2】で私の目を惹いた色の組を特に強調していくつもりだ。
●ありきたりな類型論
新たなフォーマットに判定を付けるに際して、有用なのは類型論の立場から考えることだ。類型とは、ある種の物事の典型的な標本だ。今回の事例では、二色の組み合わせがリミテッドのマジックでいかに協働するか、という色見本だと言える。
ほとんどのセットは、リミテッドを二色デッキで遊べるようにデザインされている。この傾向から外れるような具体例としては、タルキール覇王譚が挙げられる。だが大抵の場合、新セットでのリミテッドに期待されるのは、【各カードの】潜在性が【一つのデッキに】行き渡るのを可能とするマナ調整基盤であり、それを搭載した二色デッキであるはずだ。
もしそうであるならば、リミテッドで何度も見られる十通りの二色の組み合わせがあることになる。これらそれぞれを歴史的に把握することは、新たなセットに備える一助となりうる。私がここで強調しておきたいのは、これから述べることが一般的なものである、という点だ。ほとんどのセットはこれら二色の組の例外事項と、それら例外の機能のあり方とを示している。新たなメカニクスとセットの構造もまた、色の組み合わせを雑然とさせている。予想だにしなかった方法で色の組が表現されるのを、我々は時折目の当たりにする。
以下の試みは、これら色の組がセット毎にいかに動作してきたか、その見通しとなる青写真を提示することだ。先述したように、MM2で私の目に留まったいくつかの色の組について、いくらかの予報も含んだ記述になっている。
●白青
リミテッド仕様の白青と聞くと、ほとんどの人が「飛行」デッキを連想するだろう。白と青はほとんどの飛行クリーチャーを有しており、それを中軸に使って制空権を支配する、というデッキだ。また、地上を守る高いタフネスのクリーチャーを、展開速度を操る青の呪文や受動的な白の除去呪文が補助することで、対戦相手を減速させる、そしてこれらは航空部隊が任務を終えるのに十分な時間稼ぎとなるのだ。
この類型が優れているとき、【むしろ】「非常に優れている」傾向にある。つまり飛行は、リミテッドでは単純に非常に強力だということだ。
MM2での白青は、以前の記事で言及した白黒のスピリットデッキと同等のものを組むことができるが、【それよりも重要なことに】強力なアーティファクトという準主題を持っている。例えば白の≪宮廷のホムンクルス / Court Homunculus≫、≪急送 / Dispatch≫、≪マイア鍛冶 / Myrsmith≫、青の≪フェアリーの機械論者 / Faerie Mechanist≫、≪クムラックス / Qumulox≫、≪銀白のスフィンクス / Argent Sphinx≫だ。
非常に多くの優秀なアーティファクトがMM2には収録されており、それらはこの類型を後押しすることだろう。
●青赤
率直なところ、青赤は素晴らしい組を作るような傾向にはない。この二色の組から我々が見出しうる一つの事実は、除去の量と質がこの系統のデッキの成しうることの多くを規定している、ということだ。青は展開速度を操る呪文や緩慢な除去呪文、詳言すると、実際にクリーチャーを殺すわけではないが除去として機能しうる呪文、を有しているし、また赤は火力呪文を有している。火力呪文は伝統的に、小型や中堅のクリーチャーを始末する有効な手立てだが、巨大で爆弾のような脅威に対しては憂き目を見させられる。
この類型が立ち現れるのは、普通ならば、何らかのメカニクスがそうすることを可能としているからだ。このデッキは速度を基盤にしていて、【ゲームの展開が】素早い。これが必要としているのは速攻クリーチャー、飛行持ち、そして軽い介入呪文であり、したがって滅多に防御的に立ち回ることはなく、攻撃の極致に向かいがちだ。
●緑青
緑青は私にとってともすれば、マジックの中で贔屓の二色の組み合わせかもしれない。非常に魅力的な大型クリーチャーが先陣を切って繰り出され、強力な速度を伴う立ち回りが展開される。束のようにカードを、それも歴代で最上の部類に入るようなものを、手札に引き入れることもあるだろう。【ところで】私は先ほど青赤で除去呪文について触れたが、そこがまさにこのデッキのアキレス腱だ。根本的な除去呪文というものを、この色の組み合わせは全くと言っていいほど有していないのだ。最近では緑は「対飛行持ち」のカード群という、近似的な除去として優秀な役割を果たすものを宛がわれた。青の送還呪文や緩慢な除去呪文も、依然として健在だ。
MM2の中で非常に興味深いコンボの一つをここに挙げよう。≪水辺の蜘蛛 / Aquastrand Spider≫と≪テゼレットの計略 / Tezzeret’s Gambit≫だ。移植と増殖とが作り出す、非常に見栄えの良い相互作用だ。【ちなみに移植クリーチャーは青や緑に多く見られるが、増殖は≪着実な進歩 / Steady Progress≫、≪かき鳴らし鳥 / Thrummingbird≫など青に少数限られている。】
基本的に、移植持ちクリーチャーは+1/+1カウンターによって出来ていて、増殖持ちカードはそれら全てのカウンターを一度に増やすことができる。もし移植持ちクリーチャーの一団を戦場に並べることができ、その後に増殖カードを回し始めることができれば、君のクリーチャーは早々に管理を逃れて成長していくことだろう。
●青黒
あぁ、そうだとも、これも私の贔屓の組み合わせだ。青黒は傾向として、最も価値あるコンボを作り上げる組み合わせだ。ほとんどの構築環境においてこの組はコントロールデッキであり、堅実で密度の濃い黒の除去と青のドローがカードアドバンテージをもたらす、圧倒的実力を誇る由緒正しいデッキだ。一たび対戦相手の脅威が塵となって収まれば、優秀な巨大クリーチャー、あるいは少数の青の飛行持ちかもしれないが、それらが止めを刺して任務を終える、ということだ。
しかしながらこの手のデッキは遅くなりがちで、優秀な攻撃的デッキに見られる素早い軽量なドローカードに対面すると、後手に回って轢き殺されてしまいがちだ。私が思うに、諸君が自分のデッキを構築する際には、このような対戦相性の良し悪しを念頭に置き、その他の点についても自分自身の経験から批判を引き出すべきだろう。もし君のゲームが脅威に対する除去やカードを引くことで出来ているなら、それは【青黒魔法使いの隠れ】家を見つけたと言えるだろう。もしそうなら、ようこそ。
●黒赤
ここに来て我々は、真に攻撃的な色の組み合わせに初めて相対することになった。黒は普段から軽量な脅威と最高水準の除去という素敵な詰め合わせで出来ているし、一方で赤は、より軽量な脅威と火力呪文を、詳言すると、序盤は対戦相手のクリーチャーを焼くのに有用でありつつ、終盤は対戦相手本人を焼いてゲームを終わらせる一助となる、そのような火力呪文を有している。もし諸君のようなマジック愛好家の中で、ゲーム開始時に20点ある対戦相手のライフを可能な限り素早く削り取るということ、このことに駆り立てられる者がいるとすれば、この黒赤デッキがその人には誂え向きだ。
MM2について言えば、我々は狂喜【血への渇望】メカニクスの復活を見出せる。ビートダウンの使い手にとっては朗報だ。狂喜は対戦相手を敗北に追い込むことだけでなく、可能な限り攻撃的なデッキを使うよう自分自身を仕向けることにも、非常な影響力があるからだ。狂喜とはビートダウンデッキのことであり、それは時代が変わっても変わらない事情だ。
通常ならば、≪ゴブリンの投火師 / Goblin Fireslinger≫のようなカードが誰かのカード一覧表の上位に食い込むことは、まず起こらないはずだが、≪血のオーガ / Blood Ogre≫というマナカーブを規格外に超えた狂喜持ちが存在する今回のような環境では、評価は釣り上がることだろう。
●黒緑
黒緑はより「グリンドな【grindy:「grind」で「珈琲豆などを細かく挽き砕く」】」色の組の一つだ。我々が「そのデッキはグリンドだ」と言うとき、我々が表現しようとするのは、そのデッキが長期に渡って小さなアドバンテージを拾い集める傾向にある、ということだ。【訳注:例えば検索では「Grindy Grixis Control」が引っ掛かる。】これらのデッキは通常、攻撃的なデッキの極致とコントロールデッキの極致、その中間にあると言える。そして幅広いマナ域から重厚なクリーチャーと呪文を採用する傾向もある。
リミテッドのほとんどのデッキが事実上、本質的に、ミッドレンジであると考えるならば、黒緑が最もミッドレンジというデッキ類型に近いと言える。緑のクリーチャーと黒の除去を有し、盤面を妨害によって支配し、最終的には大型の緑のクリーチャーでダメージを押し込む、というゲームの流れだ。このデッキは適切なドローに恵まれれば、遅めのデッキに対して率先的に戦況を支配するよう立ち回ることも可能だ。
●白黒
白黒はおそらく、類型に当て嵌めるのが最も困難な色の組だろう。一般的に言って、この組は利用可能な中で最上級である除去呪文に手を出すことができるが、クリーチャーが互いに網のように強く結びつくことは滅多にない。確かに白は、小型クリーチャーの一団や幾ばくかのトークンを提供するし、また黒は、マナ域に応じてクリーチャーを提供する。しかし、この白黒という除去の濃い色の組にこそ採用したい大型の攻撃役が、実際にデッキに入るのは稀有なことなのだ。白黒デッキの除去が優秀であることは事実だと思われるが、そこで次に引き絞られる焦点は、このデッキに組み込まれるクリーチャーの質がいかほどのものか、ということになってくる。
往々にしてそれに適うクリーチャーは、セット特有のメカニクスの方から訪れてくる。ただし、黒白という色の間で十分な相乗効果が見込める、という条件付きで。素晴らしいことにMM2ではこの条件が達成されている。すなわち≪蝋鬣の獏 / Waxmane Baku≫や≪希望の盗人 / Thief of Hope≫等、スピリットクリーチャーの存在だ。
我々は数週前のこの連載記事で彼らスピリットを紹介したが、MM2の白黒デッキを使う最もな理由の一つとして、彼らは今週もここに立ち現れたわけだ。もしスピリットと秘儀呪文を確保し、それらを展開することができれば、それは強力な戦略に、すなわち素晴らしい終盤戦を不可避なものとして確約し、一方でそこまで持ち堪え生き長らえるという戦略にもなるだろう。
●緑白
往々にしてこの組は、色の組み合わせの中で最も「公正な」ものだと見なされる。この組は全ての実戦に耐えうる【relevant:適切な。関与のある】マナ域に手ごろなクリーチャーを有していることが多く、またゲーム全体を通じての計画が率直であるため、初心者にも人気のある取り合わせだ。まずクリーチャーを展開し、それらをコンバット・トリックや少量の除去で支援し、クリーチャーで殴りきろうと試みる、という計画だ。白の除去カードの質と緑の戦闘カードの質が、この種の緑白デッキ全体の出来を左右しうる。
この種のデッキを使うべきでない状況として挙げられるのは、例えば、他のデッキに含まれる相乗効果の方がより早くゲームを展開する、そういった事情が見られる場合だ。諸君は、対戦相手のであれ自分のであれ、多くのカードと相互作用を得ることはできない。そうであるからには、自分のパワー水準や【デッキの】一貫性によってそれを埋め合わせるべきだ。これはなかなか出来ない要求だが、時として直面しなければならないものでもある。
●赤白
この組は、攻撃的な領域の最果てで重苦しく歪んでいるが、見栄えの良い捩れ方をしている。赤白のカードが自らに課したのは、二つないし三つの枠に注力を引き絞ることだ。優秀な除去呪文同様、最良の多くのクリーチャーがこのデッキには含まれるからだ。換言すると、赤白使いは盤面に手ごろな脅威を置くことから始め、それを駆け引きや除去で支援する。軽量の火力呪文、強力な白の除去、そしてダメージを通し続けるためのコンバット・トリックの束、赤白はこれらを有する。
この組み合わせの本領は、トークン生成能力にある。両方ともトークン生成能力を持つ色であり、赤白使いは軍団を「横に拡げ」、パワーを全体強化する呪文で膨大なダメージを弾き出すことができる。
MM2では、トークン生成という主題は鳴りを潜めているが、代わりにクリーチャー増強という主題は多く見られる。≪血まなこの練習生 / Bloodshot Trainee≫や≪炉火のホブゴブリン / Hearthfire Hobgoblin≫がそれだ。
これらのようなクリーチャーを交えることで、どんな手段であれパワーを強化させるのはいかに強力であるかが分かっていただけると思う。装備品、オーラ、使い捨ての増強呪文、何であっても構わない。ものの数回パワーを上げるだけでも、それからゲームを終わらせるために必要な時間は短くなっているものだ。
●赤緑
ほとんどの人は赤緑を見ると≪不屈の自然 / Rampant Growth≫を連想するが、それはある意味ではリミテッドでも同様だと言える。というのは、土地を伸ばすことが赤緑の基本戦略だ、とは私は考えていないからだ。【そうではなく、赤緑の本領は以下のような事情にあると考える。】赤緑デッキは大抵、デッキ内の多くが「恐ろしいクリーチャー【dinosaurs】」だというように仕上がる。ご存知、馬鹿でかくてうすのろなクリーチャーを戦場に並べて攻撃するだけ、という類の簡単なデッキだ。こういう言い方はいささか単調に聞こえるだろうが、驚くべきことにこの戦略は多くの環境で有効なのだ。
誂え向きの例として、最初に話した白青デッキとの対戦が挙げられる。もし赤緑使いの君が大きな脅威を着地できた場合で、そしてそれが対戦相手の地上の防御役を薙ぎ倒したり、空中の攻撃役よりもダメージレースで優位に立てたりできるほど強力であるならば、対戦相手は、その眼前に迫った脅威への具体的で有効な回答を見つけなければならない、という多大な圧力を感じることになる。この事例について公正を期して論を進めるが、もし青白側が回答を持っている場合、普通なら赤緑側はそのまま負けだ。十分な相乗効果を持たせずに巨大クリーチャーを展開していくだけという戦略の短所は、ここにある。
MM2での類型について言及することは、もはやない。敢えてもう一点だけ強調すれば、最も可愛い絵を宛がわれた最も可愛いクリーチャーは、初めて再版となった≪黙示録のハイドラ / Apocalypse Hydra≫だと思う。
●教訓
いつものことながら、私の記事から何かしら、諸君がゲームを発展させる一助となるものを学び取っていただければ、それこそ私の本望だ。我々は情熱に近いほどまでにマジックに夢中になっていて、その要因は数多くあるだろうが、私にとってのそれはゲームが与えてくれる機会、すなわち絶え間なく改良していくための機会、これであると考えている。このゲームの到達しうる上限は非常に高く【現時点ではまだまだ発展の余地を残していて】、我々は自分のゲームを永遠に続けられる、そのように私は感じるのであって、私はそれを心地よく思っている。
二色の組み合わせそれぞれが一般感覚としてどう動くかを知ることで、特定のセットがいかに失敗しているかを推量できるようになるが、しかし言い換えればこの知識は、色の組がそれぞれ普段から外れているか否かを識別するための基準線となりうる。私が高校生のときでバスケットボールをしていたとき、指導官は常日頃から生徒をこう注意したものだった。我々の偶像化するプロプレイヤーがやるような思い付きの【fancy】技を見せるよりも前に、まずはゲームのイロハを習得しなければならない、と。
そう言った指導官は、全面的に正しい。私は基礎に注目するにつれ、思い付きの要素を容易に感じるようになった。マジックについても同様だ。もし色の組が普段ならどのように動くかを知っていれば、それとは別のように動く特殊な条件はどのようなものかということをも知ることになるはずだ。そしてこのことは、自分が最先端にいるのか、あるいは残余の群集と一緒に後れを取っているのか、その違いについても示唆していると思う。
私は前者の道でありたいと思う。
それでは、また来週会うときまで!
オリカ作りたくなってきた(作るとは言ってない)。
≪単純であり続けるためには――少ない方がヨリ良い理由≫
原題:Keeping It Simple ―― Why less is more
Mark Rosewater
2002年5月20日
http://archive.wizards.com/Magic/magazine/article.aspx?x=mtgcom/daily/mr21
「デザインとは芸術であり、デベロップとは科学である」――これは研究デザイン部の格言だ。【芸術とは技術であり、手や道具の持ち分である、また科学とは思考過程であり、頭の持ち分である。】
およそ一ヶ月に一度の頻度で私は繊細な問題を取り上げ、その背後にある原因を説明するよう努めてきた。今月取り上げる繊細な問題は、デザインにおいて単純性がどのような役割を担うかというものだ。
マジックは非常に複雑なゲームだ。マジックプレイヤーは平均として見れば、非常に頭が切れていらっしゃる。では何故、研究デザイン部はあくまでも可能な限りカードを単純にしようとするのだろうか。何故我々は確然的に明らかなのに、注釈文をわざわざ付けるのだろうか。何故我々は過去のカードの洗練されたメカニクスのいくつかについて、再び採用するのを頑なに拒んでいるのだろうか。研究デザイン部は今後どうするつもりなのか。我々はリチャード・ガーフィールドが最初に抱いていたマジックの未来像から移ろいつつあるのだろうか。我々は「ゲームを骨抜きにして簡略化している」のだろうか。今マジックで何が起きているのだろうか。
皮肉なことに、単純性の問題は入り組んだ話題だ。したがって私が今回の記事に込めた意図は次の二つである。第一は、単純性がそれほどまでに重要である理由をヨリ深く理解する、その切っ掛けを読者諸兄に設けることで、第二は、単純性が実際にどのようにゲームを発展させているかを説明することだ。どうやら前門の虎とサヨウナラできても、後門の狼とコンニチワせねばならないようだ【原文は「Bye bye, frying pan. Hello, fire!」――「一難去ってまた一難」に相当する慣用表現「Leap out of the frying pan into the fire / 鍋から火へと飛び込む」の砕いた言い回し】。
●将来を見据えて
まずマジックの設計者や開発者が担う役割を述べさせていただきたい。すなわちそれは、「マジックを実現可能なだけ最良のゲームにすること」だ。それも次の一年間に限らず、百年間を見越しての目標だ。仮に私の記事をその役割に徹しさせるならば、研究デザイン部がその目標を達成するためにどれほどの時間と労力を費やしてきたか、を述べることになるだろう。我々は自分たちが伝統の上で仕事を積み重ねているのを自覚している。そうであるから、我々は非常に強い責任感を感じながら、ゲームに関して長時間かけて考察している。そう、つまり、研究デザイン部は将来を見通す視座を持つよう強いられてきたということだ。これが単純性とどう関わってくるのかと言うと――全てに関わってくる。
ここでマジックの長期的な問題について言及しておこう。マジックとは複雑なゲームであり、複雑なゲームとはそれ自身の規則を覆すようなゲームである。我々が新しく作るどのカードも、この複雑な体系に付加される。そして長期的に問題になってくるのは、カードが一枚新しく印刷されるに際して、その最新のカードは直前のカードに比べて丁度一枚分、関わり合いを想定できるカードが多いということだ【――当然と言えば当然ではある。今作られるBというカードは過去のAしか参照できず、Aとの相互作用しか想定できない。しかし次に作られるCは、AとBそれぞれとの相互作用を予め想定できる。後から作られるカードほど参照可能な前例は多くなる。ゲームの歴史が長くなるほど参照可能であった枚数に開きが出てしまう、ということが問題になってくる】。我々はこれを阻止する術を持たない。この問題に、以下の事情も附言しておこう――マジックのルールブックは四ヶ月ごとに合衆国憲法に匹敵する量の文章が付け足されている。そして平均的なプレイヤーはそんな本を持ってすらいないものだ。
以上の事情は研究デザイン部に困難な課題を提起している。どのようにすれば我々は、自壊させることなくゲームを斬新にあり続けさせられるだろうか、と。そしてその回答が、単純性だということだ。それもゲームの戦略性においてではなく、カードデザインにおいての単純性だ。この辺りについては、詳らかに述べる必要がありそうだ。マジックというゲームはとどのつまり、カード同士の相互作用だ。例えば二枚の非常に単純な呪文であっても複雑な相互作用を持ちうるように、ゲームの複雑性はカードの相互作用に伏在していると言える。個々のカードは必ずしも複雑でなくて構わない。この事情はチェスというゲームを見ればヨリ分かりやすいかもしれない。チェスのどの駒も単純明快な働きを持っているし、総合ルールも一頁に収まるほどのものだ。それにもかかわらず、チェスは非常に豊かな、戦略的に深いゲーム性を有している。このことはマジックにも同様に当て嵌まる。カードの単純性は戦略的な複雑性を排除しないのだ。つまり、出来るだけカードを単純に作るという道を選んでも、それは「ゲームを骨抜きにして簡略化している」ことにはならない。単純なデザインは複雑性を、個々のカードからカード同士の相互作用へと移しているに過ぎないのだ。
この主張を裏付けるものとして、私はオデッセイに取り組んだ。どのカードも単純明快に仕上げつつ、スレッショルドやフラッシュバックや墓地との相互作用が、とりわけリミテッドにおいて、入り組んだゲームを実現させている。研究デザイン部はマジックから些かでも豊かさを奪おうとは考えていない。チェスの美点はクイーンそのものではなくクイーンの初手に眠っている。マジックで言うならば、≪Ancestral Recall≫はゲームの核心部分ではなく、カードアドバンテージという構想を提示しているということだ。
●芸術のために
創造的な試みとして行なわれるデザインは、芸術の一つの形態であると私は信じている。そうであるから私は、自分のデザインを実際に取り扱う際には、自分の文章に対して行なっていたのと同様に注意を払っている――初期の記事を知らない人のために附記しておくと、私はウィザーズ社に来る前はハリウッドで脚本家を務めていた。私が執筆業から学んだ鍵となる教訓の一つは、簡潔さの重要性だ。私の恩師の一人がいつも言っていたことだが、「芸術とは表現だ――出来るだけ多くの事を、出来るだけ少ない物で以ってして行なう」。
例えば、映画の脚本について私が教えられたのは、どの場面についても可能な限り遅く始めさせ、可能な限り早く終わらせる、という指針だった。存在すべきものは、存在が必要とされるものに限られる。これは単純化という硬貨の片面、つまり審美に関わる命題だ。この話題は今日の記事で取り上げるにはあまりにも大き過ぎるので、いずれ別に記事を設けて詳らかに述べようと思う。私がここで審美について言及したのは、それが単純化を採用する大きな理由の一つであるからだ。カードを単純であり続けさせることは、それらを微細で緻密に、しかし非常に強力で詩的でさえあるような在り方に高めさせる。
●イロハのイ
大局的な観点については以上で充分と思われる。以下では単純化の実践的な効果について話題を移そう。単純化はカードの仕組みにどのような影響を与えるのか。それには四つの大きな枠組みがある。不要な文章を除去すること、不要なメカニクスを除去すること、似たものを一つに統合すること、そしてルールからカードへと焦点を宛がうことだ。これらを一つずつつぶさに見ていこう。
●1:不要な文章を除去すること
カードを単純化させる最も基本的な方法の一つが、不要な文章を消し去ってしまうことだ。不要な文章は「ゲームに全く乃至少ししか影響を与えないようなルール文章」として定義される。往々にしてそのような文章は、カードに何らかのフレーバーを宛がうために書かれたものだ。完璧な具体例は、アルファ版収録の≪城壁 / Castle≫だ。「あなたがコントロールするアンタップ状態のクリーチャーは、+0/+2の修正を受ける」が現行の文章だが、アルファ版ではこの後に「攻撃クリーチャーはこの修正を受けない」という旨の一文が続いていた。この「攻撃クリーチャー云々」の一文は、タップせずに攻撃できるクリーチャーに修正を与えないよう書き加えられたものだ【――≪城壁≫の外に出たクリーチャーには恩恵が及ぶべきでない、というフレーバーが重視された】。とはいえ、警戒持ちのクリーチャーはアルファ版当時では≪セラの天使 / Serra Angel≫だけだったのだが。さて、この二枚のカードが相互作用するような状況が、どれだけ頻繁に起きただろうか。そうそう起こることではなかった。となると、≪城壁≫の最後の一文に果たしてどれだけの価値があるだろうか。研究デザイン部は無価値だと判断し、第6版に収録するに際してカード文章を変更した。
「攻撃クリーチャー云々」の文言は実際何をしたと言うのだろうか――この程度の事で口論をしなければならないのは何故か。その理由は、マジックの長期的な健全性にとって最大の脅威は、過剰や過多の物事――つまり目に付き易く、把握し易い物事――ではなく、微小な物事が積み重なっていくことである、という事情にある。文章欄は貴重な情報資源である。もし文章欄がその務めを十全に果たしていないならば、何らかの変更が加えられる必要がある。私はこれをゲームにおける体重減量のようなものだと考えている。健康を維持するためには、無駄なものを摘み取って全体を調整するべきなのだ。
【蛇足だが、この≪城壁≫は後に≪建築家の祝福≫としてヨリ適正なフレーバーとして同型再版された。カードタイプのフレーバーに関しては『アーティファクトだけを話して下さい、奥さん』参照。】
●2:不要なメカニクスを除去すること
核心部分において、マジックは探究のゲームである。そしてそれはプレイヤーにとってのみの事情ではない。研究デザイン部もまた、新しいセットに備えて新しいメカニクスを作り出すという形で探究している。なるほど我々は新しいカードを試験運用することができるものの、どのメカニクスが何十万というプレイヤーに徹底的に使い込まれるのか、それを的確に予見することは不可能だ。メカニクスのいくつかは成功を収めるはずだが、他のものは失敗に終わるはずだ。研究デザイン部の仕事の中には、どれが前者でどれが後者かを演繹的に推測するというものがある。成功事例は再録という日の目を見ることになり、失敗事例はそれきりということになるのだ。一度でも導入され実装された発想はゲームの一角に将来ずっと居座ることになる、と多くのプレイヤーは感じるところなので、この「不要なメカニクスを除去する」という枠組みはおそらく最も物議を醸す箇所だろう。
この項目に分類される誂え向きの具体例が、バンド能力だ。アルファ版で実装されたこのバンド能力は、基本セットと同様に全てのエキスパンションで収録されるほど、基本的で重要な能力として扱われていた。しかしウェザーライトの時点では、研究デザイン部はバンド能力が本質的に欠陥品だと認識するに至っていた。それというのも、あまりに多くのプレイヤーがバンド能力の挙動を理解さえしていなかったからだ。研究デザイン部はバンド能力の退出を巡って白熱した討論を何度も重ねた。バンド能力支持者はどうして退出させられなければならないのか分からなかった。それはもっとも、彼らはルールを理解していたから良かっただけであって。
ここでの焦点は、残念なことではあるが、マジックから退出させられるものに当てられている。あまり知られていなかったが、研究デザイン部はバンド能力に何とか居場所を与えようと尽力していた。ご存知、研究デザイン部はバンド能力のフレーバーを気に入っていた。小さなクリーチャー達による軍勢が戦闘で最小限の犠牲を以ってして大きなクリーチャーを打ち倒す――このバンド能力はまさに白のフレーバーに含まれるところだと強く感じられていたのだ。だが研究デザイン部は、混乱をもたらすメカニクスひとつを使ってそのフレーバーを表現するよりかは、似たような効果をもたらすヨリ単純なメカニクスを多く創案し、それらをバンド能力に置き換えることの方を選んだのだった。
その到達点へ向けて我々は、白に多くのウイニークリーチャーを補助する能力を宛がった。≪先発の斥候 / Advance Scout≫等、自分や他に付与される先制攻撃。≪重バリスタ部隊 / Heavy Ballista≫等、戦闘に参加しているクリーチャーにダメージを与える、レンジストライクのタップ能力。≪天使の従者 / Angelic Page≫等、戦闘に参加しているクリーチャーをパンプアップさせる補佐的な能力。≪儀仗兵 / Honor Guard≫等、タフネス増強の能力。≪用心深い殉教者 / Vigilant Martyr≫等、自身を犠牲にして他のパーマネントを守る能力。このように我々はバンド能力に近似したフレーバーを、混乱の不可避性を取り除いて表現するよう努めた。
研究デザイン部にとって大切なのは、能力を試験運用にかけることだ。試験無しのマジックはおそらく退屈で、意外性の無い世界になってしまうだろう。この試験運用の副作用のひとつとして、いくつかの発想について二度とお目にかからないよう葬り去ることができる、という点が挙げられる。しかし研究デザイン部がその追放される発想に重要な役割を見出したならば、我々は新たな別なメカニクスを以ってして、その同じ到達点に至ろうと努力するつもりだ。
●3:似たものを一つに統合すること
研究デザイン部がゲームを単純化するために採用しているもう一つの手続きは、統合化だ。すなわち研究デザイン部は、何らかの点で一括りの枠組みに収まるような似通ったカードがないか、常に目を光らせているのだ。この良い事例が、クリーチャータイプだ。過去の我々は新たなクリーチャータイプを無思慮に作っていた。ヨリ細部を描くほど、ヨリ良いと考えていたのだ。≪西風の隼 / Zephyr Falcon≫はファルコンだった。≪オーサイの禿鷹 / Osai Vultures≫は禿鷹だった。≪極楽鳥 / Birds of Paradise≫はマナバードだった。これらはフレーバーに満ちてはいたが、大きな問題を引き起こした。すなわち我々が数多くのクリーチャー、例えば鳥クリーチャーに関わりを持つようなカードを作りたいと思ったとき、果たしてどうなるだろうか。例えば鳥のロード――彼と同じく羽毛で身体を覆われた仲間を統率する能力は、非常に洗練されていると思う。だがマジックのゲームが、そういったカードを受け容れられなかったのだ【、そしてまさにこれが大きな問題だ】。そこで我々は、将来性のある変革を吟味する際に研究デザイン部が常に行なっていることを、すなわち、あらゆる選択肢を挙げ連ねて、どれがゲームをヨリ良くするかを選ぶということを、遂行したのだった。
ここで挙げた事例で言うと、我々に突きつけられた問いは、フレーバーの多様性を把持するか、カードの相互作用をヨリ強くするか、このいずれがゲームにとってヨリ良いかというものだった。マジックは果たして、ファルコンというクリーチャータイプを規定している方が良いゲームなのか、あるいは鳥という部族デッキを組めるような状況を提供できる方が良いゲームなのか。吟味した結果我々は、全ての鳥類を一つの鳥というクリーチャータイプに統合することは、小賢しいというファルコンのフレーバーを消し去るわけではないと判断した。カード名や絵画は依然として「ファルコンらしさ」を表現できるし、クリーチャー全てをファルコンで統一したデッキを組むことも依然として可能だ。しかしクリーチャータイプを統合すれば、プレイヤーは鳥類を共闘させることが出来るようになる。すなわちクリーチャータイプの統合が、デッキ構築の選択肢を多様にするのである。これこそまさに、単純化が時としてゲームの相互作用をいかに拡張しうるか、それを示す格好の事例と言えよう。
●4:ルールからカードへと焦点を宛がうこと
先述したように、マジックの総合ルールは常々嵩張ってきている。その埋め合わせとして研究デザイン部は、総合ルールの負うべき責務を個々のカードへと移し替えている。プレイヤーは総合ルールを読まないかもしれないが、カードは読まざるを得ないからだ。この移行から派生する効果には二つの側面がある。第一の側面は、カードのデザインに重大な制約を課すということ。すなわち各カードは、それ自身の文章欄で説明が果たせる程度の能力のみ、宛がわれ得るのだ。換言すれば、フェイジングのような、ルールブックで何ページにも渡って説明がなされる必要のある冗漫な能力は、今後一切日の目を見ることはないだろう。
私が思うに、以上の判断を「研究デザイン部が社員の裁量に制限を設けている」ものと考えて、抗議の声を上げる者が読者の中にはいるだろう。確かに我々社員は制限を設けられている。しかしそれは非常に深刻な理由があってのことだ。我々はマジックを、ごく一部の物知りしか遊べないような門戸の狭いゲームにしたくはない。そうではなく我々は、マジックの未来像についてはリチャードが最初に抱いた構想を、カードそれぞれの中にゲームが存在するのだという構想を、継承している。もし何らかのカードがプレイヤーにゲームを中断させルールブックを探させるようなことがあるなら、そういったゲームは格別たるに不可欠な要素を欠いているのだ。マジックは【ルールブックの中ではなく】カードの中に存在すべきだ。こうした制約の内に拡がる世界は、しかしながら、広大な可能性を有している。研究デザイン部は今後も、新たな未開地から豊饒な構想をお届けできると、この場を借りて約束しよう。
ルールからカードへと焦点を移すべきだという理念が引き起こす影響、その第二の側面は、注釈文への買い被りだ。私が思うに、これは厄介で扱いにくい論点ではある。この論点に触れた私宛のメールの大多数は、【原文発表当時は「防衛」というキーワード能力はなく、壁というタイプを持つクリーチャーは一律で攻撃に参加できないというルールが存在したが、】「壁は攻撃に参加できない」という注釈文が意味するところを、どんなに少なくとも段落ひとつを設けて、詳細に説明してくれている【――すなわち、「分かり切ったことをわざわざ注釈文にするな」という要望が寄せられている】。急いで附言しておくと、壁を含めて、登場頻度が高く馴染みの深い注釈文は、近年の上級者向けエキスパンションからは削除されつつある。閑話休題。このような指摘、要望に対する私の回答は、次のようなものになる――注釈文とはゲームの枢要に関わる役割を担っていて、非常に重要なものであるので、プレイヤーの皆々様方には寛容な心を以ってしてご容赦お願い申し上げたい。それと言うのも、注釈文の存在はゲームをカードの中に押し止めること、また新規参入者を確保すること、これらを可能にするからだ。この二つの要因を無視しては、マジックの長期的な健全性は危険な状態に陥るだろう。そうであるから私が思うに、時たま見かけるイタリック書体の文章を読み飛ばす程度の苛立ちは、上記二点の効果に比すれば、ごく些細なものではないだろうか。
●まぁ、そんなものでしょう【原文:So It Goes】
研究デザイン部が下した各々の決断の背後には、ゲームの風通しを良くするための入念な熟慮があるのだと、分かっていただけたことと思う。我々が単純化を遂行するのはゲームを軟弱にさせるためではなく、強靭にさせるためだ。ゲームの存続を守るために、我々は随所で切り取りを行なっている。今回の記事を通じて読者諸兄に、スルメのように反芻するに値する考えを幾ばくかでもお届けできたなら幸いだ。私の記事が的確に照明を当てられていればと思うのだが、マジックのデザインとデベロップは複雑怪奇な取り組みだ。しかし一つだけ明確なことがある。マジックを史上最高のゲームに仕上げる、という我々の目的がそれだ。
来週もまた参加していただきたい。マジックにおけるクリーチャートークンについて考察するつもりだ。
その時まで君たちが、マジックのカード一枚一枚の端麗さを嗜んでいるのを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
今回訳出したのはプレイヤー類型論です。Wikiの当該項目が充実している上に、何かと言及の多い話題ですので、新奇の情報は少ないかもしれません。
≪ティミー、ジョニー、そしてスパイク――我らが贔屓のプレイヤー三類型
原題:Timmy, Johnny, and Spike ―― Our three favorite players
Mark Rosewater
2002年3月11日
http://archive.wizards.com/Magic/magazine/article.aspx?x=mtgcom/daily/mr11
本論の前に、少しばかりの設問に答えていただきたい。それほど時間はかからないはずなので、君たちにとって負担にはならないことと思う。
●診断テスト
原注――この診断テストはいつとも知れぬ間に機能停止してしまった。おそらくは原文発表当時2002年のシステムに則って書かれたプログラムが、古くなって通用しなくなったからだと思われる。何卒、ご容赦を。また、列挙したカードはどれもある程度は名の知れたものなので、今になって見ても目新しさはないはずだ。設問1:以下の中から、プレイするのが楽しいカードを5枚選んでいただきたい。
・≪日を浴びるルートワラ / Basking Rootwalla≫【マッドネスと増強能力を持った軽量生物】
・≪機知の戦い / Battle of Wits≫【山札200枚以上で勝利】
・≪獣群の呼び声 / Call of the Herd≫【フラッシュバック持ちのトークン生成呪文】
・≪終末の死霊 / Doomsday Specter≫【継続的な手札破壊を見込める小型飛行生物】
・≪納墓 / Entomb≫【山札の任意のカード1枚を墓地送り】
・≪嘘か真か / Fact or Fiction≫【山札から5枚めくって対戦相手と駆け引き】
・≪火炎舌のカヴー / Flametongue Kavu≫【戦場に出た時に生物1体に4点ダメージ】
・≪ゴブリンのゲーム / Goblin Game≫【品物を隠して対戦相手と駆け引き】
・≪消えないこだま / Haunting Echoes≫【墓地の中身に応じて山札追放】
・≪知識の総体 / Holistic Wisdom≫【手札1枚追放で墓地から同タイプ1枚回収】
・≪催眠魔 / Hypnox≫【11マナ8/8飛行、一時的に対戦相手の手札を追放】
・≪玉虫色の天使 / Iridescent Angel≫【全色に対するプロテクションを持つ】
・≪翻弄する魔道士 / Meddling Mage≫【呪文1枚を封じる軽量生物】
・≪ミラーリ / Mirari≫【追加3マナで呪文をコピー】
・≪もぎとり / Mutilate≫【ほぼ黒単専用の全体除去】
・≪ナントゥーコの影 / Nantuko Shade≫【ほぼ黒単専用の増強能力持ち軽量生物】
・≪放射 / Radiate≫【単一の対象を取る呪文を乱反射させる呪文】
・≪煽動するものリース / Rith, the Awakener≫【苗木トークンを生み出す大型ドラゴン】
・≪スキジック / Skizzik≫【歩く火力。キッカーで残せる】
・≪飛翔艦ウェザーライト / Skyship Weatherlight≫【山札からの直接サーチ】
・≪魂売り / Spiritmonger≫【すっげぇ強い化け物】
・≪心の傷痕 / Traumatize≫【山札の上半分を墓地送りにする】
・≪ウルザの激怒 / Urza’s Rage≫【打ち消されない火力。キッカーで10点】
・≪吸血ドラゴン / Vampiric Dragon≫【吸血能力とティム能力を持つドラゴン】設問2:以下の中から、マジックを遊ぶ尤もらしい理由を3つ選んでいただきたい。
・絵画を楽しむ。
・大型クリーチャーで攻撃するのが楽しい。
・勝利を凱旋するのが楽しい。
・何かを極めるのが楽しい。
・友人と駄弁るのが楽しい。
・競争を楽しむ。
・ゲームで儲ける【――景品や賞金を得る――】のが楽しい。
・知的鍛錬に取り組むのが楽しい。
・カードのイカした相互作用を楽しむ。
・対戦相手をぶちのめすのが楽しい。
・斬新なデッキを組むのが楽しい。
・独創性に富んだ勝ち筋を楽しむ。
・幻想的なフレーバーを楽しむ。
・勝てば何だって楽しい。
●どういう意味かと言うと
最初に。診断結果で複数の類型が、例えば「ジョニー・スパイク」のように併記された場合、冒頭のものが最も顕著な要素だと考えてほしい。
さて、記事の題名や診断テストの設問を見ていただいて、おそらく君たちは「一体全体ティミーやジョニーやスパイクは何なんだ」といった感じの疑問を抱いていることだろう。ここマジック研究デザイン部における我々の仕事は、プレイヤーを喜ばせるようなゲームを創造することだ。そのためには、プレイヤーは我々の作るゲームのどこを気に入っているのかという分析が必要不可欠だ。考察の積み重ねは数多くの要因を巻き込み、全体として長い過程になっていった。時に我々はアンケートを設け、時に討論会を催し、時にウェブ上の掲示板に潜り込み、そして時にプレイヤー本人と話をした。また、公式サイトのどの記事がよく読まれているのかさえ調べ上げた。
幾年を経て我々が出した結論は、マジックのプレイヤーには三つの基本類型がある、というものだった。この分類を装飾的に表現すると「精神図法的人物類型――サイコグラフィック・プロファイル」になる。精神図法的に人物を素描することによって、自分の心を何で満たしているかに応じてプレイヤーは種類分けされるのだ。その人はどんな動機で遊んでいるのか、どんな類のカードが好きなのか、どんな要因がマジックを続けようと思わせているのか【――これらの問いを使って、プレイヤーの心的傾向を大まかに定めるというわけだ】。
我々研究デザイン部は何かにつけて命名するのが好きなので、今回もそれに漏れず、分別された三つの類型にそれぞれ名前を宛がうことにした。それが、ティミー、ジョニー、スパイクであるというわけだ。今回の記事を通じて私は、この三種はそれぞれ何者であるかを説明し、また、このような間抜けな愛称を付けた経緯についても言及するつもりだ。
本題の前にもう一つだけ話しておくべきことがある。ある特定の単一の類型にだけ当て嵌まるようなプレイヤーは、非常に稀有な存在だ。大多数のプレイヤーは数多くの類型を跨ぐように要素を持ち合わせている。診断結果で単一でなく複数の類型を併記された者の方が多いのも、まさにこのためだ。私は各々の人物類型を説明した後で、それらの掛け合わせに関しても述べていくつもりだ。
●ティミー
ティミーは最初に作り出したわけではないが、最初に名前が決まった人物類型だ。ティミーの命名は、テンペストの設計段階で偶然に起きた。各人が≪新緑の魔力 / Verdant Force≫【各アップキープ時に苗木を出す優秀なファッティ】の受けの良し悪しについて予想を立て、意見を交換している時のことだった。読者諸兄の評価はさておき、私は戯曲の才に覚えがあったので、自分の意見を手短に表明する際に、次のような話を作った。
「――子どもがカードショップに行ったとしよう。そうだな、差し当たっては彼のことを『ティミー』と呼んでおこう。さて、ティミーはそれほど多くのお金を持っているわけじゃない。だから彼はボガヴァティ――」これはテンペストのコードネームだ「――のパックを1つだけ買うんだ。彼はパックを開封し、レアカードを探して順次目を通していく。果たして、彼は見つける。緑の大型クリーチャーだ。パワーは7、タフネスも7、なるほど大きい。というか、すっげぇデカい! 彼の視線は動き続けている。そしてマナコストのところでじっと止まる。不特定の5マナ、そして緑マナ、緑マナ、緑マナ、むにゃむにゃむにゃ――なんだ、つまんない。視線は次に移るわけだ。ティミーはルール文章を眺める。何やら言葉が綴られている。読んでみる。どうやらティミーは毎ターン、こいつから別の追加のクリーチャーを得られるようだ。無傷の新しいクリーチャーだって? 確かに苗木は小さいけど、10ターンも経てば7/7の本体に20体の1/1が揃うことになる。そんな大軍、対戦相手はどう止めると言うんだろうか? いや、止められようはずがない! カードを読み終えたティミーは鼻息荒くなっている。彼はまさに自分の聖杯を見出したのだから――」云々。
附言しておくと、私自身もなぜ「ティミー」という名前を選んだのか、はっきりとした理由は分からない。私はその子どもを具体的に人格化したかったので名前を与えたのだが、おそらくはその宛がわれたティミーという名前に、私が例として挙げた純真な子どもの印象が居座ってしまったのだろう。
ともあれ、どういったわけかこのティミーという名前が定着してしまったのだ。
ティミーは、我々研究デザイン部が「パワーゲーマー」と呼んでいる者だ。ティミーは派手に勝つことが好きだ。彼は最後の勝利の瞬間を不安定で際どい形で迎えるのを好しとしない。ティミーは対戦相手をコテンパンにやっつけるのを望んでいる。だから彼の好みは印象深いカードであって、大味なクリーチャーや呪文を使うのに楽しみを見出している。
ティミーは若者に違いない、という誤解がある。ヨリ若いプレイヤーほどこの分類に当て嵌まり易いというのは事実だが、ティミーとはどの年齢層のプレイヤーでもなり得る類型だ。ティミーと他の二種の類型とを隔てる分水嶺は、ティミーは楽しむことに動機を置いているという点にある。彼がマジックを遊ぶのは、それが楽しめるものであるからだ。ティミーは非常に社交的だ。このゲームの彼にとっての肝腎な側面は、自分の友だちと席を同じくして楽しむというところにある。
ティミーは勝利の量よりも勝利の質の方に関心を傾ける。ティミーが10試合座りっぱなしだという具体例で考えてみよう。彼が勝てたのはその内の3試合だけだった、しかしその勝った3試合は対戦相手を完全に圧倒し支配していた、としよう。この場合、ティミーは【10試合を総じて】楽しんだと言えるのだ。彼は満足して店を後にできる。
各セットについて、研究デザイン部は一定量のティミー向けのカードを設計するよう取り計らっている。我々はそれらをティミーカードと呼んでいるが、ティミーカードは派手な効果を持った大型のクリーチャーや呪文に仕上がる傾向にある。概して、ティミーカードは胸躍らされるが、費用面ではあまり効率が良くないものだ。ヨリ燃費の良いものがあれば、それはスパイクの目に留まるはずだ。≪クローサの獣 / Krosan Beast≫【4マナ1/1。スレッショルドで8/8】、≪玉虫色の天使≫、そして各種ドラゴン、これらがティミーカードの具体例として誂え向きだ。
●ジョニー
ジョニーは二番目に名前を宛がわれた人物類型だ。ウルザズ・サーガのデベロップ段階の時点で、研究デザイン部は先述のティミーと「競技志向プレイヤー」の二つを想定し容認していたが、私にはヨリ肝腎な人物類型が見落とされているように思われた。ご賢察通り、私は生粋のティミープレイヤーではないし、生粋の競技志向プレイヤーでもない。私はまさにこの見落とされた第三の鋳型に当たる。彼がどのようなものかを説明するに際して、私は「ジョニー」と不用意に呼んでしまった。ティミーと同様、この名前も定着してしまった。
ジョニーは独創的なゲーマーで、彼にとってマジックは自己表現の手法だ。ジョニーは勝ちに行くのが好きだが、それも彼独自で粋な様式で勝ちたいと思っている。ジョニーにとって、自分自身の勝ち筋を決めるというのは非常に重要なことだ。よって彼にとっては、自分だけのデッキを使うことが重要で、マジックで遊ぶのは自分の創造性をお披露目する機会だということになる。
ジョニーは進んで試練に挑んでいる。彼は他の誰も使いたがらないようなカードで勝利を収めることに喜びを見出す。つまり革新的な勝ち筋を持つデッキを作るのが楽しいのだ。ジョニーと他の二類型を区分するのは、彼が実際の試合と同じくらい――ともすれば試合以上に――デッキ構築を楽しんでいる、という点にある。彼はカード同士の洗練された相互作用に夢中になる。彼がこよなく愛するのはコンボデッキだ。未踏の領域を開拓した時こそ、彼が至上の喜びを感じる瞬間なのだ。
ティミーと同様ジョニーもまた、勝利の量よりも勝利の質の方に意識を傾注している。例として、ジョニーが新しいデッキを組んだとしよう。そのデッキは非常に肌理細やかで洗練された、しかし決まるのが難しい勝ち筋を搭載している。彼は10試合遊び――デッキを自分の理想とする回し方で操れたのは、その中の一度だけだったとしても、彼は満足して店を後にすることができる。
各セットにつき、研究デザイン部はジョニー向けのカードを何枚か作っている。ジョニーカードは彼らがカッコいいデッキを組めるように独特な効果を持っている。概してジョニーカードは、現実的な潜在性を有したカードで、それらの中にはスパイクたちさえも熱狂させるものがあることだろう。≪知識の総体≫、≪放射≫、そして≪機知の戦い≫がジョニーカードの具体例として誂え向きだ。
●スパイク
スパイクは研究デザイン部が最初に認知した人物類型だが、名前を獲得したのは最後だった。実際のところ、「スパイク」は私が出自に関わらなかった唯一の愛称だ。研究デザイン部の他の誰かがというわけでもない。ご存じ、研究デザイン部は長年にわたってプレイヤーを、ティミー、ジョニー、「競技志向のプレイヤー」と呼んでいたのだ。そして、いつだったか、ある時点で我々はマジックのブランドチームにこれら三類型を説明したのだが、それを聞いた彼らは競技志向のプレイヤーにも何らかの名前があった方が良いと思ったようで、それで彼らが名付け親になったということだ。「スパイク」に決定した理由は――私が推測できた中で一番それらしいものだが――彼らにとってスパイクが、まさに勝つために遊ぶ人物類型という名前に感じられ、真剣さを帯びた響きに聞こえたからだろう。
スパイクは競争的なプレイヤーだ。彼は勝つために遊び、勝つことを楽しんでいる。これを達成するためなら、スパイクは最適なあらゆるデッキを手にするはずだ。彼はインターネットのデッキを複製することもあれば、他のプレイヤーのデッキを借りることもあるだろう。彼にとってマジックで胸躍るのは、競争でアドレナリンが活性化される瞬間だ。スパイクは対戦相手を打ち負かし、勝利の栄光を手にすることにこそ喜びと励みを見出している。
スパイクは勝利の質よりも勝利の量の方を重要視している。例えば、スパイクが10試合の内、9試合で勝ちを収めたとしよう。もし彼が10試合とも取るつもりでいたならば、彼は沈んだ気持ちで店を後にすることになるだろう。
研究デザイン部はスパイク向けのカードを多く印刷している。ティミーやジョニーのカードと違って、スパイクカードは作るのが比較的簡単だ。スパイクは勝ちをもたらすカードを使いたがるので、もし研究デザイン部が充分に優秀なカードを作れば、スパイクはそれを使うはずだ。具体的には≪獣群の呼び声≫、≪影魔道士の浸透者≫【攻撃が通ればカードが引ける。畏怖持ち】、そして≪嘘か真か≫がスパイクカードの具体例に誂え向きだ。
●混成の類型
多くのプレイヤーは、そう簡単には単一の範疇に当て嵌まらないものだ。これらのプレイヤーは複数の人物類型を断片的に有していると言えよう。
●ティミー・ジョニーないしジョニー・ティミー
ティミー・ジョニー型のプレイヤーは洗練された派手な効果を好みつつ、ゲームの独創的な側面をも楽しんでいる。ティミー・ジョニーカードを最も良く表したのは、≪消えないこだま≫だ。このカードはティミーを引き付ける豪快な効果を持つが、同時にジョニーへはデッキの核となりうる潜在性を示している。ティミー・ジョニーは対戦相手を打ち負かすことを、それも彼なりの様式で達成することを望んでいる。
●ティミー・スパイクないしスパイク・ティミー
ティミー・スパイク型のプレイヤーは勝つことを望むが、思うままに楽しむという側面をも重要視している。彼がデッキを選ぶ際には、優秀なデッキの中で最も大味なクリーチャーや効果を搭載したものに決めるはずだ。ティミー・スパイクカードの具体例に誂え向きなのは≪煽動するものリース≫だ。彼女は大型のドラゴンでありながらも、優秀な特殊能力を持つので、攻撃的にリソースを費やされるに足る存在だ。
●ジョニー・スパイクないしスパイク・ジョニー
ジョニー・スパイク型のプレイヤーは勝利を望んでいるが、それも自分だけの手法に則って完遂することを望んでいる。地雷デッキを競技環境に持ち込むデッキ構築者は、大多数がジョニー・スパイクだと言える。彼らは気の遠くなるほどの旅路を進み、自分が考案したデッキで勝利を収められるほどの境地を目指している。既存のデッキを使用する必要にあっても、彼らは自分なりの捻りを必ずそのデッキに加えるだろう。ジョニー・スパイクカードの具体例に誂え向きなのは≪日を浴びるルートワラ≫だ。このカードは洗練されていてデッキ構築の可能性に開けつつも、勝つのに十分なカードパワーを有している。
●ティミー・ジョニー・スパイク(三種類全部)
ティミー・ジョニー・スパイク型のプレイヤーは以上の全てを、すなわち派手なカードを使い、革新的なデッキを操り、それでいて可能な限り多くの勝利を収めることを、望んでいる。三方向全てに惹き付けられるプレイヤーは滅多にいないので、この混種は稀有な掛け合わせだと言える。そうであるから研究デザイン部は、三種の人物類型の全てを一挙に満足させるようなカードを、あまり多く作り過ぎないようにしている。そのようなカードの一例としては、≪新緑の魔力≫が挙げられよう。ティミーはその巨大さを気に入り、ジョニーはそのコンボの可能性を評価し、そしてスパイクは、リアニメイトや≪自然の秩序 / Natural Order≫【戦場のクリーチャーと山札の緑のクリーチャーを入れ替える呪文】を軸にしたデッキでの有用性を気に入るだろう。
あなたはどの類型に当て嵌まるだろうか。今回の記事では、我々がデザインやデベロップの段階で考慮する人物類型がいくつか存在する、ということを述べてきた。留意していただきたいのは、これらの人物類型はプレイヤーの動機付けや誘因によって割り振られているのであって、プレイヤーが参加するフォーマットによるものではない、という点だ。ティミーが競技環境に参加することも、スパイクが多人数戦で遊ぶことも、両方ともありうるのだ。研究デザイン部が競技環境やカジュアル環境に特化したカードを作っていく経緯については、詳論としていずれ記事に仕上げようと考えている。
ともあれ、今回の記事はこれでお仕舞いだ。我々研究デザイン部が各セットのデザインないしデベロップの段階で考察する数多くの切り口、今回の記事が君たちにとって、その切り口の一つを少しでも理解する一助となったなら幸いだ。
来週もまた参加していただきたい。イタリック文字で書かれた文章――フレーバーテキスト――について探究していく予定だ。
その時まで、君たちがいつも大勢の人を楽しませているのを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
みんな大好きなカスレアについての記事です。体感ですが、長めの記事です。濃いめの珈琲か紅茶を飲みながら読んでいただければ幸いです。
≪レアながらウェルダンなカード――稀少度と実用性の両立≫
原題:Rare, but Well Done ―― Balancing rarity and playability
Mark Rosewater
2002年2月25日
http://archive.wizards.com/Magic/magazine/article.aspx?x=mtgcom/daily/mr9
【原題は「生焼きながら中まで火が通ってる」と「稀少度レアかつ出来の良い」という両方の意味に取れる洒落。どう訳出するのが良かっただろうか】
インターネットが他の形態のメディアと異なっている点の一つは、その相互接続の要素にある。書物を読んでいる時には、自分の意見を著者に伝える手軽な方法が存在しない。だがインターネットならば、ボタンを押しさえすれば対話を始めることができるというわけだ。
数週間前、私は『カードが駄目になるとき / When Cards Go Bad』と題した記事を著わし、なぜ駄目なカードが存在するかについて説明を行なった。その記事に対しては大きな反響があり、その大多数は極めて肯定的なものだった。しかしながら私の受け取ったお便りの中には、何か共通の、地下水脈のような不平不満の脈絡というものがあるようだった。この不平不満を端的に表象しているのが、次に引用するテッド・ベッドウェルからの投稿だ。ローズウォーター様へ。
最初に申し上げておきたいことですが、私は「メイキング・マジック」の連載記事を心から楽しんで読んでいます。このサイトの中で、最も興味深く洞察に満ちた読み物の一つだと思っています。私は先ほどまで他所の町へ行っていてオフラインの状態にあったので、今こうして記事を読み進めて、最新話まで追い付こうとしています。あなたがネイサン・ウッダールのお便りに対して、あのような非常に長く詳細な記事を投稿していただいたこと、これが私にとって非常に嬉しく思われました。
私の遊び仲間内では、まさにかの話題についてしばしば話し合います。「なぜ駄目なカードが存在するのか?」という問いに対するあなたの回答は、非常に的を射たものでした。しかしながら、ですよ。私が思うに、あなたはネイサンが提示した肝腎な点について言及し損なっています。それは私の見るところでは、「なぜ駄目なレアカード――カスレア――が存在するのか?」という論点です。私たちの多くはネイサンと気持ちを同じくしておりまして、つまり、気前良く買ったブースターから変てこなレアカードが出てきた時に、奪われた感を抱くわけです。優秀なカードの枚数には限りがある点については私も理解し同意するところですが、しかし、そのためにレアのカード群が癌細胞の大量転移したような有様になるのは、筋違いではないでしょうか。
私たちアメリカ人ならば皆納得していることですが、眼前には資本制的経済機構が厳然と作用しています。すなわち、あなた方がヨリ多数の悪質なレアカードを印刷するほど、人民は、優秀なレアカードの需要を満たそうとするなら、ヨリ多くのブースターを購入しなければなりません。今私は給料を貰って雇われている身分ですが、どうやらインターネットでシングルカードとして買い揃える方が、ブースターやスターターを開封するよりも、はるかに費用面で効率的になりつつあるようです。これが事実でなければ良いのになと切望しているのですが、私が顧みるに、ブースターという代物は最終的に何の価値も得られないかもしれないという可能性を孕んでいるわけであって、そういうブースターを買ってウィザーズ社に3ドル支払うよりかは、自分の必要なカード1枚1枚に対して5ドルや10ドル支払う方を私はむしろ選んでおりまして、それというのもやはり、引き当ててしまうかもしれない妙ちくりんなレアカード群が主だった原因なんだと思っております。
このように筆を握ったのも、少しばかりの感想を伝えておきたいと考えたからでございます。ローズウォーター様にとってもおそらく、耳にタコができるほど我々読者から聞かされた話題だったかもしれません。
私のメールを読む為に時間を割いていただき、ありがとうございました。今後とも引き続きよろしくお願い申し上げます。
――テッド・ベッドウェル
アメリカ合衆国メリーランド州コロンビア市
●私の返答
テッドへ。
ご意見ご感想、どうもありがとう。お便りを書く時間を設けるほどまで強く、この話題に関心を持っていただいたようで、私はとても嬉しく思う。「駄目な」カードという話題に取り組んだ際、ネイサンと君の両人が持ち出したレアカード問題をも私は上手に取り繕おうと試みた。今回の記事では、カードがどのように稀少度レアへと仕上がっていくのか、それをヨリ詳らかに論じていこうと思う。「駄目な」カードの記事と同様、今回も普段より幾ばくか文章量の多いものとなる見込みだ。私の長口上な説明に貫徹して付き合っていられない読者は、私の考えを手短にまとめた●要約の段落まで気兼ねなく飛ばしていただきたい。
研究デザイン部にとってこの話題の最難関な側面は、極めて反目し合った二つの要請を読者諸賢が全体として突きつけてくることだ。第一は、もっと「優秀な」レアカードを印刷してほしい、という要請だ。これはまさにテッドが書いてくれたところに関連した課題なので、後ですぐに触れるつもりだ。そして第二は、希少に感じられないようなカードを稀少度レアとして印刷するのを止めていただきたい、という要請だ。プレイヤーがこの言い方をする時に持ち出される具体例としては、インベイジョンの≪吸収 / Absorb≫【3マナの青白呪文。打ち消しと回復の抱き合わせ】やオデッセイの≪獣群の呼び声 / Call of the Herd≫【3マナで3/3トークンを出す緑のソーサリー。4マナでフラッシュバック】が挙げられる。【つまり、強力なレアカードは大会で多く採用されるので、「頻繁に目にする」「みんな持っている」「ありふれた」ものだから、「希少なカードとは言えない」という主張だ。】これら相矛盾する両方の任務を同時に完遂するのは、おそらく不可能事であろう。
プレイヤーは「カスレア【bad rares】を無くすこと」を望んではいるものの、「全ての優秀なカードをレアに設定すること」は望んでいない。この二つの折衷案を見出すのは容易ではない。
なぜ「駄目な」レアカードが存在するのかを理解するためには、どのような過程でレアカードが作られていくかを一瞥する必要がある。それは、カードがレアカードになっていく過程、とも換言できる。私はこれを教育アニメ『スクールハウス・ロック!』のような形式で解説してみたいという風変わりな衝動に駆られているが、それは差し控えるべきだろう。閑話休題。概して、カードは稀少度を念頭に置いて設計されるわけではない。各カードの最適な稀少度に目星が付いて決定されるのは、設計者がカードを作り出す時ではなく、カードが取捨選択されセットが出来上がっていく段階に至っての作業だ。この規則から例外的に振る舞えるのは、デザインかデベロップのいずれかの点において欠番を埋め合わせてほしい、という依頼を受けた設計者だ。欠番を埋める際には、設計者はその求められる稀少度に適切なカードを作る必要がある。
想像してみていただきたい――君はまさに研究デザイン部の一員で、今回携わったカードセットに向けて設計した一塊のカード群が目の前にある。締め切りが迫っていて、カードを取捨選択して一覧表の初稿を収めなければならない。君はまず稀少度の割り振りから手を付けるのだが、ではどのような性質や特徴を見つければ、カードを稀少度レアに設定すべきだと判断できるだろうか。【以下にその判断基準を列挙していこう。】
●一:カード自体の複雑性
マジックにおける最も偉大な両天秤策の一つは、幅広い層のプレイヤーを楽しませ続けているという点にある。一方の極には、熟練者プレイヤーがいる。彼らはゲームの複雑性を探究していくことに多大な喜びを見出す。もう一方の極には、駆け出しの初心者プレイヤーがいる。彼らはたった今マジックという世界に足を踏み入れただけに過ぎない。我々研究デザイン部は、後者の集団を怯えさせること無しに、なおかつ前者の集団を満足させるに、一体どうすれば良いだろうか。
どちらの集団も非常に大切な存在だ。熟練者はマジックのゲームで最も多額のお金を注ぎ込み、公式大会にこぞって熱心に参加する。初心者はゲームの将来性だ。誰もが初心者としてゲームを始める。初心者を蔑ろにすることは、マジックの長期的な健全性を破滅に追いやることになる。
幸いなことに、この問題の解決策は彼らそれぞれの購買傾向に眠っている。プレイング技術の水準とカードの購買枚数の間には、高い相関関係がある。そこで我々は複雑なカードを稀少度レアにすることで、上級者にはそれらの入手の機会を与えつつ、中級者や初心者にそれらが露見する機会を抑えている、というわけだ。【――熟練度が高いなら購買枚数が多いのであって、購買枚数を増やせば熟練度が上がるのではない。念のため。】
入り組んだカードは「優秀」にも「駄目」にもなりうる――私がこれらの単語を括弧に入れたのは、先の「駄目な」カードの記事で述べたように、カードの良し悪しを測る基準は非常に主観的で人それぞれのものだからだ。複雑怪奇なカード全てがレアに設定されるからには、当然ながら「駄目な」入り組んだカードはどれもレアカードということになる。最近のセットを概観すると、低評価の複雑なカード――すなわち一定数のプレイヤーにとって「駄目」と測られているもの――としてはオデッセイの≪極悪な死 / Nefarious Lich≫【敗北条件に手を出す黒のエンチャント。デメリットも多い】が挙げられるだろう。このカードは研究デザイン部にとって、レア以外の稀少度に設定するにはただただ複雑過ぎたのだ。
この分類を締め括るに際して、私は以下のことを強調しておく必要性を感じた。すなわち、入り組んだカードはレアであるべきだが、そうだからと言って、レアカードは複雑怪奇であるべきだとはならない、ということだ。単純なカードはレアであってはならない、という思い違いが巷にはあるようだ。しかし基本セットの重要カードを一瞥すれば、≪極楽鳥 / Birds of Paradise≫、≪神の怒り / Wrath of God≫、≪アトランティスの王 / Lord of Atlantis≫など、レアの枠を占める単純なカードは容易に見つけ出せる。附言しておくと、これらの三枚は第7版時点ではアルファ版からの皆勤賞だった。ここまで読まれた方なら賢察いただけるはずだが、これらのカードは必要だと判断されて、それぞれ異なった理由ではあるが、単純なカードでありながらレアとして印刷されることになったのだ。【それを以後で述べていこう。】
●二:ルール上の複雑性
この分類は先ほどのものと酷似した働きを行なう。我々の望むところは、熟練者プレイヤーが自分の手札を、複雑なルール間の相互作用を意図したカードで揃えつつ、初心者プレイヤーはそうしたカードから出来るだけ長く距離を置いておける、そういった環境だ。カードの複雑性とルール上の複雑性は幾度となく重なり合う局面があるが、元来これらは二つに明確に分け隔てられる別個の特性だ。
構想としては単純であるカードが、ルール相互間の非常に複雑な関係を明るみにしてしまうことがある。テンペストの≪謙虚 / Humility≫【白のエンチャント。全クリーチャーが1/1バニラになる】とウルザズ・デスティニーの≪オパール色の輝き / Opalescence≫【白のエンチャント。他のエンチャントを点数で見たマナコストに等しいP/Tを持つクリーチャーにする】という組み合わせが誂え向きの実例だ。【Wikiの「種類別」のページに解説があるので、興味のある方はそちらを参照していただきたい。】また、ルール上の瑕疵はないのに、効果を理解するのが困難なカードもある。アポカリプスの≪生き写し / Dead Ringers≫【黒のクリーチャー除去呪文。対象の黒でない2体のクリーチャーを、その1体がもう1体の持たない色を持つのでなければ、それらを再生不可で破壊する】がそれだ。なおこのカードは、カード文章の雛型が不気味な挙動を示した実例でもある。
複雑なカードと同様、ルール上の混乱を伴うカードは「優秀」にも「駄目」にもなりうる。もしルール上の相互作用があまりにも複雑になるなら、そうしたカードは本来の実力がどうであれ、レアに設定されなければならない。
●三:冗漫なまでに多い文字数
マジックの普通のカードは、フォントサイズに9.0を既存の値として採用している。しかし中には9.0では枠に収まらないカードがある。そのような折には、編集係はフォントサイズを7.5の小ささまでなら縮めてもよいと定めている。我々は9.0に満たない大きさのフォントサイズをすべて「微細文字」と呼んでいる。研究デザイン部における標準規則の一つに、微細文字を持つことが許されるのはレアカードだけである、というものがある。もしあるカードの文字数が微細文字を必要とするほど多ければ――そして繰り返しになるが、そのこと自体はカードの【機能の】出来とは無関係なのだが――研究デザイン部は、編集係がフォントサイズを引き上げられるようにカード文章を短くするか、それともそのままレアカードに設定するか、どちらかを選ばなければならない。
どうかご留意していただきたいのだが、文字数の多いことと複雑であることは、往々にして相互に結びついているが、これらは同じことではない。冗漫であるがそれほど複雑ではないカード、トーメントの≪現実の修正 / Alter Reality≫【青のインスタント。呪文かパーマネントの色を表わす単語1種類をすべて、別の色を表わす単語1種類に書き換える】はその一例だ。このカードはフラッシュバックの注釈文――墓地から唱えて云々――とルール上の注釈文――「この効果は永続する」――の二つを抱えているので、単純な効果を持つにもかかわらず、カード上のルール文章は7行に及んでいるのだ。
●四:大きなクリーチャーや効果
いつだってレア枠には巨大クリーチャーがいる。
研究デザイン部が遥か昔に学んだ教訓――それは、プレイヤーは大きい物事を好んでいる、というものだ。ミラージュの≪ファイレクシアン・ドレッドノート / Phyrexian Dreadnought≫【1マナ12/12だが、戦場に出すのに一手間かかる】のような厄介で手に負えない巨大クリーチャー。インベイジョンの≪抹消 / Obliterate≫【打ち消されることのないリセット呪文】のような強力な大規模呪文。この二つの類型のカードは、【リミテッドで】プレイヤーが毎回と呼べるほど頻繁に遭遇できるような類いのものではない――そう判断した我々は特別性を維持するために、これらのカードをレアに設定するようにしている。
この分類のために、しばしば単純なカードがレア枠へと送り込まれている。巨大クリーチャーや広範囲に及ぶ一掃効果は、複雑である必要がない。具体例はトーメントの≪天罰の天使 / Angel of Retribution≫【7マナ5/5飛行先制攻撃】やオデッセイの≪心の傷跡 / Traumatize≫【誰かのライブラリーの半分を墓地送りにする呪文】だ。大味なクリーチャーや呪文の多くは、消費者観衆の中の一部を占めているプレイヤー、すなわち研究デザイン部が「ティミー」という愛称で呼んでいる類型のプレイヤーへと、照準が定められている。ティミーは1枚1枚のカードが全体の中ではどの程度の水準にあるのか、それほど強く気にかけないもので、彼らは平均的には、競技環境では遊ばないものだ。かくして研究デザイン部は、ティミー好みの大味なカード全てを競技水準にしなければならない、という心的負担から自由である。競技志向のプレイヤー、すなわちスパイクは、ともすればこれらを「駄目な」レアだと思うかもしれない。しかし実際には、これらに心を踊らされるようなプレイヤーもマジック界隈の中には存在するのだ。
余談ながら、研究デザイン部が想定するプレイヤー類型に関しての詳論は、今後記事にする予定なので、楽しみに待っていただきたい。
●五:画期的で注目に値すること
大きさだけが全てではない。プレーンシフトの≪終末の死霊 / Doomsday Specter≫【攻撃が通る度に相手の手札を見て任意の1枚を捨てさせる】はP/Tが2/3で決して大きくないが、非常に格好良く仕上がったクリーチャーだ。オデッセイの≪汚れた契約 / Tainted Pact≫【ライブラリーの頭から順に追放し、その1枚を手札に加えるか選択できるが、欲張ると何も手に入らなくなってしまう】は効果が限定的だが、非常に独創的な呪文だ。これらのようなヨリ小さなカードであっても、格別な能力や効果を持っていればレア枠に収まるに相応しい――研究デザイン部はこう考えている。
例えば、私がしばしば受け取る質問の一つに、プレーンシフトの≪終止 / Terminate≫【黒赤のインスタント。任意のクリーチャー1体を破壊】をコモンにしておきながら、アポカリプスの≪名誉回復 / Vindicate≫【白黒のソーサリー。任意のパーマネント1つを破壊】をレアに設定したのはなぜか、というものがある。これに対して回答すると、「対象のパーマネント1つを破壊する」というのは特別な効果だからだ。【原文執筆当時では】八年間のマジックの歴史で6000枚余りのカードを我々は作ってきたが、この効果を持つカードは≪名誉回復≫を含めて僅か二種類しか存在しない――もう一方は倍のコストを持つ≪砂漠の竜巻 / Desert Twister≫だ。対照的に「対象のクリーチャー1体を破壊する」という効果は、どのエキスパンションでも数多く見受けられた、ありふれた出来事だ。≪砂漠の竜巻≫はアンコモンだったではないか、と指摘する者が君たちの中にいるかもしれない。確かにそれは事実だが、しかし一度印刷されたあるカードが、その後のカードを規定するような慣例として定着することは滅多にないのだと、私は強調しておきたい。
大袈裟なクリーチャーや呪文と同様、この分類もまた非常に主観的にカードを識別させる。今まで一度もなされなかった物事を行なうカードに血沸き肉躍るプレイヤーもいるだろうし、そのカードは競技水準のデッキに一度も採用されなかったから「駄目」だと煙たがるプレイヤーもいるだろう。
●六:用途が限られている
マジックにおける設計の売りの一つは、用途が狭く限られているカードの存在だ。ある種のカードは、明確な目的を持った機能を非常に効率良くこなしてみせる。そういう効果を必要とするようなデッキが現れれば、そのカードは環境で使われるようになるだろう。だがどのデッキも使い道を見出さなければ、そのカードは綴じ込み冊子の中に安置されることだろう。このような狭い使い道のカードは、「優秀」と「駄目」の垣根を跨ぐように座り込んでいる。例えばウルザズ・デスティニーの≪寄付 / Donate≫【自分のパーマネント1つを対戦相手1人に押し付ける】は、デベロップチームから「あまりにも狭過ぎる」として差し戻された無数の草案の一つだ。現在では≪寄付≫はエクステンデッド指折りのデッキの鍵となる役割を果たしており、その適所を得たと確信を持って言えるだろう。
用途の狭いカードは、主として構築環境のために起案されている。そうであるからには、これらは往々にしてリミテッド環境では仕事をしない。この場合研究デザイン部は、リミテッドで何の適応力も持たない、狭い用途の構築環境向けのカードを、レア枠に設定することにしている。この手のカードで古典的な実例なのが、アイスエイジの≪Despotic Scepter≫【独裁の王笏。自分のパーマネント1つを破壊するアーティファクト】や、ミラージュの≪ライオンの瞳のダイアモンド / Lion’s Eye Diamond≫【0マナのマナファクト。サクると3マナ出る上に手札も捨てられる。】だ。これらはいずれも、強力なデッキ【――原文発表当時だと、ステイシスやバーゲンか――】に完璧な居場所を見つけ出したカードだ。
●七:リミテッド環境を破壊する
マジックの設計における苦心の中に、次のようなものがある――カードパワーの水準がそれぞれ異なるフォーマット、それらへ全く同時に投入することを想定して我々はカードを実際に設計している――こういった苦心だ。具体的には、カードパワーは漸次、シールド、ドラフト、ブロック構築、スタンダード、エクステンデッド、Type1という順に増大していくものだ。
最も厄介なのが、リミテッド環境のカードパワーは構築環境のそれに比べて著しく劣っている、という点だ。この二つの力量差があまりにも明瞭なため、研究デザイン部は実のところそれぞれの環境に特化したカードを作らざるをえない――念のために附言しておくと、我々が両方の環境で通用するようなカードを作ることができない、と言っているではない。さて当然ながら、環境に特化したカードを用意すると、それはそれで数多くの問題を引き起こすことになる。その最たるが次のようなもので、すなわち、構築環境で最も強力なカードがリミテッド環境を徹底的に荒らしてしまう、いかにして研究デザイン部はそういう危機的状況を回避することが可能か、という問題だ。
これに対する回答は、厄介で手に負えないカードをレアにすることで、リミテッド環境に対する影響を最小限に抑える、というものだ。留意していただきたいのだが、このようなカード全てが競技水準というわけではなく、構築では「ファンデッキ」止まりのカードだが、リミテッドでは度が過ぎるような怪しく胡散臭い挙動を行なうもの、これもまた含まれている。この分類が「駄目な」レアカードを作り出すのは、リミテッドでは獅子奮迅の働きをするものの、競技水準には及ばないようなカードが存在するからだ。概して、先述したように、これらは「ファンデッキ」水準として構築環境では扱われる。インベイジョンの≪点火するもの、デアリガズ / Darigaaz, the Igniter≫【このドラゴンの総マナコストから赤1点分を差し引くと、≪魂売り≫とかいう稀代の化け物になる】やオデッセイの≪セファリッドの皇帝アボシャン / Aboshan, Cephalid Emperor≫【『デュエマ』でミミちゃんが使ってた】が、この種のレアカードの実例になると思われる。
●八:アンコモンに空きがない
さて、これ以降の分類は、研究デザイン部の外部の者にとっては説得力がいささか欠けて映るかもしれない。先述したように、カードは傾向として、まず起案・設計され、後ほど稀少度を宛がわれる。大雑把に言ってしまえば、カードは以下のいずれかの種類に分別される。「コモンでなければいけない」、「コモンでもアンコモンでもいけそうだ」、「アンコモンでなければいけない」、「アンコモンでもレアでもいけそうだ」、「レアでなければいけない」、そして「コモンでもアンコモンでもレアでもいけそうだ」――最後のような分類を設けるべきではないが、青い月が見えるほど長い間で、こういうカードが現れたのが一度だけあったのだ。【訳注:この「青い月 / a blue moon」は「長い期間」を意味する慣用表現であって、≪蒼ざめた月 / Paled Moon≫のことではないはず。それにしても、稀少度がどれでもいけそうな一枚は、何だったのだろうか?】
デザインないしデベロップの段階で、往々にして稀少度の一つは定数超過を迎えてしまう。その場合、研究デザイン部は融通の利く可変的なカードを何枚か取り上げ、稀少度を上下させることで事態に適応している。頻繁に見受けられる光景なのが、アンコモンのカードをコモンやレアへと変更させる作業だ。なお覚えておいていただきたいのだが、このアンコモンという稀少度には、僅かに複雑ではあるが、リミテッドで使われてほしいと我々が考えている、そういうカードが詰め込まれている。ともあれこうして、潜在的にはアンコモンでありえたようなカードが――そしておそらくそれでも「駄目な」アンコモンだっただろうが――空きがないためにレアカードとして仕上がることがある、というわけだ。
●九:サイクルの一部
サイクルとは、メカニクス上で、また往々にして主題に関して、一貫した関係を持つカードの集合を指す。サイクル最大の共通点は、五色それぞれに一枚ずつ宛がわれることだ。≪生命の噴出 / Life Burst≫、≪霊気の噴出 / Aether Burst≫、≪精神噴出 / Mind Burst≫、≪集中砲火 / Flame Burst≫、≪筋力急伸 / Muscle Burst≫からなるオデッセイの噴出サイクル【墓地にある同名のカードを参照する】が分かりやすい事例だ。研究デザイン部の規則の一つに、サイクルを形成するカードは全て同一の稀少度に設けるべし、というものがある。他の規則と同じく、我々は折に触れてこの規則を破ることがあるが、しかしそうするのは何か特別な理由があってのことであり、また極めて散発的に行なわれるに過ぎないのである。
この分類に当て嵌まる誂え向きのカードは、オデッセイの≪影魔道士の浸透者 / Shadowmage Infiltrator≫だ。オデッセイには11枚の多色カードが収録されている。友好二色の組み合わせのサイクルがアンコモンとレアに一つずつ存在し、残る1枚は五色カードの≪アトガトグ / Atogatog≫だ。アンコモンは≪ファンタトグ / Phantatog≫、≪サイカトグ / Psychatog≫、≪サルカトグ / Sarcatog≫、≪リサトグ / Lithatog≫、≪ソーマトグ / Thaumatog≫からなるエイトグのサイクルだった。エイトグではない≪影魔道士の浸透者≫は、どれほど「アンコモン水準のように思え」ても、レアのサイクルに組み込む他なかった。
サイクル中のカード全てが、同じサイクルの他のカード全てと同等の力を持てるわけではない。よって、どんなサイクルについても、もしエクソダスでの≪ドルイドの誓い / Oath of Druids≫に相当する大当たりのカードを見つければ、時としてその傍らには≪魔道士の誓い / Oath of Mages≫に相当する頭数合わせのカードを見つけられるはずだ。
●十:優秀なカードを全ての稀少度に散らばせる
仮にこれらのカードがレアであったなら、「優秀なレアカード」の枚数は増えていたことだろうが、しかし喜ばしく思うプレイヤーの人数は減ったことだろう。【訳注:原文ページの画像が消えているので「これらのカード」の詳細は不明。≪Sinkhole≫や≪強迫≫や≪稲妻≫のような、強力なコモンカードが挙げられていたと推測】
この分類が設けられたのは、研究デザイン部が鍵として抱く信念に基づく――すなわち、「優秀な」カードは全ての稀少度に拡散されているべきだ、という信念だ。もし全ての「優秀な」カードがコモンに設定されていれば、ウィザーズ社はマジックを印刷し続けるのに必要な利益を得ることが不可能になるだろう。逆にもし全ての「優秀な」カードがレアに設定されていれば、我々は新規参入者に対して非常に大きな障壁を作ることになるだろう。研究デザイン部はこれらに折衷案を定めた。一部の「優秀な」カードをコモンやアンコモンに設けることで、ゲームへの参加を容易にし、また別の「優秀な」カードをレアに設けることで、マジックへヨリ多くのお金を費やすプレイヤーに利益になるようにした。
君たち読者がお便りで指摘した肝腎な点の一つは、私の耳にタコができているはずだとも言われた指摘だが、それは以下のようなものだった――研究デザイン部はもっと多くの優秀なカードをレアに割り当てるべきだ、と。こうすればブースターを買うのがヨリ経済的になると思われるかもしれない。しかしながら私は、正直に言うと、この発想に対しては気が落ち着かない。例えばシングルカードの流通市場において、全コモンが25セント、全アンコモンが50セント、そして全レアが1ドルという価格であると仮定しよう。これが大雑把で極端な単純化であるとは重々承知しているが、私の問題意識を素描するには事足りるはずだ。さらに、各エキスパンションには60枚の「優秀な」カードが収録されていると仮定しよう。繰り返しになるが、これらの数字はあくまでも思考実験として、霞から取り出したものだ。
現行の研究デザイン部の体制下では、その優秀なカード60枚は各稀少度に散らばって配分されている。やはり単純化のために、コモン・アンコモン・レアそれぞれに20枚ずつ宛がわれているとしよう。私の推測では、君たちは「優秀な」コモンとアンコモンは少なくても構わないはずなので【――「優秀な」カードがレアとして印刷されることや、カスレアが少なくなるのを望むこととは、こういうことのはずなので――】、君たちは優秀なカードの配分がコモン10・アンコモン10・レア40くらいであることを望んでいる、と仮定する。君たちがこの60枚を一通り揃えようとすると、研究デザイン部の現行の設定では25セントが20枚、50セントが20枚、1ドルが20枚で、合計35ドル必要になる。他方で君たちの望むような配分では、25セントが10枚、50セントが10枚、1ドルが40枚で、合計48ドル必要になる。デッキ構築の選択肢を最大化するために各カードを4枚ずつ場合には、研究デザイン部の設定では140ドル必要だが、君たちの理想では192ドル必要だ。ここで注意していただきたいのは、各稀少度の「優秀な」カードの価格設定には、私が仮定したような上限は現実には存在しないという点だ。とどのつまり現行の研究デザイン部の体制は、「優秀な」カードをヨリ経済的に入手することを可能にしているのであって、決してその逆ではない。
●終わりに
ご覧のように、どのカードをレアとして選定するかには、多くの観点が存在する。「駄目な」カードの記事で説明したことだが、研究デザイン部にとって、ゲーム全体のカードパワーを押し上げることなく印刷できる「優秀な」カードの枚数には限りがある。研究デザイン部は「優秀な」コモンやアンコモンをレアに格上げさせることができるものの、これは単に、「優秀な」カードを入手するための必要経費をいたずらに高額にするだけだ。またこれはこれで、レアっぽくないカードがレアとして印刷されることになるので、そのようなレアカードを持たされるのが嫌いなプレイヤーはヨリ一層心を掻き乱される破目に陥るだろう。
これは簡単な回答がない、非常に複雑な話題だ。君たちが寄せてくれた問題が存在するのは、研究デザイン部がそれに対して無頓着だったからではなく、それを改善するための明瞭簡潔な手立てがないからだ。つまり「駄目な」レアが存在するのは、「優秀な」カードを全ての稀少度に散らばせるためには「駄目な」カードをも同様に全ての稀少度に配分させる必要がある、こういう事情に起因している。また、「優秀」であれ「駄目」であれ、ある種のカードはレアとならざるを得ないような特異な性質を持っている、ということも附言しておこう。
以上の論述が最も要領の良い回答であるとは、もちろん私も思っていないし、むしろ論点を乱雑にしてさえいると思う。もし短く回答するとすれば、我々は最善を尽くしている、といった感じになるだろう。今回の記事が読者諸兄にとってカスレアの存在意義を理解する一助となったなら幸いである。
●要約
手短に書くと、カードがレアとして設定されるのは、以下の理由に基づく。
・1:コモンやアンコモンにするには複雑過ぎるから。
・2:コモンやアンコモンに置くのが躊躇われるような、ルール上の複雑性を持っているから。
・3:文字数が多く、ヨリ小さなフォントの微細文字を使う必要があり、またそれはレアカードに限って使えるものだから。
・4:大味なクリーチャーや呪文であり、特別性を維持するためにレアである必要があるから。
・5:洗練された独創的なクリーチャーや呪文であり、その格別さを維持するためにレアである必要があるから。
・6:リミテッドではなく、構築環境の、それも特定の狭い目的のために作ったものだから。
・7:シールドやドラフトで明らかに悪影響を与えるものなので、レアに設定することで、リミテッド環境におけるそのカードの存在感を最小限に抑えられるから。
・8:アンコモンにもレアにも設定することができたが、アンコモンの枠が残されていなかったから。
・9:レア枠を使ったサイクルの一つだったから。
・10:三つの稀少度に万遍なく「優秀な」カードを行き渡らせる意図があるから。
先日の「駄目な」カードの記事と同様、君たちのご意見ご感想が寄せられるのを私は楽しみに待っている。自分の意見を表明したい方は、掲示板へ是非お越しいただきたい。私も書き込みには目を通すつもりだし、何か新しく付け足したい時や質問があった時には、議論に参加していこうと思っている。
来週もまた参加していただきたい。伝説として名高いエキスパンションについて探究を深めていくつもりだ。
その時まで、唱えるのに充分なマナが揃わない内から、高価な呪文を引き当ててしまうことのないよう願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
お久しぶりです。
6月29日以来の翻訳、8月6日以来の更新になります。
ところで、今回訳出したコラムの続編『カードが駄目になるとき・再び』には、公式訳が存在します。
http://mtg-jp.com/reading/translated/mm/003976/
6月29日以来の翻訳、8月6日以来の更新になります。
ところで、今回訳出したコラムの続編『カードが駄目になるとき・再び』には、公式訳が存在します。
http://mtg-jp.com/reading/translated/mm/003976/
≪カードが駄目になるとき――そうならざるを得ない理由≫
原題:When Cards Go Bad ―― Why it has to be done
Mark Rosewater
2002年1月28日
http://archive.wizards.com/magic/magazine/article.aspx?x=mtgcom/daily/mr5
MagicTheGathering.com開設から一カ月経ったが、この間に私は多くの君たち読者諸賢から大量のメールを受け取った。それらの大多数は極めて重要な事柄を指摘しており、一方で少数の残余は、差し当たっては、建設的批判と呼べるような意思表明を書き連ねてくれた。私は今週の記事の最初の言葉として、メールを送っていただいた人全員に対する大いなる感謝の気持ちを記そうと思う。中には私を呼び捨てにする者もあったが、その人に対しても、だ。MaqicTheGathering.comの最重要な一側面は、マジックを作る者たちに対して話しかける機会が読者全員に開けている、ということだ。製作者の一人として私は、君たちの感想をとても楽しく聞かさせてもらっている。
過密な日程と大きな書類入れのために、私は全ての投稿に反応をすることができない、しかしながら、しっかりと全てのメールに目を通している、このことを強調しておく義務が私にはあると感じられる。なので、もし何か私の耳に入れたいことがあれば、遠慮なくmakingmagic★wizards.com. 【訳注:★を@に!】宛てにお便りを送っていただきたい。どのマジック・プレイヤーも声を上げることができる。だが私は語られざる声を聞き取ることはできないのだ。
今週の記事では、私の元に届いたお便りの中の一つを取り上げようと思う。そのお便りは、私の記述の中の、MagicTheGathering.com上で最も物議を醸した個所、それに対する反応の一つだった。その件名は「挑戦と受け取りましたよ、旦那」だった。以下に全文を引用しよう。拝啓。ローズウォーター様。
先日、あなたがMagicTheGathering.comで回答した質問は、非常に好奇心をそそるものでした。最初にその記述を引用しておきます。2002年1月4日
質問――エリオット・ファーティク、ペンシルヴァニア州フィラデルフィア市。
「なぜ研究デザイン部は、阿呆らしい駄目なカードを、特になぜ稀少度レアとして、収録するのでございましょうか?」
回答――マーク・ローズウォーター、マジック・シニア・デザイナー。
「これは非常に込み入った質問であり、私は詳論として将来的に記事にしようと強く確信している。だが手短に答えると、弱いカードはゲームの土台部分だ。リチャード・ガーフィールドはマジックを『探究のゲーム』と評した。ゲームでの楽しさの多くは、新しいカードセットからどんな新発見ができるか、それをプレイヤーが吟味しているような状況において生じてくる。他人が気にも留めないカードの使い道を見つけることに対して、プレイヤーの多くが大きな喜びを感じるところだ。秘かに優秀だが見た目は駄目なカードを、実際に駄目で見た目も駄目なカード抜きには、研究デザイン部は作ることができないのだ」
「マジックの歴史は、『妥協的な / sucky』カードによって満たされている。それらのカードは、注目に値すべき功績を遺した最近のデッキに見受けられる。≪High Tide≫、≪Despotic Scepter≫、≪ライオンの瞳のダイアモンド / Lion’s Eye Diamond≫などだ。これらのカードが稀少度レアとして大きな割合を占めている理由は、リミテッドで何の役も立たないほど狭い機能しか持っていない以上、コモンやアンコモンにするのは避けよう、我々にそういった意図があるからだ。プレイヤーに使用方法を発見してもらうことでカードの価値が高じる、こういう状況を肯定的に評価するためには、古いカードセットに立ち戻って批評するのが有効な手立ての一つだ」
あなたは詳論として将来的に記事にするつもりだとおっしゃいました。私は可能な限り早くその記事を書いていただきたく思います。ご存知でしょうが、私は1994年からマジックに嗜んでいます。ほとんどの点で私は楽しんできましたが、僅かながら惜しく思うところもありました。もっとも、私が惜しく思ったその事柄は主として、ブースターパックを開封した際にレア枠から≪次元の絶望 / Planar Despair≫や≪オック / Okk≫なんかが躍り出てきた、というものなのですが。熱心で真剣なプレイヤーでありますから、そういうときの私は苦労して稼いだ$3.50のお金を、価値のない一束のカードに無駄遣いしてしまったのであります。ですから、あなたが「弱いカードはゲームの土台部分だ」と宣告したことは、私にとっては個人的挑戦であるように見て取れるのです。
あなたが、例えば≪テフェリーの反応 / Teferi’s Response≫のようなカードについて論じたならば、私も許すことができましょう。このカードは弱いですが、いくつかの【青いデッキの】サイドボードに入る分には有用です。私は今までかつて一度も、いかなる事情に追われたプレイヤーであっても、≪ライオンの瞳のダイアモンド≫を使っているような人を見たことはありませんし、まして≪オック≫に至っては当然でございます。プロツアー優勝の「壊れたデッキパワーを持つ」≪オック≫入りのデッキなんて、考え付くことができますか? そういう記事を私は楽しみにしています。ところで、あなたに頼みたいことがあります。もしあなたが本当に≪ライオンの瞳のダイアモンド≫や≪次元の絶望≫などのカードがゲームの土台部分だと考えておられるなら、私の「弱いレアカード」すべてとあなたの≪Taiga≫や≪Tundra≫を初めとするデュアルランド何枚かを交換していただけませんかね? 私は何も、私の数百枚の「弱い」レアカードに対してあなたは三枚四枚のデュアランを差し出せば良い、とは言っていないのですよ。一対一交換を基本として交換していただきます。あなたの≪Tundra≫と私の≪オック≫、あなたの≪変異種≫と私の≪次元の絶望≫、あなたの≪Black Lotus≫と私の≪ライオンの瞳のダイアモンド≫。ともあれ私は何も、あなたや御社が私のことを、八年間に渡って商品に数千ドル注ぎ込んできた忠実なお客様であったことを挙げ連ねて間抜け呼ばわりしているんじゃないか、そういった疑いの感じを抱くことはありません。確かに、いくらかの弱いカードは存在して然るべきでしょうが、しかし最低限度として守るべきは、それらもプレイに値するものとして作ることではないでしょうか。
私はあなたに、この手紙に対して公けに返答することを敢えて要求します。ややもすれば記事という形を取るでしょう。その場合にはこの手紙の、全文あるいは一部でも、引用転載していただいて一向に構いません。私はあなたに全面的に協力するつもりです。お望みでしたら、あなたとの差しでの討論に出て行っても良いんですよ。それほどまでにこの問題は私にとって肝腎だということです。加えて、私がどれほど怒りの感に駆られたか、判読していただけば幸いです。
そうは言いましたが、もう一つ、知っておいていただきたいことがあります。マジックのゲームはおもしろいものであり、私はそれを楽しんでいます。マジックは数多の微笑みを私にもたらしてくれました。そして大部分について私は、あなたや研究デザイン部の職員は素晴らしい仕事をしている、という考えを抱き続けてきました。私はあなたがたに「弱いカード」問題の解決を提案しているのであります。トップレベルのプレイヤーと寄り集まって意見交換するのがよろしいでしょう。つまり、プロツアー二日目に勝ち残ったプレイヤーから何人か選んで、彼らを一堂に集め座らせて、新しいカードセットの一覧を渡し、「どれが良いカードか、どれが悪いか、どれが壊れているか、またどれが明らかな紙屑か、考えていただけませんか?」と尋ねればよいのです。保証しますが、こう聞かれたプレイヤーの全てでないにしても大多数は、中には守秘契約に同意しない者もおりましょうが、ですが大多数のプレイヤーは、自分たちのゲームの改善に奉仕するためならば、カード目録や何やらを一瞥することに自由時間を快く差し出すのではないでしょうか。
ここまで読んでいただきありがとうございます。あなたの返答を心待ちにしています。
――ネイサン・ウッダール
ルイジアナ州ケナー市
DCI#10704056
●私の返答
ネイサンへ。
第一に、素晴らしいお便りを書いていただいたことに対して、称賛の意を示そう。君は自分の思いを――つまり≪オック≫や≪次元の絶望≫や≪ライオンの瞳のダイアモンド≫といったカードのファンではないという率直な思いを――非常に良く表現してみせたので、私も熟慮と徹底を以てして君のお便りに答えられればと思う。そうは言っても、私には伝えるべきことが多くあるので、今回の記事は普段のものよりも少しばかり長くなっている。この点に関してはどうかご容赦を。もし手短にまとめたものをお望みなら、●要約の段落まで飛ばしていただきたい。
第二に、私の発言が君を煩わしく思わせてしまったことを深く受け止めよう。だが君独りだけがそういう気持ちになったのではない。私はくだんの件について、他のどの話題よりも多くのメールをいただいたのだ。どうかご留意いただきたいのだが、ウィザーズ社における私の仕事は、もちろんこれは研究デザイン部全員にも同様に言えるのだが、良くできたゲームを創造すること、そして我々の商品を消費する君たちを楽しませることだ。したがって諸君の誰かが腹立たしく感じたと私の耳に入った折には、その問題を修復するか、あるいはその問題が存在しなければならない理由を正確に説明するか、どちらかを為そうと私は思う。
さて、「駄目な / bad」カードは後者の範疇に分類される。私が「弱いカードはゲームの土台部分だ」と言った際、その言わんとした真意は、トレーディングカードゲームの性質上、「駄目な」カードを排除することは不可能である、というところにある。これらのカードが存在するのは、これらは存在しなければならないからなのだ。研究デザイン部はこれを制御することができない。我々は一度たりとも制御できた験しがない。アルファ版には「駄目な」カードが存在しなかったが、それと言うのもリチャード・ガーフィールドの知るところがそれ以上でもそれ以下でもなかったからなのだ。これは【――第一版であるアルファ版には「駄目な」カードは存在しないが、それ以後は不可避的に存在するという事情は――】トレーディングカードゲームの天性だ。
このことを君たちにきちんと説明するための場を設けるのに、我々は都合八年間も費やしたことになる。この点について私は謝らなければならないと考えている。しかしながら我々は、「『駄目な』カードは必要悪では決してない」という態度を暗に含んだ意図を持ったこと【――すなわち、いくつかのカードが「駄目に」なっても一向に構わないという認識でカードを作ったこと――】は、これまで一度もない。私が万言を尽くそうと、「研究デザイン部は駄目なカードを故意に作っている」という箇所以外に対して聞く耳を持たない、そういう読者が一定数いるだろうことには、私も承知するところだ。私は今回の記事全体を使ってこの課題を論じようと思う、なぜならば君たちに、この判断の背後にある理由を理解していただきたいからだ。「駄目な」カードが存在するのは、それらが存在しなければならないからだ。なぜか? 以下に列挙するのは、「駄目な」カードの存在の背後にある理由を説明する企てとして、私が自分なりに最も良くできたと考えるものだ。
●理由1:全てのカードが優良になれるわけではない
この第一の点が最重要である。カードパワーとは相対的なものだ。例えば≪Ancestral Recall≫が優秀なカードでありうるのは、我々が青1マナで4枚ドローできる完全上位互換のカードを印刷しない限りにおいてのことだ。いかなるカードであれ、ある1枚のカードパワーの水準を決定付けるのは、そのカードと同じ環境に存在する他のカードなのだ。
この現象の一例としては、≪火山の鎚 / Volcanic Hammer≫が挙げられる。このカードはポータル初出の2マナ3点ソーサリー火力なのだが、第7版に再録された際には多くのプレイヤーが不平を口にした。なぜウィザーズ社はこんな「駄目なカード」を基本セットに押し込んだのだろうか、と。しかしながら当時のスタンダード環境では、その≪火山の鎚≫は使用されたのだ。いかにして「駄目なカード」は、プレイに採用されるに値するほど優良たりえたのだろうか。その答えは、1マナ3点インスタント火力の≪稲妻 / Lightning Bolt≫に眠っている。≪稲妻≫は≪火山の鎚≫に比して断然優秀なカードだ。同じ効果を持ちながらも、1マナ軽い上に、ソーサリーではなくインスタントだ。プレイヤーたちは初めて≪火山の鎚≫を目にした時、≪稲妻≫と比較し、それらを並べて見て、≪火山の鎚≫はとんでもなく酷い調整版だと判断した。だが当時のスタンダード環境のように≪稲妻≫が隣になければ、≪火山の鎚≫であっても利点が多くあるように見えたのだ。【Wikiによれば、≪火葬≫などの代替品がなかったために、第7版から第9版までの2マナ3点火力として普通に採用されたらしい。】
ここで一つ思考実験を行なってみよう。上位300人のトッププレイヤーを一堂に集め、彼らにマジック史上で最も強力なカードを1500枚選んでもらうとしよう。1500という数字は、スタンダード環境が最も広くなった時点のカードの概数に当たる。【テンペストからオンスロートまでは、大型拡張セットは350枚、小型拡張セットは143枚と、枚数がほぼ一定していた。大型2つ、小型4つ、基本セット1つで、概ね1500前後になる。】次に我々は、彼ら300人のプレイヤーの為に、これら1500枚のカードと基本土地のみを使用可能とした特殊フォーマットのプロツアーを設けよう。そしてトーナメント終了後に我々は、各カードに対して採用回数を勘定しよう。全てのデッキやサイドボードに採用された、全てのカードを、たとえそれがトーナメント全体で見れば唯一の採用であったとしても、勘定するとしよう。
実体験が我々に教唆するところによると、つまり、プロツアーやグランプリや国別選手権といったプレミアイベントの数年間の結果を眺めれば分かることだが、実際にプレイの場に見受けられるのは、300から400ほどの特定のカードに限られてくる。なぜか? それは、最も優良なカード群の内においてであっても、その中の何枚かのカードはその中の他のものよりもヨリ優秀だからだ。≪マハモティ・ジン / Mahamoti Djinn≫は質実剛健なクリーチャーだが、≪変異種 / Morphling≫には及ばない。≪新たな芽吹き / Regrowth≫は素晴らしい呪文だが、≪ヨーグモスの意志 / Yawgmoth’s Will≫にはやはり及ばない。このように、くだんの特殊フォーマットにおいては、いくつかの「優良なカード」が「駄目なカード」に転じてしまうということだ。そして、この現象は常に当て嵌まるものだ。どんな1500枚のカードを選んだとしても、それらはカードパワーの秩序によって階層付けられる。プレイヤーがデッキを構築する際には、その人の目的が競技に最適なデッキを組むことだとすれば、階層秩序の下位ではなく上位の方のカードを選択するはずだ。
では、我々は300から400枚の【相対的に】優秀なカードを【一つの環境で】持つことが可能なのだとしたら、それはこういうことにならないだろうか――収録された全てのカードが競技の場で見られる、そのような大型拡張セットを、我々は作ることができるのではないか、と。答えはイエスであって、理論的には、330枚全てがプレイされるようなカードセット、それを企画することが我々には可能だ。しかしながら、仮にそうした場合、次のセットはどうなるだろうか? 次の小型拡張セットにはトーナメント水準のものが一枚も収録されていないとなると、果たして誰がそれを買うだろうか? 当然、誰も買わないだろう。【先述の大型拡張セットを前提として】次のセットにもトーナメント水準のカードを収録させるには、カードパワーの水準を引き上げるしかない。新規収録されたヨリ強力なカードは、最初のセットの一部のカードに取って代わることになるだろう。だがこの解決策では、不幸なことに、カードパワーの水準は制御不能な狂乱染みた状態に陥るまで際限なく上昇し続け、マジックのゲーム性を悉く破壊し尽くしてしまうだろう。
研究デザイン部は過去の時点でこの問題に対する解答を提示していた。それは、どの時点のスタンダード環境においても、300から400になるよう優秀なカードをまとめ、それらを七つの使用可能なセット――すなわち二つのブロックと一つの基本セット――に偏りなく分散させる、というものだ。だがそうなると、残された1100枚余りのカードはスタンダードでお目にかかることはなくなってしまう。それらに対してはどうすることができるだろうか?
●理由2:カードが異なれば、惹かれるプレイヤーも異なる
前述の問題に対する解決策は、「駄目な」カードが存在する第二の理由に行き着く。カードが異なればそれらの作用も異なるものであり、また惹かれるプレイヤーも異なるということだ。先ほどの我々の実験においては、研究デザイン部はスタンダード環境では使用に耐えられないであろう1100枚ものカードを抱え込んでいる。そこで、これらのカードを内実のあるものに仕立て上げるために、研究デザイン部は他のフォーマットに注視している。相当な数のカードがシールドやドラフトというリミテッド環境下での使用を見越して企画されている。中にはブロック構築を念頭に作られたものや、エクステンデッドやType1等のヨリ古いフォーマットを想定して設計されたものもある。
次に研究デザイン部が注視するのは、【競技マジックに限らない、】別の種類のプレイヤーたちだ。多人数戦プレイヤー向けのカード、フレーバーを重視する者の為のカード、剽軽者に誂え向きのカード――我々が作る中にはこれらのカードが含まれている。大味なクリーチャーや呪文を「ティミー」へ、コンボカードを「ジョニー」へ、それぞれ宛てている【――念の為に書いておくと、競技志向の「スパイク」は1100枚でなく上位400枚の方に満足している】。我々はマジックのプレイヤーを相異なる集団として把握し、各々が好むであろうカードを投入しているのだ。
悩ましいのは、プレイヤーが傾向として、使う理由が個人的に見当たらないカードを「駄目なカード」として定義しがちだということだ。しかしながらある種のカードは、そもそも彼らを想定されてはいないのだ。プレーンシフトに収録された≪ゴブリンのゲーム / Goblin’s Game≫が格好の事例だ。このカードは楽しくて馬鹿げたカードとして設計され、アングルードのような企画をも喜ばしく思うような社交的なプレイヤーへ向けられたものだ――急いで追記するが、巷で立っている噂とは正反対に、≪ゴブリンのゲーム≫は没となったアングルード2からの流用ではない。閑話休題、この≪ゴブリンのゲーム≫はかなりの人数の真剣勝負なプレイヤーを狼狽させ絶叫させた。なぜならば彼らにとってそれは、カード紙面の無駄遣いでしかなかったからだ。
また、これは≪オック≫が投下される範疇でもある。≪オック≫がカッコイイのは、パワー・タフネスが両方とも4であるゴブリンだからだ。もし≪オック≫の性能が君の目に魅力的に映らないのなら、君は≪オック≫の観衆ではないということだ。げに≪オック≫はプロツアー予選を勝ち抜く為に印刷されたものではないのである。
マジックの長所の一つは、多くの人々が各自に楽しめるような多面性にある。この融通性があるために、各プレイヤーは自分の好みの遊び方にゲームを切り替えることができるのだ。マジックのこの洗練された様相にも難点があり、それは、他の類型のプレイヤーへ宛てられたカードに対して心を開いて寛容であるよう、各プレイヤーが自覚しなければならない、という点だ。
●理由3:カードパワーの多様性は、新発見の鍵である
「駄目な」カードが存在する次の理由は、トレーディングカードゲームを成立せしめている核心部分に存在している。TCGは、特にマジックは、新発見と非常に密接な関係にある。例えばウノを遊んでいる時、プレイヤーは「ドロー4」の札が「青の6」の札よりも優れていることを知らなくても構わない。ウノにおいては全ての札が一緒に混ぜられ、自分の手元に来たものを使ってゲームを進めるからだ。【つまり、使う機会も使われる機会も、全員に等しく同じ程度に、開かれている。】だがマジックにおいては、自分がデッキに入れて使用するカードを、前もって取捨選択する必要がある。カード同士を識別する能力が非常に重要なってくるのは、このあたりの事情にある。【「どんなカードを使われるか」という可能性はフォーマットの制約の為に全員に共通だが、「どんなカードを使いうるか」という可能性はデッキ構築の時点で確定してしまっている。】マジックのプレイヤーとして成長するにつれ、カードの潜在能力を見極めるのが得意になることだろう。この現在進行形の挑戦こそ、マジックを真新しいものにし続ける肝心要の要素なのだ。
この特徴を吟味する最善策は、自分自身のマジック史を顧みることだ。何らかの構想を最終的に「会得した」、そのような重要な瞬間を思い出すことができるだろうか? それは突然の閃きが悉く腑に落ち、単一のあるいは一連のカードがなぜ元来自分の見込んでいたよりも優秀あるいは劣悪であるのか、それを明瞭に理解した瞬間だ。この局面こそマジックを嗜む者にとって身の震える喜びの瞬間であり、研究デザイン部は意図的にカードに勾配をつけ【――カードパワーに上り坂と下り坂の両方を入れることによって――】絶え間ない発見の感覚を我々にもたらしている。
とはいえ、ここにも問題がある――仮に、カード同士の相対的な「難点」【例えば≪稲妻≫と比較した際に≪火山の鎚≫が劣っている点】を一つの勾配として想像してみていただきたい。もしこのような勾配の上に君のカードに対する理解力が築かれれば、確然的にプレイに値するものか確然的に「駄目な」もののいずれかに、全てのカードは分別されることになるし、判断を保留し先延ばしするカードに対しては、幾ばくかの考察や仕分けの為の試用が必要となることだろう。だが我々の職務は、マジックを全プレイヤーに向けて設計することだ。すなわち、君がプレイヤーとしてヨリ熟練しているほど、君はそれだけヨリ多くのカードを「駄目なカード」と判断することになる。しかしながらヨリ低いパワーのカードは、マジックの初心者に発見と探求というかの感覚をもたらすことから、極めて重要な存在だ。具体例を挙げよう。おそらく読者諸兄は≪水晶のロッド / Crystal Rod≫、≪鉄の星 / Iron Star≫、≪象牙の杯 / Ivory Cup≫、≪骨の玉座 / Throne of Bone≫、≪森の宝球 / Wooden Sphere≫という「ラッキーチャーム」を駄目なものだと考えるはずだ。しかし我々が試験したところ、次のような教唆が得られた――大多数の初心者はこれら「ラッキーチャーム」に夢中になるものであり、時間が経ってようやく、通例だとヨリ経験の積んだプレイヤーに教えられて初めて、実際にはそう思われるほど良いカードではないと学習するのだ。このように、「ラッキーチャーム」は「勾配」【カードパワーの上下】を理解する重要な手立てになるので、我々は【中級者以上の多くの忌避の意見にもかかわらず】基本セットにこれを収録し印刷し続けている、というわけだ。
この理由付けに対しては二つの反応が予想されるので、ここで予め回答を記しておこう。第一の想定反論――「マジックは発展発達した、進んだゲームだ。然るに研究デザイン部の定める出発地点は、あまりにも低い。マジックを嗜むプレイヤーたちはそれなりに頭の切れる連中だ。『ラッキーチャーム』のカードパワーが低いと導き出すことは、我々にとって造作のないことだ」――これに対する私の回答は、次のようなものになる。我々研究デザイン部は、多大な時間と費用を以ってしてプレイヤー人口の基盤を調査した。我々が入門者向けのカードとして先述の水準を設定しているのも、多くのプレイヤーがその水準に位置しているからだ。思い出していただきたいのだが、マジックは推奨年齢13歳以上のゲームだ。将来におけるゲームの健全性は、初心者にとって良い入り口が設けられているか否かに掛かっている。もし新規参入者がいなくなれば、上級者が遊ぶためのマジックもいずれ無くなることだろう。
第二の想定反論――「あなたの考えは時代遅れではないでしょうか。インターネットがあらゆるものを変えてしまいました。情報は自由気ままに行き来していますし、カードパワーの推論は従来に比して遥かに素早く行なわれています」――これに対して私は、インターネットが物事を変えていることについて、然りと答える。しかしながらそれは、新発見の必要性をも変更することを意味するわけではない。そもそも、非常に多くのマジックのプレイヤーは、インターネット上でマジックについての記事を読まないものだ。実際のところ、そういうプレイヤーが【原文執筆当時は】多数派を占めている。記事を読む者も、やはり、発見への過程を楽しんでいるものであって、そういう人たちは他人の書いたカード分析の記事に頼ることなくそれを成し遂げようとしている。新発見はマジックにおける歓喜の局面だ。幾人かが手っ取り早い近道を選んでいるからと言っても、それは研究デザイン部が他のプレイヤーから発見への旅路を奪い取る理由にはならない。
●理由4:カードパワーの上下は、相対的なものである
新発見という頂に至る道を妨害として研究デザイン部が行なっていることの一つに、即座に評価を下すのが困難なカードを意図的に企画する、というものがある。この種のカードの多くは、そのカードを使いこなせるデッキが存在するか否かによって「優秀」とも「駄目」ともなりうる、そのような非常に狭い機能を有している。ネイサンのお便りに挙げられていた≪ライオンの瞳のダイアモンド≫は、格好の例だ。
一瞥しただけでは、この≪ライオンの瞳のダイアモンド≫は実に妥協の産物として目に映る。だが時間遡行機を1998年11月に設定し、プロツアー・ローマへと足を運んでみよう。フォーマットはエクステンデッドであり、この時点ではウルザス・サーガ収録のカードで禁止指定されているものはなかった。それまでのどの時点におけるエクステンデッドも、そしておそらく歴代プロツアーも、この大会ほどカードパワーが高まったことはなかった。持ち込まれたデッキで優秀な部類に属するものは、第一ターンないし第二ターンで勝利できるような代物だった。トーナメントに現れたそのようなデッキの中で、多くのプロプレイヤーたちが最も出来が良いと考えたのが、ブライアン・ハッカー【Brian Hacker】の使っていたものだった。彼はプレイングの失態のせいでベスト8を逃してしまったが、彼のデッキには≪ライオンの瞳のダイアモンド≫がキーパーツとして4積みされていた。【余談ながら、このローマ大会直後の98年から99年にかけての冬こそが、MoMaの冬だ。】
重要なのは、カードの汎用性は現時点で流通しているメタゲームに応じて激しく変動しうる、ということだ。ある日には見るのも嫌だったカードが、次の日には、史上最高のカードパワーを誇るプロツアーにおいて、最善とみなされたデッキの屋台骨になっている、といった具合に。
●理由5:カードパワーの多様性は、ヨリ熟練したプレイヤーにとって報いになる
以上の大部分で、私は「駄目なカード」の存在しなければならない理由を説明してきた。私は「駄目なカード」がゲームに与える良い影響についてをも指摘しようと思う。私の考えでは、カードパワーに多様性を持たせることの最大の理由は、競技における技巧を増加させるからだ。例えばドラフトでは、プレイヤーの人数が少なければ少ないほど、次善の戦力を確保できる可能性はヨリ大きくなる。あるいはヨリ多くの駆け出しのプレイヤーが、気になる疑わしい呪文をデッキに入れることになるかもしれない。いずれにせよ、ヨリ上手なプレイヤーが勝つという機会は増加することになる。
例として、全てのカードが全く同じカードパワーを持っているようなカードセットを、研究デザイン部が作ったと想定してみよう――実際には不可能事だが、議論を進めるために差し当たっては可能だと仮定していただきたい。このようなカードセットで、プレイヤー甲とプレイヤー乙が同じ八人卓でブースター・ドラフトを行なうとしよう。甲はプロプレイヤーだが、乙は僅か四ヶ月間のマジック歴だ。この筋書きでは、甲の持つ優位性は現実よりも小さなものとなる。乙がどのカードを選んだとしても、それは分け隔てなく等しく優秀なものだ。乙のデッキにはともすれば相乗効果が織り込まれておらず、またマナ基盤も少しばかり物足りないだろうが、しかし彼のこれから使うカードは、どれも堅実で中身のあるものだということだ。
マジックは、その構造の中に既に無作為性が埋め込まれている。兎にも角にも、デッキは全て切り混ぜられてしまう。カードパワーの多様性が一助となって、奇を衒った者は技巧へ立ち返らせるようにけしかけられる。
●理由6:人は「秘宝」を探すのが好きだ
二つ目の効用が「駄目なカード」にはある。マジックの楽しみ方の一つとして、他の全員が見逃しているカードを発見するというものがある。地雷デッキ使いにこれを推奨するために、研究デザイン部はいくつかの「駄目に」見えるが実際は「優秀な」カードを作り出さなければならない。私自身が「Ask Wizards」に寄せた回答から引用すると――私にはこれ以上の言い回しが思いつかないからこそ、引用するのだが――「研究デザイン部が駄目に見えて実際は優秀なカードを作ろうと思えば、駄目に見える上に実際にも駄目なカードをも作らざるをえない」
最近では、インベイジョン収録の≪完全な反射 / Pure Reflection≫が誂え向きの例ということになるだろう。往々にして人々の意識に上がらなかったこのカードは、ズヴィー・マシューヴィッツ【Zvi Mowshowitz】が2001年のプロツアー東京で優勝を飾った際、ソリューションデッキのサイドボードとして重要な役割を担うに至ったのだ。
●理由7:研究デザイン部も人の子でしかない
ヘンリー・スタン【Henry Stern:インベイジョン開発リーダー等】、ウィリアム・ヨークシュ【William Jockusch:メルカディアン・マスクス開発チーム等】、ワース・ウォルパート【Worth Wollpert:オンスロート開発チーム等】、そして他の多くの社員が、均衡の取れた環境を創るために数えきれない時間を費やした。
例えば、明日私は、トーメント、ジャッジメント、そして来年から始まる3つのセット【オンスロートブロック】のカードを一覧にしてメールにすると仮定しよう。これらに第7版とオデッセイを加えれば、私は君自身や君の望む友人に、一年後のメタゲームを知っていただくことを要請できる。私は各日メールを送るつもりだが、その日のカードの一覧は、前日に渡した一覧とは中身が異なっていて、我々がどこをどう入れ替えたのかという経緯についても記すことになるだろう。骨の折れる作業かもしれないが、研究デザイン部では日常茶飯事の営みだ。
これはそうそう無意味な作業ではない。だが考えてもみていただきたいのだが、難しい仕事には違いなく、我々も完全無欠ではありえない。大勢のマジックのプレイヤーが新たな構想を提案しにやってくるが、時として研究デザイン部やテストプレイヤーはそれを見落として理解し損なってしまうことがある。そして既存の問題はそれ自身を掻き回すに止まり、一方で多くの進展が他の進展と相まって築かれていく。一つの見落とされた強力な相互作用は、我々全員を邪道へと引き込む結果に結びつきうる。何枚かの「駄目な」カードは、我々の目論見ではもっと良かったはずが実際にはその目論見が外れてしまった、というものだ。だがその代償として、何枚かのカードは我々の期待を上回って優秀に仕上がっている。だから私は、結局のところ全ての帳尻は合わさっているのだと考えるようにしている。
研究デザイン部による最近の「罵倒モノの大失態【boo-boo】」の具体例は、エイヴン、セファリッド、陰謀団、ドワーフ、ナントゥーコからなるオデッセイの祭殿サイクルが挙げられるだろう。多くの墓地を参照すれば効果が強くなることから、研究デザイン部はこれらのカードが多人数戦で使用されると見込んでいた。今となっては確然的に我々は間違っていたことが明らかになった。
●要約
以上が、突然変異的な量の記述ではあったが、我々が「駄目なカード」を作る理由を掻い摘んで述べたものだ。復習のため、また、全文を読む気のない人のため、要点を箇条書きにしておこう。
・1:定義からして、駄目なカードが何枚か存在することになる(これが最重要の理由だ)。
・2:「駄目な」カードの中には、そう判断する人の楽しみ方を想定していないものがある。
・3:「駄目な」カードの中には、マジックの入門者や初心者を想定して設計されたものがある。
・4:そのカードを使いこなせるデッキが存在しないがために、「駄目」と判断されるものがある。
・5:「駄目な」カードは熟練したプレイヤーの技巧に報いる。
・6:「駄目」に見えるが実際には優秀なカードを発見するのが好きなプレイヤーがいる。
・7:「駄目な」カードの中には、研究デザイン部の失態の成果であるものがある。
さて、これでこの記事は終わりになるが、この論題についてはまだ続くことになるだろう。活発な討論が行なわれるのではないかと期待するところだ。読者諸賢も、是非とも広報ページの掲示板を訪れていただきたい。私も全ての投稿に目を通し、時には相槌を打ったり会話に割り込んだりしているので、気兼ねなく意思表明していただければ幸いだ。
来週もまた参加していただきたい。なぜメカニクス以外の初めてのテーマ週間【初めてのフレーバー関連のテーマ週間】で、マーフォークなどの亜人の種族【folk】を取り上げなかったのか、その理由を説明するつもりだ。
その時まで、君たちの初手に十分な色マナが揃っているのを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
覇者「なぁ・・・スケベしようや・・・」→気持ち悪い→終劇。
メリーラ「ねぇ・・・スケベしようよぉ・・・」→愛こそはすべて。
この違いは残念でもないし、むしろ当然だと言える。
メリーラ「ねぇ・・・スケベしようよぉ・・・」→愛こそはすべて。
この違いは残念でもないし、むしろ当然だと言える。
≪往時のカードデザイン――アルファ版で最も端麗なカード5枚はどれか?≫
原題:Design of the Times ―― What are the five most elegant cards from Alpha?
Mark Rosewater
2005年2月21日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr164
突き詰めて考えれば、執筆とは窃盗行為である。君たちが優れた考えを見出した時には、その発想が自分自身の人生における個人的な出来事であろうと、他人の人生に関する興味深い話であろうと、はたまた他の執筆者がしていることから見つけたものであろうと、その優れた考えを「借用する」ことだろう。優秀な執筆者は自分なりの捻りを【借りてきた考えに】付け足すが、結局のところ執筆とは、優れた発想の分捕り方や略奪手段を知ることだ。私の今回の記事も、例外ではない。
先日私は漫画家の書いた記事を読んだが、それは彼らが若かった頃の古典的な漫画作品に対する批評記事だった。私が非常に驚き感心したのは、漫画の非常に微細な部分全てに関して彼らが認識していたこと、またそれを文章として執筆できたことだった。そしてこの時、私は分かり始めた。何がおもしろいか、もうお分かりいただいただろうか。すなわち、芸術家は絶えず自分の芸術形式を試験している。おそらくこの考え方は、「メイキング・マジック」においても適用できるはずだ。
その一方で、私の脳裏には別の関心事があり、それは予てより熟考してきた「端麗」問題だった。ご存じの通り、一介の設計者として私は、端麗の虜だ。その度合いがあまりにも強かったので、私はほとんど知られていない道筋を示すための記事を、ある種の重要事項を叙述する試みとして作り上げた。その道筋は、『端麗』への路程と呼べる。しかしこの『端麗』という記事は、読者の多くにとっていささか「蚊帳の外に置かれた」感のするものに仕上がっていることが判明し、そのことから私は自分が端麗の概念を汚してしまったのだろうかと心配していた。事実、くだんの端麗という話題は、掲示板で拡散する冗談の類になりつつあった。こういったわけで私は、マジックのカード創造過程における端麗の重要性をより直接的かつ読者に親切な手段で明示すべく、何らかの行動を起こさなければならない、という認識を持っていた。
最初は【古典作品に対する批評と端麗問題に対する対応、これらの】どちらが甘いチョコレートでどちらが塩辛いピーナッツバターなのか、私にははっきりとは分からなかった。しかし、かつてハリー・バーネット・リース氏がピーナッツバターをチョコレートで包んだお菓子を考案したように【訳注:本当にそういうお菓子があるようです。想像するからに口に残りそうなお菓子です】、私にもそれができないだろうかとしばし悩んでいると、遂にその手の閃きが私の頭脳にも訪れ、どんな記事を書こうかという見通しを立てることができた。昔に作られた端麗なカードを何枚か取り上げ、それらが良く設計されたと感じる理由を述べる、そういった記事を書きたいと思うようになった。私はリース氏の手法を顧みているマジック設計者だと言えよう。またこの記事によって私は、実際にマジックのカードを関連付けさせながら、端麗について語ることができるだろう。私の執筆者としての直観がこう告げている。この記事はともすれば、執筆一般についての50単語のハイパーリンクの記事よりも、遥かに優れたものになるかもしれない、と。
私の最初の記事の話題は確然的に明らかだと思われる【※】――そしておそらくこの最新の記事もだと思うが、この記事の評判の良し悪しについては判断を保留させていただきたい。芸術や技法を学ぶ際には、原典や情報源に当たる必要がある、というのがそれらの話題だ。これから私はマジックの創造過程について批評を始めようとしているのだが、マジックを世界に知らしめたカードセットから始めずしては、この企図は頓挫しかねないだろう。すなわち、アルファ版から始めるより他はないと考える。また、些細な利点ではあるが、アルファ版には私自身が携わったカードが含まれていないので、私は少しばかり距離を取ることができ、それは情緒的な愛着を抜きにしてカードを分析するのに奉仕することだろう。
【※:最初の記事とは『A Nightmare To Remember』のこと。BluEさん翻訳『ナイトメアを忘れるな』http://bluemen.diarynote.jp/201408141233526484/ ――トーメントにおけるナイトメア能力はリチャードの草案によるものであり、それを元にしてチームがいかに練り上げていったかが紹介されている】
では、この記事の具体的な進み方について述べよう。私はアルファ版から五枚のカードを選んだ。判定基準は以下の五点に拠った。
1・そのカードの設計が端麗であること――すなわち、そのカードは役割を簡明かつ手際良い挙動で遂行することが求められる。以下のことを留意していただきたい――今回の記事は端麗ただ一点に話題を絞った記事ではなく、カードの創作過程に関しての記事であり、端麗とはカードの重要要素の一つだ、ということだ。
2・そのカードの設計が、プレイに重要な奥行や深みを与える造りであること――すなわち、そのカードは無数の種類に及ぶプレイの意思決定を形成するよう求められる。
3・そのカードが、優秀なフレーバーを持っていること――すなわち、そのカードはカード全体の印象を高めるフレーバーを持っていることが求められる。
4・そのカードが、私が他に挙げたものとは異なった点で、設計上の優秀な点を挙げていること――すなわち、記事を出来るだけおもしろい、かつ教唆に富ましたものにしたい、という私の個人的な願望が、カードの選定に非常に強い影響を与えた。
5・各色につき一枚のカードを挙げること――これは至極真っ当なことと思われる。
以下のカードの目録は、上位五枚のカードというわけではない。どんなカードが最上のものと考えるかに関しての、私の意見表明ではない。この記事は、リチャード・ガーフィールドによる華やかな創作活動に対しての、私なりの賛辞だ。御託は、いつもの悪い癖は、これくらいで十分であろう。
●神の怒り≪神の怒り / Wrath of God≫
(2)(W)(W)、ソーサリー、レア
すべてのクリーチャーを破壊する。それらは再生できない。
すべてのクリーチャーを破壊する。簡明であり、要を得ていて、そして非常に洗練させている。何と言っても、マジックは核心にクリーチャーがいるゲームだ。平易にそれら全員を一掃するという能力は強力なものだ。事実≪神の怒り≫は理屈抜きの直感的な迫力を持っているので、フレーバーテキストを設ける余地があるものの我々は意図的に空白のままにしてあるという、基本セットでは少数派のカードの一枚となっている。
しかし、これがこのカードの本領ではない。リチャードの傑作の真価を計るには、マジックの中心部へと深掘りしなければならない。その中心部に至れば、マジックが資源管理のゲームであることに気付かれるはずだ。対戦相手のライフ総量を零に叩き落とすという重要な目的を達成するために、各プレイヤーは自分の資源を最大化しようと試みている。そうであるから、マジックには資源獲得について詳述するカードが数多く含まれているのだ。資源という単語をパーマネントという単語に置き換えた方が、読者にとっては馴染み深く理解し易いものになるかもしれない。極度に単純化された視座ではあるが、また私のここの記述も簡単に割り切っていただきたいのだが、プレイヤーは対戦相手より多くのパーマネントを戦場に残したいと思うものだ。あるいは少なくとも、自分のパーマネント全体のカードパワーが対戦相手のそれを上回っていることを望んでいるはずだ。そこで、これを実現するには二つの基本的な方法がある。第一は、対戦相手がするよりも多くのものをプレイすることで、第二は、対戦相手のパーマネントを取り除き、自分のそれが数や力で上回るようにすることだ。
ゲームにおける大多数の除去が一対一交換の単体除去だ。例えば≪闇への追放≫は、自分の手札のカードと対戦相手のクリーチャーとの取引だ。だが一対一交換の除去はゲームで鍵となる構成要素、キャッチアップという追い付きの要素には貢献しない。すなわち、ある時点で対戦相手の手札と戦場のカードを合計が自分のそれより多くなると、一対一交換を続けても自分が相手に追い付くことは不可能となってしまう。そこでゲームの設計として重要なのは、遅れを取っている側のプレイヤーが対戦相手を飛び越えるための仕掛けの存在だ。その仕掛け無くしては、ゲームは【先手必勝という】運命づけられた退屈なものになるだろう。
以上が意味するところは、こういうことになる。マジックは全体除去を、つまり複数のカードを処分することができるカードを、必要としたのだ。しかし全体除去は不均衡の類の問題を孕んでいる。確かに良い面が一方であるものの、その不均衡な側面はかの追い付きの要素だ。マジックとは技巧のゲームであり、プレイヤーは自分の命運に対する無力さを感じたいとは思っていない。【もし全体除去が「唱えれば勝ち」のような手軽で強力なものならば、そういうカードを引くか引かないかという、先手必勝でないにしてもやはり運任せのゲームになるだろう。】したがって全体除去のカードは、それに見合うだけの対価が支払われることを必要としている。このあたりこそ我々が、一つの逆説が忍び寄ってくるのを見出したところである。もしカードの代償が高ければ、遅れを取ったプレイヤーはそれを使う機会を一度も得られなくなるかもしれない。【しかし代償が安ければ、ゲームは運任せになってしまうかもしれない。】では、どのようにプレイヤーに追い付き要素を与えつつ、なおかつ技巧をゲームから取り除かないように留めておけるだろうか。
≪神の怒り≫はこの古典的な課題に対して、非常に端麗な方法で解答を提示した。これは全員に影響を与える。ご存じ、君たちは対戦相手の全てのクリーチャーを破壊できるが、対価として自分のものをも差し出さねばならない。遅れを取っている場合には、このような取引に喜んで応じられるだろうが、しかしゲームが大詰めを迎えている場合には、それほど安易な決定を下すことはできなくなる。全体除去の影響範囲は全員に設定されているので、プレイヤーはその有用性を状況に応じて割り引く必要があるのだ。
だが≪神の怒り≫という鬼才はここで終わらない。存在すること自体が抑止力であり、これがゲームにクリーチャー管理という別の側面をもたらす。この構想を理解するために、ゲームには一枚の全体除去も存在しないと想像していただきたい。クリーチャーを手札に引き入れた際には、クリーチャーを並べ過ぎることに対する脅威は何もないのだから、手札に残すよりも余さず唱えてしまう方が良いだろう。だが現実には≪神の怒り≫を始めとする全体除去の存在により、どの程度のクリーチャー基盤なら常に展開して良いと思えるのか、プレイヤーはそれを何とかして見極める必要がある。プレイヤーが能動的になりうるのは、彼らが「クロックを上げる」のを望んでいるとき、つまり手番毎に与えるダメージを増やしてゲームを素早く終わらせたいときで、一方で彼らが受動的になりうるのは、彼らの勝ち筋が後出しとして振る舞うべき資源を必要とするようなときだろう。
最後に、このカードは白のフレーバー上の問題を解決する手立てになっている。白は、平等の色だ。白は特別扱いを好まず、代わりに、皆が従うべき規則を制定するのを望んでいる。そうかと言って白は、自分を人目につくよう振る舞おうとはあまりしない。では、自分が他者より一段の高みに着くことを望まない状況で、それでも優位性を得ようとするには、どうすれば良いだろうか。平等を武器に転じさせる方法を見つければ良い。平等よ、能動的かつ攻撃的に実現されよ――≪神の怒り≫はこの呼びかけに応えるのだ。戦場を平等化することは、そのプレイヤーが負けている状況において、あるいは、いつどのように計画され引き起こるのかを知っている状況において、極めて能動的な行為である。≪神の怒り≫は最も防御的な色に、幾ばくかの武器を与えている。
以上のように、≪神の怒り≫は追い付きの要素であり、ゲームの最重要資源の一つであるクリーチャーの管理に対して、戦略的な奥行と深みを付与している。そしてそれはフレーバーに満ち溢れている。非常に洗練されていると思わないだろうか。
●送還≪送還 / Unsummon≫
(U)、インスタント、コモン
クリーチャー1体を対象とし、それをオーナーの手札に戻す。
大きくて費用のかかる効果から、楽に手に入る小さな効果へと議論を移させていただきたい。公衆は豪快で派手なレアカードに思いを馳せがちだが、ゲーム設計者にとっての聖杯は端麗なコモンカードなのだ。設計者が創造したいと願う効果は、コモンたるに十分相応しいほど単純なものでありつつ、プレイの奥行きと深みを与えるに十分相応しいほどゲームに関連性を持つもの、このような効果だ。≪送還≫は、そういったカードの一つだ。
手始めに、このカードがいかに青の長所と短所に深く絡んでいるかについて考察していこう。青はリチャードの手によって除去が最も薄い色として創られた。この決定の背後にあった事情は、彼は打ち消し呪文を青に宛がうことにしていた、というものだった。打ち消し呪文は非常に強力なので、青に大きな弱点を設ける必要性をリチャードは認識していたのだ。パーマネント破壊ができないこと、このことは、呪文の解決を判定できる青の能力の代償として、折り合いがつくように思われた。青はどんな呪文でも打ち消すことができるが、一度その機会を逃してしまえば、問題を抱え込むことになる、というわけだ。
設計段階で打ち消し呪文が創られたことにより、青使いは継続的に選択を行なわなければならなかった。彼らは全てを打ち消せるほどの贅沢は持ってないので、どの呪文をそのまま通すかを選び抜く必要があった。このことから、青の魔法使いにはパーマネントに対処するための何らかの資源が与えられるべきだ、と考えられた。パーマネントは破壊できないということなので、リチャードは他の選択肢を探し始めた。盗み出す【≪支配魔法≫や≪秘宝奪取≫】、機能停止させる【≪幻影の地≫や≪枯渇≫】、関税をかける【≪魔力漏出≫】、使用する対戦相手を罰する【≪地の毒≫や≪フィードバック≫】などが作られた――特筆しておくと、青はいささかパーマネントへの対処が得意過ぎたため、これらの品目の多くは長い年月をかけて他の色に移されたのではあるが。【閑話休題、】そして、最も関心を惹く回答が、パーマネントを元に【唱えられる前の状態に】戻す、というものだった。魔術師がクリーチャーを戦場に召喚する魔法を使えるのであるなら、青の魔法使いはそれを元に戻すことはできないだろうか【という構想だった】。つまり、クリーチャーを手札へと送り返すのだ。
≪送還≫の鬼才は、カードは戦場から墓地以外の領域へ移送されることによっても除去されうる、という発想にある。特に移送先が手札である場合には、≪送還≫の使用者は汎用性を得るので、設計の観点からして興味深いものとなる。ご存じの通り、通常、カードの除去はゲームの展開を前に推し進める。どの観点から見ても事実上、墓地に置かれたカードは用済みのものだ。例えば、屍術師が立ち現れない限り、≪ショック≫で焼かれたクリーチャーは最早ゲームに影響を与えない、といった具合に。
≪送還≫の功績は、戦場に出ているという価値とカードの将来的な潜在性とを分け隔てたことだ。すなわち、≪恐怖≫はこのターンだけ≪灰色熊≫を抑止するだけでなく、以降の全てのターンをもその熊を抑止する。それに対して≪送還≫は、戦場に出ているクリーチャーという脅威に対処はするが、カードの潜在性については触れずに済ましている。そうすることによって≪送還≫は、青にとってまさに居城である領域に干渉し始めるのだ。つまり、時間という領域だ。クリーチャーをオーナーの手札に戻すことは、そのクリーチャーを一時的に、その場限りに、抑え込むに過ぎない。≪送還≫は問題に回答を与えるのではなく、プレイヤーが回答を探し当てるまでの時間稼ぎをするだけだ。往々にしてその回答は、打ち消し呪文である。≪送還≫を唱えることで青の魔術師は、そのクリーチャーを打ち消しから掻い潜らせるか否かの選択の瞬間を、再現することができるのだ。
古式ゆかしい除去カードは、ゲームにカードアドバンテージを、つまりカードやカードパワーを最も多く利用できるプレイヤーがゲームに勝つという発想を、もたらしたと言えよう。だが≪送還≫はテンポアドバンテージをもたらした。テンポアドバンテージの背後にある考え方は、手札から実際に離れることがなくともカードは死に札たりうる、というものだ。手札にあるカードで、プレイできないものは、相手から捨てるよう強要されたカードと非常に似通っている。
同様に≪送還≫は、二重の機能性を有するという便益を付与した。マジックの大多数のカードは、攻撃的であるか防御的であるかのいずれかだ。例えば、≪恐怖≫はほぼ常に対戦相手のクリーチャーに対して、≪巨大化≫はほぼ毎回自分のクリーチャーに対して、それぞれ唱えられるだろう。しかしながら中には≪送還≫のように、相手と自分のどちらに対して使うかによって、異なった挙動を行なうカードもある。対戦相手のクリーチャーに対しては、≪送還≫は攻撃的なテンポ・カードとなる。自分のクリーチャーに対しては、≪送還≫はより防御的なものとなる。二重の機能性を持つことで、≪送還≫は分割カードのように機能する。そして時代の流れが幾度となく示しているように、マジックにおける多才なカードは、それと同量の金【ゴールド】に匹敵する価値があるのだ。
≪送還≫の最後の有効性は、それがもたらすマナの不均衡だ。ここで思い出していただきたいのは、マナが源泉となって資源管理のゲームが成立している、ということだ。もし私がマナ生産において君たちを十分に凌駕すれば、私が勝つという見込みが強くなるだろう。これが、≪送還≫が往々にして良い仕事をする所以だ。この呪文には一マナだけ費やされるので、対戦相手はおそらくそれ以上のマナを費やすことになるだろう。適切な時機であれば、この【マナの不均衡という】効果は極めて大きな効力を示しうる。
興味深いことに、青は他の色とは非常に異なった様相でゲームに着手しているように見える。このことが一因となって、私は青が歴史的に環境を支配してきたのだと考えている。プレイヤーは自分のパーマネントに対して対戦相手が干渉してくるのを計算に入れるものだ。だがマナや時間に対してはどうだろうか。平均的なプレイヤーは事実上、盤面から手札へと跳ね返すことはできない。そして≪送還≫はこれらを青一マナでこなすことができる。
●夢魔≪夢魔 / Nightmare≫
(5)(B)、クリーチャ――ナイトメア・馬、レア、P/T=*/*
飛行
夢魔のパワーとタフネスはそれぞれ、あなたがコントロールする沼の枚数に等しい。
この指名には、些か驚いた読者がいるのではないだろうか。アルファ版の黒のカードの中から、私はどのような経緯でこの一枚を語ろうと選び取ったのか。そう、手始めに――かっこいい名前だ。また、不吉に空を飛ぶ燃え盛る馬だ。どれも誂え向きの性質だ。しかしながら、確かに非常に良くできたフレーバーだと皆認めるべきではあるが、これら≪夢魔≫のフレーバーが私を引き込んだわけではない。私がこのカードを語ろうと決めたのは、創作過程における端麗の特異な一例だからだ。私が他の候補に選んだカードは、多くが機能性を変える能力を持ったものだった。≪夢魔≫が変更するのはパワーそのものだ。そしてそれは非常にフレーバー溢れる方法で行なわれる。
実際に、フレーバーの面から論じていこう。往々にしてプレイヤーはフレーバーについて思慮を巡らす際に、カードの名前、絵、フレーバーへと目を向けるものだ。多くの人々が失念しているのは、メカニクスもまた大きなフレーバーを伝えうるということだ。≪夢魔≫はその完璧な具体例だ。不思議に思われるかもしれないが、順を追って考えていこう。まず≪夢魔≫のメカニクスが黒全般の主題にいかに関連しているか、述べさせていただきたい。マジックにおける各色は、それぞれが主体性を、自他の区別とする指標を持っている。黒はそういった特徴の一つとして、より多くの黒魔法を使わせるためプレイヤーを引きずり込もうと願望している。黒それ自体が一つの魔法であり、プレイヤーに、黒を使おう、また黒だけを使おう、と誓約させようと叱咤激励している。そしてリチャードは、このフレーバーを巧妙で緻密なものに仕立て上げた。彼は黒の呪文が他の四色より強い色拘束を持つよう取り計らったのだ。より多く黒を使っているほど強力になっていく呪文や【≪生命吸収≫や≪凍てつく影≫など】、デッキに大量の黒いカードを入れるよう推奨するような、黒い呪文の間に働く相乗効果が【≪不吉の月≫や≪ゾンビ使い≫など】、それぞれ数多く作られた。≪夢魔≫はそういったカードの一つだ。沼をより多くプレイしているほど、≪夢魔≫はより強くなる。プレイヤーは黒単デッキにする必要はないが、黒単でなければ≪夢魔≫はそれほどの脅威でなくなるだろう。そしてこのフレーバーは、名前や絵やフレーバーテキストから伝達されるものではない。すべてメカニクスから生じて来るものだ。
次にフレーバーを離れて、カードパワーについて言及していこう。マジックのカードの大多数は静的だ。ここで言う静的とは、どの手番においても同じカードパワーを持っているということだ。例えば≪灰色熊≫を唱えたとき、それは第二手だろうが第十手だろうが、常に同じカードパワーを持つ。そして利用可能な力に比例して――マナ体系は手番の進行に沿って漸次的にカードパワーを高めていくためのものなので――≪灰色熊≫は時間が経つと見劣りしていく。だがリチャードは、非静的なクリーチャーの存在が重要であると認識していた。非静的なクリーチャーとは、その価値が時間の経過によって変動する可能性のあるクリーチャーだ。このようなクリーチャーを設けることには、三つの重要な意義がある。
第一に、不断にカードを入れ替えなくとも、カードパワーを段階的に引き上げることが可能になる。ゲームが進行するにつれてカードパワーの水準が漸増していくとき、マジックの楽しみは増す。これらの中には、その後で使われたより強力な呪文によって対処されてしまうカードがあることだろう。だが非静的なクリーチャーは、この難解な絵合わせにおいて別の欠片である【ので、簡単には対処されない潜在性を持っている】。第二に、非静的なクリーチャーは、プレイの選択肢をより関心の引くものに創り上げる。例えば、≪夢魔≫は沼に依存すると周知させることで、プレイヤー双方の決断に何らかの変化が起こりうる。君が既に五枚の沼を場に出している場合であっても、対戦相手は戦略上必要と判断して≪石の雨≫で≪沼≫一枚を叩き割りに来るかもしれないのだ。第三に非静的クリーチャーは傾向として、資源管理問題を均一化するのに貢献する。なぜならば非静的クリーチャーは通常、何らかの資源を模倣するかのようにカードパワーを変動させているからだ。これが意味するところは、問題となるその資源は、当該プレイヤーにとって追加の価値を帯びたものとなる、ということだ。これを≪夢魔≫に当て嵌めてみよう。ゲーム後半に≪沼≫を引き当てることは一見では無意味に思えるものの、≪夢魔≫が戦場にあればすべての沼が重要となっているので、最早そのドローは無意味でなくなるのだ。
ご覧のように、愛らしい火の馬というだけではないのだ。
●地震≪地震 / Earthquake≫
(X)(R)、ソーサリー、レア
地震は、飛行を持たない各クリーチャーと各プレイヤーにそれぞれX点のダメージを与える。
全体除去に関しては≪神の怒り≫の項で既に述べたので、それ以外の≪地震≫の側面についていくつか焦点を当てていきたいと思う。まず、拡張性と私が呼ぶ様相を吟味していこう。すなわち、より多くの資源を、ほとんどの場合それはマナだが、それを注ぎ込むことで効果を強めることができる、そういった呪文のことだ。これらが果たす役割を見てみよう。ご存じの通り、資源管理の均衡のためにマジックが採用しているのは、マナ体系だ。自分の手番ごとに一枚しか土地をプレイできないと定めることで、強力な効果が立ち現われるのをゲームはごく自然に減速させている。だが、これには些か問題がある。マナ体系によってプレイヤーは、マナ曲線に沿うようなデッキを組むよう強いられてしまう。すなわち、自分のデッキが序盤の手番に有効な手を打てない場合には、そのプレイヤーは痛い目に遭うということだ。例えば、唱えるのに四マナ以上必要な呪文しか入っていないデッキを使うのは、非常に困難であるはずだ。と言うのも、対戦相手に三手も四手も先んじて渡すような余裕は、どのデッキにも無いからだ。
このことからプレイヤーは、ゲームの進行によって変動するマナ域の中で、【序盤、中盤、終盤というゲームの段階に応じて、】呪文を唱えざるをえない。そうであるからには、彼らには巨大な効果を持つ大型呪文を使う余裕は、【終盤においてのみ】僅かしか与えられていないということになる。これこそ、リチャードが拡張可能な呪文によって解決しようと試みた問題だった。≪地震≫は≪恐怖≫や≪紅蓮地獄≫、≪燎原の火≫や≪インフェルノ≫になりうる。この呪文は利用可能なマナ域に当て嵌まるよう拡大するのだ。
今ここで私は、大学での体験を思い出した。映画の座学で、古い映画を鑑賞していたときのことだ。私にはその映画が退屈に思えてならなかった。私が当然として捉えていた映画における技巧的な約束事は、それらが既に映画という情報媒体の主要素になっていたからこそそう思え得たのだが、やがて教授が説明したのは、そのような約束事は【銀幕の黎明期の】この映画以前には存在しなかったのだ、ということだった。この時を境に、私は映画の授業に興味を持つようになった。それまで存在しなかった映画上の約束事に対する必要性を、監督、脚本家、編集者、カメラマンがどのような経緯で認知するに至ったか、また彼らがいかにしてその必要性を満たすべく品目を創っていったか――これらに対して理解することは、まさにマジックの創造過程においても訪れる瞬間の一つだ。X呪文は今日では疑念の余地が無いほど分かりやすいものかもしれないが、それもリチャードがゲームに必要だと理解していたからこそ生み出された賜物だ。
このカードの興味深い設計上の様相は、私が「目盛り盤の効果」と呼ぶものだ。このカードは効果を拡張することができるので、プレイヤーの一連の決断に興味深い影響を与える。≪地震≫はどれほどの大きさであるべきだろうか。大抵の場合その答えは、「可能な限り最大にする」だ。これ以上ないほど巧みに唱えられた≪地震≫は往々にして、まさに寸分違わずに仕事を遂行する。そしてこのことが、プレイヤーの一連の意思決定に非常に深い奥行きを与えている。
留意していただきたいのは、これらの意思決定はその時に至るまでに限ったことではなく、それから先においても非常に重要な規定になる、ということだ。具体例として、君の手札に≪地震≫があると想定してみよう。その≪地震≫の存在は、いつクリーチャーを唱えるか、またどのクリーチャーを唱えるか、という君の判断を規定するし、立場上その≪地震≫を先読みしなければならない対戦相手をして、類似した対応を取らせることになるだろう。
最後になったが、私はここまで不注意にも、このカードのフレーバー上の美点について称賛を挙げてこなかった。私が思うに、フレーバー上の目的のためにメカニクスに追加の制限を課すのは、非常に注意深く取り扱われるべきことだ。しかし≪地震≫における「飛行を持たない」という制約は、見事なものだと思う。
概して≪地震≫は、良く設計されたカードに求められるものを全て持っていると言えよう。強力で、融通が利き、関心を引く意思決定を創り、そしてフレーバーを釘付けにしている。これ以上何を求めることができようか。
●巨大化≪巨大化 / Giant Growth≫
(G)、インスタント、コモン
クリーチャー1体を対象とする。それはターン終了時まで+3/+3の修正を受ける。
【英語版:Target creature gets +3/+3 until end of turn.】
さて、我々は緑をもって締め括りを迎える。心配はご無用で、緑は第一級の華を持っている。≪巨大化≫が素晴らしいのは、僅かなことを以って多彩なことを為せるからだ。カード設計における端麗の本質が欲しいなら、≪巨大化≫を数秒間見つめるのが良い。私が以下に話を進める間、英語版のこのカードが僅か八単語のルール文章で成り立っていることを――なるほど、技術上は七単語に「+3/+3」の勘定を加えた文章だが、ともあれ――是非念頭に置いていただきたい。
それでは≪巨大化≫の何が偉大なのか。おそらくこのカードの最も重要な側面は、クリーチャーの戦闘に影響を与えるということだ。≪神の怒り≫の項で既に述べたことだが、マジックは、その要所、その核心として、クリーチャーのゲームである。大量のお便りが届く前に急いで強調させていただきたいが、私は何も、このゲームがクリーチャーに従属的に規定されていると言いたいのではない。そうでないことは重々承知している。確かに、クリーチャーを一切使用しない優秀なデッキも、数多く存在している。しかしながら、クリーチャーという脅威は絶え間なくゲームに現存する。ダメージをマナコストで測量した場合、クリーチャーが最も効率の良い資源となる。一体の一マナ1/1のクリーチャーは、それ一枚でゲームに勝利する潜在性を有している。非クリーチャーの一マナ呪文には、20点のダメージを与えられる潜在性を秘めたものは一枚もないのだ。いや、訂正しよう、「ほとんど一枚もない」だ――≪魔力激突 / Mana Clash≫についてお便りを送るような真似は是非自重していただければ幸いだ【≪魔力激突≫:赤一マナのソーサリー。自分と対戦相手の双方が同時に表を出すまでコインを投げ続け、裏が出るたびにそのプレイヤーに一点ダメージが飛ぶ】。
何はともあれ、クリーチャーはマジックのゲームで非常に大きな役割を演じている。そしてもし両方のプレイヤーがクリーチャーを有していれば、クリーチャー同士の戦闘が次に問題になってくるだろう。だがここに、クリーチャーの戦闘に、根本的な問題があるのだ。【もし≪巨大化≫のようなコンバット・トリックがなければ、】大体の場合戦闘が退屈になる、という問題だ。なぜそうなるかと言うと、全ての情報が公開されているからだ。私が3/3のクリーチャーで攻撃する際、対戦相手の防御の選択肢を全て知っているからこそ私はそうするのだ。もしどれか一つでも私の意に沿わない選択肢があるなら、私はほとんどの場合攻撃しないことを選ぶはずだ。しかし≪巨大化≫やその系譜のカードの存在は、こういった全ての状況を一新させる。≪巨大化≫はクリーチャーの戦闘に色気を付け足し、推理や不可解性、緊張や不確定性の気風を帯びさせる。もはや私は、公開情報である盤面の上では不利であっても、3/3のクリーチャーで攻撃しうる、ということになる。そして、その決断には自分の手札に≪巨大化≫が実際にある必要がないのだ。カードがただ存在しうるという抑止力には、対戦相手の行動を変える可能性がある。カードがデッキに入ってさえいない場合でも、【「飛んでくるかもしれない」と対戦相手に思わしめ、】役割を果たすかもしれない。もっとも、そうなるのは自分のデッキが緑を含んでいる場合に限られるだろうが。【いずれにしても】これは強力なカードだ。
さらに、≪巨大化≫はその多芸性の点で、成績優秀の評価を私から勝ち取っている。以下にいくつか、このカードが為しうることを列挙しよう。
・対戦相手に追加の三点ダメージを与えること。≪火炎噴流≫などに相当。
・自分のクリーチャーに、太刀打ちできなかった相手のクリーチャーを破壊させること。≪恐怖≫などに相当。
・致死ダメージによる破壊からクリーチャーを守ること。≪治癒の軟膏≫などに相当。
・パワーを参照する能力や効果を更に高めること。これに直接的に相当するカードは存在しない。【≪巨大化≫は≪Berserk≫の効果を「より強いものにする」のであって、≪巨大化≫がそれ一枚で直接的に≪Berserk≫の役割を果たすわけではない。】
・タフネスを参照する能力や効果を更に高めること。相当するカードは、同上。
それにしても、八単語だ。50のハイパーリンクで端麗だと言うのは、余りにも長過ぎたということだ。八単語で試みなければならない。端麗の広報ポスターの子供役としては、このカードの他に適任なのはないだろう。これは僅かなことを以って多彩なことを為す。また、端麗なフレーバーを持ってさえいる。これはきっと、彫刻家たちがフローレンスを旅しミケランジェロのダビデ像を目の当たりにしたときに感じるのと、同じ感覚ではないだろうか。彼らはおそらく部屋の後ろの方に座り込んで、「これを上回るには、一体どうすれば良いのだろうか」と自問したに違いない。
この問いかけこそ、私が≪巨大化≫を見たときに感じたものだ。カードは非常に単純であるのに、プレイには狂気と隣り合わせの奥行きがあり、まさに肝が潰されたとはこのことを言うのだ。
●設計を終えて【原文:Design Off】
本日の記事が読者諸賢にとって、マジックのカードの図案の美について、何らかの価値を認める契機になれば幸いだ。すべての断片が集まることで、出来の良いカードは一つの芸術のようになるのだ。この記事を、マジック博物館の黎明期区画を歩いたかのように捉えていただきたい。
来週もまたご覧いただきたい。六番目の色について語るつもりだ。いや、それは実際には六番目の色でないのだが、
その時まで君たちがゲームの最中に一瞬でも、自分がプレイしようとするカードの真価、それを見定める時を設けているのを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
●お待ちください、まだあります【原文:But Wait There’s More――アメリカの通販司会者ロン・ポウピール氏の口癖】
二週間後もまた、テーマ週間ではない。つまり、私は何か話題を自前で用意しなければならない。そして薄々気づき始めたのだが、どうも私にはその話題が思いつかない。そこでこうすることにした。今週中に、このメイキング・マジックで私に語ってほしい話題を【メールで】伝えていただきたい。いかなる話題も制限されない、どんな話題でも構わない。もし私に何か語ってほしいものがあるなら、今回がその機会だということだ。
次週は【順当に進めば】楽しい企画になるはずだ。私の想像力をくすぐる話題を寄せられた全体の中から一割選ぶので、次週の記事では君たちにその中から更に選んで投票していただく。そのまた次の週に私は、君たちの投票の上位二つの話題を織り込ませた記事をお披露目する、こういう算段だ。上位二つだ――私はちゃんと明言したぞ。私の仕事は上位二つの話題をどう織り交ぜるか考えることであり、かつ、それをマジックの創造過程に関連付けさせることであり、かつ、その記事を楽しいものにすることだ。
なぜこのような企画をするのか。なぜ魔術師ホーディニーは、拘束服を着せられ、箱に厳封されて、海に投げ込まれたのか。君たちならどちらも答えは分かっているだろう。「ただ刺激を求めたから」だ。これから起こることを目の当たりにするのが、私には非常に楽しみでならない。
だがそのためには、まず君たちの手番から始めなければならない。是非、私に話題を送っていただきたい。
【翻訳】An Elegant Response――『端麗な反応』
2015年6月15日 MTG翻訳:色の哲学 以前訳出した『端麗』からの続きになります。
拙訳(http://imatoki.diarynote.jp/201505081447563651/)の通読と、原文(http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr146)の一瞥がまだの方は、まずこちらの方から読む、ないし見るのをお勧めします。
拙訳(http://imatoki.diarynote.jp/201505081447563651/)の通読と、原文(http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr146)の一瞥がまだの方は、まずこちらの方から読む、ないし見るのをお勧めします。
≪端麗な感想――『端麗』を書いた理由を語る≫
原題:An Elegant Response ―― Mark shares his reasons for "Elegance"
Mark Rosewater
2004年11月1日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr148
●端麗な感想親愛なるマーク・ローズウォーターへ。
あなたの記事『端麗』に関してですが、
ファック・ユー。気に入りました。あなたの書いてきた記事の中だけでなく、ウィザーズ社全体の中で見ても、です。他の感想もこの記事に敬意を示しているのを願いつつ。
お疲れ様でした。
――ジョン・カタルド親愛なるマーク・ローズウォーターへ。
私は、普段はあなたの記事のファンですが、あの記事はいささか馬鹿げています。あれは端麗に完璧に反しています。あれほどの数のハイパーリンクで取り繕っているのですから。どこかに要点があるはずだと希望を持ちながら、一つずつクリックしていきました。おそらく実際にはあったところを、私が見逃しただけなのでしょうね。ともあれ、私はアンヒンジドの冗談かと思いました。なるほど確かに、あの記事は冗談でした。ですが、読者をからかうことを目的とした冗談でした。何てことでしょう。
私は物書きの助言が欲しくてメイキング・マジックを読んでいるのはありません。マジックのデザインについて知るために読んでいるのです。あなたの風変わりで奇異な記事のほとんどを、私は楽しく拝読してきましたが、『端麗』は腹立たしさ以外の何物でもありませんでした。どうかマジックを守っていただきたい、と思います。どうしても必要な時には、ちょっと他の方法に手を出すのがよろしいでしょう。つまり、内省的な散文の領域へと不思議の念を以って駆り立てられた際には、個人としてのウェブページにおいて、私たち抜きでコツコツとやっていただきたい、ということです。
それではまた!
――ダニエル・ヒルマローへ。
まず、お疲れ様でした。『端麗』はこれまで書かれた記事の中で、かなりのお気に入りのものだったと思います。【デザインチームであるマローは、ルールチームのマーク・ゴットリーブ、愛称マゴーと犬猿の仲にありますが、】普段私はマゴーの方を支持しています。彼の筆は踊る様で、デッキ構築は独創的だからです。『端麗』は、確かに楽しいものではなく、記事として相応しくありませんでしたが、執筆に対する洞察に満ちた視座を示していました。掲示板の多くの人は、おそらくあなたも目を通していることでしょうが、この洞察を理解するだけの忍耐力を持ち合わせていないようです。なるほど確かに、あの手の記事はほぼ確実に、万人受けするものではないと思います。しかし「ふざけるな!」と言うようなものでは決してありません。楽しみに対するある種の思考態度が取られていますし、ハイパーリンクを行き来するためボタンをクリックすることに対しては、確かに私もいささか気後れを感じましたが、しかし私が直前まで持っていた予想というものが、次の断章が現れる都度に、ますます埋め合わされていくようでした。感嘆するような中身の断章だったと思いますし、おそらく、私の楽しめたという【正の】感覚は、百人の楽しめなかったという【負の】感覚に匹敵すると思います。
敬具【Most sincerely】、
鼠の鳴き声より。【That Which Squeaks】親愛なるマーク・ローズウォーターへ。
くだんの記事『端麗』についてですが、あなたの「少ないのが良い」という考え方に則りますと、あれは「戯言」でした。
もしあなたがご自身の叙情詩を磨き上げたいと思うようでしたら、マジックプレイヤーであるからこそあなたの記事を読む、そういう読者の時間をネコババしないでいただきたいです。執筆のゼミ演習にでも行って、そこで行なえばよろしいでしょう。
記事を読んでいていかに酷い気持ちになったか、それを書きつける必要性を感じたのは今回が初めてです。普段のあなたは面白い読み物を書くので、あの記事はあなたの汚点だと、そう思う次第です。
――ジェイソン・パトリッジ拝啓、ローズウォーター氏。
手始めに、私がこの記事をどれほど楽しめたかについて、語らせていただきます。私はよくあなたの週刊記事を読みますが、そうであるがゆえに、『端麗』の週にあなたが使ったあのような技巧に私は甚だ驚かされました。
あなたは様式と内容の両面で、少なくとも私にとっては面白いものを混ぜ合わせたわけですが、またこれは昨今では滅多に見られないものですが、ともあれ相当な手間暇を割かれたと推察するところです。私もまた、ほとんどが散文ですが、執筆者でありますから、あの記事が作られるのに必要不可欠だった作業時間がいかなるものだったか、察することができるというわけです。
つまり私が言わんとしているのは、読んでいて楽しいものだったと、そういうことです。
敬具。
――イバン・ゴードン史上最低最悪の記事である。
これで端麗だと言うのか? どこまでも極悪非道で、恐れ入ったことだ。56キロのモデムを以てしては、あれは苦痛以外の何物でもなかった。あんたは端麗へ近づこうとするあまり、「感性」に絡め捕られて、無粋、支離滅裂、むしろ出鱈目で要領無しになっているわけだ。この連載記事はMTGの研究デザイン部について述べることになっているはずであって、「英語の理解」についてではないはずだ。この記事は、実に、痛々しくて鬱陶しいものだ。
――名無しの迷える羊【--Sheep】親愛なるマーク・ローズウォーターへ。
本当にお疲れ様でした。
正直なところ、あの記事を読み始めた時に私が最初に思ったのは、マローに向かって「おまえ、何してるんだよ!?」と怒鳴りつけてやりたい、ということでした。
読み進めて、あなたの意図が分かりました。情報の詰まった、知性を刺激する、示唆に富んだ、そういう記事をもう一度書こうとしているのだと。
あなたが記事の最後で書いた質問【「何を思ったか」とか「おもしろかったか」とか】に対して、次の二つを回答しておきます。
第一。あれは平易に手軽に読める記事ではなく、そのため私には娯楽面の価値が減じているように思われました。しかしながら記事の構成は、各段落が意味するところを考えさせられたため、その目的に巧みに資していました。
第二。非常に教育的な記事で、今後物を書くときには常にこの記事が教唆するところを意識しようと思いました。
掲示板のここまでの書き込みを読んだあなたが、あの記事は無駄な努力だったのだと思ってしまうことのないように、と私は切に思っています。あれはあなたがこのウェブサイトに掲載したものの中で、間違いなく最高のものだと、私は考えています。
それから、あなたの書いた考えがたとえ少しずつであっても、この掲示板であなたをけなしている人全員に理解されていくことを、ただただ願っています。
否定的な意見のために、今後あなたが私たちの知性を鍛錬させるのを躊躇うのではないか、と想像すると残念に感じます。
繰り返しになりますが、お疲れ様でした。
――英国マンチェスター在住、エド・ライアル親愛なるマーク・ローズウォーターへ。
あなたの記事『端麗』に対する感想ですが――もしマジックのカードの創作に関するような類の記事に仕上がっていれば、あの記事は良い物になっただろうと思われます。ともすれば、毎週これこれのように書かれるはずだという偏見のようなものがあるかもしれません。
あの記事は「メイキング・マジック」に連なりうると考えられたのかもしれませんが、やはり、そう呼ぶのは無理があります。あれは「詩」の書き方について論じたのでありますから。
そうは言っても、良い考え方だとは思いました。もしマジックのカードやウェブの記事に対して影響力をお持ちの人をどなたかご存知でしたら、私の要望【冒頭の、『端麗』をマジックに直接関わらせて書くこと】を彼らに通してはいただけないでしょうか?
――ブラッドより。
二週間前、私は『端麗』という題の記事を掲載した。未読の人はまずそちらを一読するのをお勧めしておく。私が何について話しているかを分かっていれば、今日の記事は遥かにおもしろいものになるはずだからだ。
くだんの記事に対する反響は、どんなに控えめに言っても、興味深いものだった。公開掲示板には三百を超える書き込みが寄せられた。平均的な掲示板には五十足らずの書き込みが寄せられるので、あの記事には普段の九倍近くの反響があったと言える。さらに私宛てのEメールは五百通ほど届いたが、こちらは平均的な記事だと五十通から百通ほどなので、大体二倍強の関心を惹いたことになる。掲示板は否定的な意見に、Eメールは肯定的な意見に、それぞれ慣例的に傾倒しがちではあるが、双方とも以下二点の明白な事実を指摘しているということ、我々はこれを認める必要がある。第一の点は、あの記事は確かに強い反響を呼び起こしたということで、そして第二の点は、それらの反響は満場一致からは程遠いということだ。
それでは、実際のところ私が意図したのは何だったか。なぜ私は『端麗』を書いたのか。書き終えてすぐにそれを公表した誘因は何か。記事で述べられていることが、果たして、マジックの創造過程とどういう関係があるのか。記事がこれほどまで気に入られた、ないし目の敵にされた、その原因は何か。今日の記事ではこれらすべての疑問に対する回答を、またそれ以上【の示唆】をも提示していくつもりだ。今回はマジックの創造過程における土台の側面に洞察を向けていくので、どうかブラウザを閉じずに、私を信じて読み進めていただければと思う。記事の箇所によってはそうした洞察に見えないかもしれないが、メイキング・マジックの筆跡は、辿ればどれもマジックの創造過程へと行き着くようになっている【ので、この点もまた信頼していただきたい】。
●私マークの意見に用心するように
ブラウザの向こう側の読者諸賢の中で、果たしてどれほどの人数が、週刊記事を執筆する圧力を受けているのか、私には知る由もないが、こういった執筆はまさに挑戦だと言える。新たな題材が常に必要となれば、通常時には分析しないような物事に関して隈なく探究するよう強いられることだろう。そこで私が執筆の際に使う小細工の一つは、まず見通しの立つ考えをいくつか書き並べ、それらがいかにも使えそうな記事はどんなものかを時間を置いて考える、というものだ。私の良い発想は、傾向として大きく二つの群に割り振られる。すなわち、一方は自分が述べてみたいと思うような話題で、他方は自分が実践してみたいと思うような様式だ。
一例は、「冒険を選ぼう / choose your own adventure」という形式の採用だ。これはオンライン記事の長所に合致した企画だ。だがこの構成の利点になるような話題を明解に提示するには、半年もの時間が必要だった。読者はどうなりたいと思っているだろうか、また、どの冒険を選ぶだろうか。【それを思い悩んでいた中、】ある日私は、研究デザイン部の一員としての自分の一日を書こう、と思い至った。そしてこれは【述べたい話題と実践したい様式の】二点が完璧に噛み合った記事だった。私の挙げている記事に心当たりのない人は、『日常のとある一日 / A Day in the Life』を参照していただきたい。【http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr58 ――訳注:マロー自身『100回記念 / One Hundred and Counting』で星五つと自己評価している記事なのですが、DNで訳出するにはどうにも一手間かかりそうです】
非常に似たような経緯で『端麗』も生まれた。この発想は今から一年ほど前に思いついた――短い記事ではあるが、記事内のすべての単語が別の短い記事にハイパーリンクで繋がっている、という構成だ。その後少し考えて分かったことだが、リンク元の記事を50の単語で書き、その各単語にリンク先として50単語の記事を充てれば、全体としては2550単語になり、これで私の記事の平均語数に相当する。しかしこのような形式を使って述べたいことを、その時はどうしても思いつけなかったので、私はこの発想を無意識の内へと棚上げすることにした。もっとも以下で確認するように、そんな場所で無為に過ごすのに甘んじるような発想ではなかったわけだが。
●陰が陽と交わるとき【相反する対概念が邂逅するとき】
私の感興がそそられるのは次のような事情、すなわち――50単語の記事五十個に繋がっている50単語の記事、この全体的な発想は極めて端麗であるものの、これを実行に移すこと自体は無粋【inelegant】であり、かつ、こうした構想は端麗であること――この事情にあった。あの記事の発想は、無粋が織り込まれた端麗なもの、と言えた。構想としては、まさに端麗を無粋と混ぜ合わせるという発想なのだから、非常に素敵なものだ。同時に、記事を読み進めていく手続きは、非常にまどろっこしいものだ。構想の素晴らしさのためだけに読者に煩雑な読解を強いる気には、私はなれなかった。再び私はこの発想を厳封したのだった。
後日、私はこの発想に死角から不意打ちを突かれた。無粋であることを不手際ではなく仕様とすれば、どうなるだろうか。無粋であることが目的に適うとすれば、どうなるだろうか。まさにこの時に、くだんの構造が特定の話題を必要としているのだと、その話題は端麗それ自体であると、私ははっきり理解したのだった。かつて私が選抜候補者名簿の中に50語の記事とハイパーリンクという発想を書き連ねたのと同様に、マジックの創作過程における端麗に関して述べる記事を書こうと決心したのだった。
皮肉にも、端麗は非常に入り組んだ話題であり、正確に説明するのは困難だろうとは私も承知していた。特に難解なのは、創造過程における端麗には一つだけではなく実際には二つの異なる意味合いが含まれている、という発想だ。すなわち、構想における端麗、実践における端麗、この二つだ。これら二つの考え方は似通っていて本来的に結びついている、そのような響きがあるかもしれないが、事実はそうではない。私はこれを説明したかったのだが、その術については分からなかった。恐ろしく複雑であるものの、端麗はマジックの創造過程において土台を成している。
そこで私は、端麗かつ無粋な文章構造を用いることで、真に端麗に関わらんとする記事に仕立て上げたのだ。これがなぜ端麗なのかと言うと、こういうことだ。もし無粋な文章構造の記事が【端麗や無粋以外の】他の話題を取り上げたなら、おそらくその記事は単に焦れったいものに過ぎなくなるだろうからだ。端麗という話題を取り扱うことで、依然として焦れったさは残るものの、極めて重要な作用が二つ供されることになるはずだ。第一の作用は、記事が、欠如による証明【demonstration by omission】と我々が執筆において呼ぶものになる、ということだ。すなわち、端麗がなければ何が起こるかということを実演することで、私の主張しようとする要点が際立つだろうと期待された。そして第二の作用は、皮肉な並列になる、ということだ。並列による対比が、記事における端麗に光輝を集中させるだろうと期待された。
記事は教育的で啓蒙的になる見込みだったが、非常にはた迷惑な代物になる可能性も高かった。そこで私は、自分自身の中で対話を交わしてみることにした。余談ながら、信頼置ける読者はご存じだろうが、私はこの手の独白や自己省察を頻繁に行なっている。賛成派「50語の記事で、各語が50語の別の記事へのハイパーリンクになっている。最高に洗練されているだろ?」
反対派「つまり読者に、50のハイパーリンクをクリックさせようとおっしゃるのでしょうか?」
賛成派「あぁ、そうさ」
反対派「それがどれだけ迷惑なことか、想像つかないのでございましょうか?」
賛成派「いや、その対比こそが勘所なんだ。【記事の形式は】恐ろしく無粋だ。無粋であることを通じて、端麗を論証していくのさ」
反対派「端麗についての記事で、かつ端麗である記事、これでは駄目なのでございましょうか?」
賛成派「あー、それは確かに端麗だろうね。構想としては」
反対派「つまり、実践としては無粋だ、ということでしょうか」
賛成派「正解」
反対派「ということは、基本的にあなたは、≪Ice Cauldron≫なマジックの記事を書く気でおられる、そういうわけでございますね?」
賛成派「いや、そんな風に考えたことは一度もないんだが」
反対派「創造における古典的な板挟みを論証していくわけでございますね」
賛成派「そんなつもりでもないんだが」
反対派「いいえ、いいえ! まさにあなたは創造における、古典的な板挟みを論じようとしているのであります! よろしいではございませんか! 【それとも、】構想における端麗と実践における端麗、この二つの差異を峻別するような論証、そういった論証がいかに困難であるか全く想像がつかない、【つまりこの二つには差異がないか、あったとしても容易に論証できる、】こうおっしゃるのですか?」
賛成派「いや、そうは思ってない【それは難しいことだ】」
反対派「我々に対して口先で語るだけでなく、常に実際に示して見せようとする、あなたはそういう人間ではないとおっしゃるのでしょうか?」
賛成派「いや、そうありたいと思うよ」
反対派「そうでありますならば、この記事は創造過程の核心を通じて、構想と実践の対立を強調することになるでしょう。まさに我々がかねてより言及したいと思ってきた対立でございましょう。加えて、単に小手先の叙述になるわけでなく、目映いネオンの光で照らされ論証される、という運びになるでしょう」
賛成派「ちょっと待ってくれ。あんた、反対派じゃなかったのか?」訳注:アイスエイジの4マナのレア・アーティファクト≪Ice Cauldron≫(氷の大釜)の、読むのが嫌になるような能力は、次の通り。
(X),(T):~の上に蓄積カウンターを1個置き、あなたの手札から土地でないカードを1枚ゲームから取り除く。そのカードが追放されている限り、あなたはそのカードを唱えてもよい。この能力を起動するために支払われたマナのタイプと量を記録しておく。この能力は、~の上に蓄積カウンターが置かれていない場合にのみ起動できる。
(T),~の上から蓄積カウンターを1個取り除く。:あなたのマナ・プールに、最後に記録されたタイプと量のマナを加える。これらのマナは、最後に~によって追放されたカードを唱えるためだけにしか使えない。
●共に立ち起こる計画が私は大好きだ【I Love It When A Plan Comes Together】
では、なぜ私は『端麗』を公表することを選んだのか。その理由は――マジックの創造過程という話題に専心した他のすべての記事よりも、この『端麗』こそが、その話題について読者により多くを教唆できる――と私は考えたからだ。『端麗』はマジックの創造過程の基本原理を、他の記事とは違った方法で読者の心に銘記できた。
もっとも、御託はもう充分であろうから、記事の肝腎な中身の方へと移って掘り下げていこう。
先週つまり『端麗』の翌週の記事の冒頭で、私は数多くの賛否両論に対する詳細な応答は次週つまり今回の記事に回すとした上で、それまでの間に読者に討論していただきたい議題として「『端麗』は端麗か否か」という質問を投げかけた。回答には然りと否の両方があった。『端麗』は構想としては非常に端麗だ。記事の背後にある発想や記事としての一般構造は、端麗だと思われる。だが『端麗』は実践としては非常に無粋だ。記事を読むためには、気狂い沙汰の数の腹立たしいハイパーリンクを飛ばなければならない。記事を楽しむという実体験は、記事が強要する読み方のために、複雑に歪曲されてしまっている。
そこで、この端麗がマジックの創造過程にどう影響するのかと、疑問に思われるかもしれない。それに対する答えは、非常に多くの影響がある、ということになる。ご存じの通り私の仕事は、困難であっても取り組まなければならないのだが、関心を惹きかつ遊んで楽しいようなマジックのカードを作ることだ。このために私は、人々を楽しませるのに資するような種や仕掛けを知恵袋一杯分、駆使する必要がある。その中の最大の利器が、端麗だ。端麗な発想は、より審美的な喜びをもたらし、理解をより単純明快なものとし、多きを少なきの中に含み、そして創造過程を改良するのに役立つ。ちなみに、いかに端麗になるかという秘訣に関しては、『端麗』の記事に戻って確かめていただきたい。これらの秘訣はすべて、実際に、マジックの創造過程に適用されている。
大概の人は端麗が何たるかについて理解していただけたと思う。大多数の人がその重要性を理解しているだろうし、あるいは少なくともそう理解することに信を置いているだろう。しかしごく少数の人しか、端麗とは一つの物事ではない、という事実を認識していないようだ。すなわち端麗は、多くの物事に対する取り組み方のことを指す。比喩を使うならばそれは、芸術家が発想を実体へと織り込んでいく際に使用する一連の利器である。単純に言ってしまえば、端麗は二つの大きな範疇に嵌め込まれる。すなわち、構想における端麗と実践における端麗だ。
構想における端麗は、発想そのものだ。それは実体を持たないものであり、情動や認識や直観そのものであり、そして物事を「正当だと感じさせるよう」にするものだ。
実践における端麗は、過程そのものだ。それは物事を効率的に行なう手法を探すことであり、簡潔さや焦点や指図そのものであり、そして物事を「正確に動作させるよう」にするものだ。
この二種類の端麗は、全く異なった一連の技法にそれぞれ役立てられる。だが優秀なマジックの設計者には、この両方を駆使できることが必要とされている。つまりその設計者は、これら二種類の端麗の差異について理解していなければならない。
●あちらを立てればこちらが立たず【One Thumb Up, One Thumb Down】
突然ではあるが、余談を挟ませていただきたい。私がここで意図するのは、記事への反応がはっきりと分かれた理由、それを私なりの解釈で手短に説明することであり、それ以上のものはない。その理由とは、人が異なればその人が応じやすい端麗の種類も異なるから、というものだ。幾分か一般化された見方であると念頭に置いていただきたいところだが、以下の三つの陣営があると私には思われる。
第一陣営:実践よりも構想における端麗の方を重視する
これは発想に魅せられた集団だ。ここに分類される人は、構想の美に対して至上の喜びを見出している。そうであるから、彼らは構想により重い価値を置いているので、無粋な実践を通じてでも端麗な構想に辿り着くことを望んでいる。この集団が『端麗』の皮肉な並置を高く評価したのも、それが構想として非常に洗練されていたからだろう。この集団は、『端麗』を成功だったと見なすだろう。
第二陣営:構想よりも実践における端麗の方を重視する
こちらはより実利的な集団だ。彼らが望む経験は、出来る限り楽しめるようなものだ。もし実践が無粋であるなら、彼らはそのような実践を導いた構想を決して称賛しようとはしない。無粋な実践は彼らの癪に触るのだ。この集団の多くはおそらく、『端麗』を途中で投げ出し、全てのハイパーリンクを巡らなかったのではなかろうか。おそらくあの記事には、苦痛を甘受してまで通読するほどの価値はなかったのだろう。この集団は、『端麗』を徹底的に失敗だったと見なすだろう。
第三陣営:構想と実践双方の端麗を等しく重視する
この集団は、先の二つの間で均衡を取っているものだ。彼らは構想の端麗を称賛しようという気になりつつ、そうかと言ってそのために実践の無粋を見逃そうとは思わない。この集団は『端麗』の構想は評価しつつも、やはり全てのハイパーリンクを巡る過程で興を殺がれてしまったようだ。彼らは一部分に対して気に入ったものの、全体に対してはそう思ってはいない。この集団は、『端麗』を壮大ではあるが失敗に終わった試みだったと見なすだろう。
いかなる類の集団分けに付き物だが、上記三つの集団に当て嵌まらない人もいるということを留意していただきたい。しかし概して、私の元に届いたのはこれら三つの反応だった。
●実践の立証
設計者がカードを設計するために椅子に座る際には、構想と実践の双方で端麗なカードを作ること、これがその人の究極的な目標となる。そして、両方とも成し遂げてみせるときがあれば、片方だけというときもあるし、また両方とも駄目だったというときもある。これらを順に分析していこう。
第一群:構想、実践ともに端麗なカード
この範疇には、どの設計者も自分のカードが最終的に落ち着いて欲しいと願っている。この範疇に含まれる古典的な例は、≪Time Walk≫【時間遡行。追加ターンを得る2マナのソーサリー】だ。この構想は、目を見張るほど強力だ。魔法使いは魔法を使って時間を捻じ曲げ、追加ターンを得る。これが実践するところは、非常に率直であろう。見た、得た、好きになった。こういった類のカードこそが、設計者を嬉しく思わせるのだ。
第二群:端麗な構想だが無粋な実践のカード
これらのカードは何らかの意味で非常に洗練されたことをするが、幾つかの点では――このカードに関連した規則、カード文章の鋳型、あるいはカードがいかに機能するかに関してのメカニクス、これらの点では――幾分か野暮ったいものとなっている。これは≪Ice Cauldron≫の範疇であると言えよう。核心部では、≪Ice Cauldron≫は手際の良い構想を持っている。このアーティファクトを使えば、プレイヤーは後で使う呪文のためにマナを備蓄することができる。だがこのカードは実践では非常に交錯しており、この乱雑さの大部分は過剰な文字と不要に複雑なメカニクスに依拠するのだが、そのため多くのプレイヤーは、どう使うかを理解するより遥かに前に、これを投げ出してしまうのだ。もっとも、≪Ice Cauldron≫はこの範疇の中でも極限にあるカードであるということは、念頭に置いていただきたい。マジックには実践よりも構想の方に比重を置いたカードが多くあるが、≪Ice Cauldron≫と同程度に野暮なものはそれらの中の一握りに過ぎない。
この範疇は、第一陣営【実践よりも構想の端麗を重視する読者】の領域に含まれる。第一陣営の群集は、洗練された効果を得るためには多くを我慢して構わないと思っている。次のことを強調しておくのは重要だ。すなわち――研究デザイン部の設計技術が発展するにつれて、我々は第二群のカードを第一群のカードへと変換する方法を見出しつつある――ということだ。例えば、数年前だと≪精神隷属器 / Mindslavor≫【プレイヤー一人の次の1ターンをコントロールするアーティファクト。専用ルールが設けられた】や≪時間停止 / Time Stop≫【ターンを終了する青のインスタント。注釈文が長い】は、≪Ice Cauldron≫とは【カードの文章を読んで理解できるが、ルール上は非常に厄介であるという形で】対極を成すものの、両方ともこの第二群に落ち着いただろう。だがカード文章の鋳型が発展するにつれ、我々はより短く簡明な鋳型を採用できるようになった。【なのでこの二枚のカードは無事に第一群に分類できるのだ。】
第三群:端麗な実践だが無粋な構想のカード
これらのカードは、機能を満たすために作られたものだ。胸を躍らせるようなものは何も持たないが、カードとしての仕事は完遂している、というものだ。この範疇の良い例は、≪忍び寄るカビ / Creeping Mold≫【アーティファクトかエンチャントか土地を一つ破壊する緑のソーサリー】が挙げられるだろう。このカードは非常に効果的にかつ端麗に仕事をこなす。しかし、このカードの設計の核心部を吟味していただければ了承していただけると思うのだが、幾ばくか退屈に思えてこないだろうか。なぜこのカビは、これら特定の三種類のパーマネントを破壊するのだろうか。誰が知るだろうか。というよりも、誰か気に留めただろうか。アーティファクトやエンチャントや土地に対する対策カードが必要なら、この≪忍び寄るカビ≫が選択肢に入る。【以上のように、この手のカードとプレイヤーの関係は、ビジネスライクで色気も味気もないものだ。】
第二陣営【構想よりも実践の端麗を重視する者】は機能を高く評価するため、これらの類のカードに美を見出しうるだろう。そのカードはメカニクスとして有用であり、理解が容易であるか――これが第二陣営の必要とする全てだ。ここ数年間でのこの範疇における最大の進歩は、クリエイティブ・チームの発展にある。フレーバーは、物事を一緒に束ねたり、あるいはカードの創造的な構想を綴ったりすることで形成される。平凡なカードにより強い構想上の端麗さを付与するには、このフレーバーが効果的な利器である、と示されてきたのだ。
第四群:構想、実践ともに端麗を欠いたカード
私にはあなた方を欺くつもりは毛頭ない。こういったカードは存在する。だがこれらは我々が意図してそうなったと言うよりかは、余儀なくそうなったと言えるものだ。通常この種のカードが作られてしまうのは、そのカードが設計と開発の欠陥たる網の目を掻い潜ってしまったことに依拠する。研究デザイン部は全てのカードに焦点を当てることはできないので、どの拡張セットにもこれらの不発弾が一定数忍び込んでいる。
ここでの教訓は――カードの端麗さには異なる水準と種類がある、そして第四群はさておき、どの種類にも最優秀候補がある――ということだ。
●危険思想
私が『端麗』を書いた背景には、三つの主目的が念頭にあった。
第一:読者と特別な何かを共有すること――端麗という話題は、私にとって非常に特別なものだ。そうであるから、私はあの記事に多大な時間を費やした。読者によって読解や反応の微妙な差異がどれほど出てくるか、それを予期すると私は胸が躍った。読み物としての出来、またマジックの創造過程への関連性、この両方において『端麗』は今までの記事【第148回時点】の五指に入る、と私は見なしている。
第二:二種類の端麗の違いを実証すること――この構想と実践という対比は、具体例を見ない場合には理解するのが非常に難しくなる。この二種類を相違した極限に配置することを通じて、これらがいかに異なるかという明確な標本を読者諸賢に提示できたなら、私は幸いに思う。
第三:各読者に自分がどの種類の端麗を重視するのかを知らせる契機となる、そういった点で『端麗』は貴重な方策だと思われたこと――プレイヤーの陣営が異なるということについて話すのは、私にとっては容易だった。だが反応を強いるように仕向けることで、私はあなた方に自分自身について知っていただこうと思ったのだ。
そして、我が信頼置ける読者は今、【端麗に関しての自己省察という】私がかつてあった思考過程の途上にある。もし『端麗』を楽しめたのであれば、私は嬉しく思う。もしそうでなかったのであれば、しばらくの間はあの手のことはしないと約束しよう。いつものことながら、私はどのような意見が寄せられるのか、待ち遠しく思っている。『端麗』のような、娯楽以外の目的を持った記事を私は書くべきだろうか? マジックとの関連性は、常に何よりも前面に押し出されているべきだろうか? 56キロという遅いモデムの読者に対して、私はもっと配慮するべきだろうか? もし何か意見があれば、是非知らせていただきたい。あなた方の意見や感想が、この記事の未来を形作っていくのだから。
来週もまた参加していただきたい。遂にアンヒンジドのデザインについて、語るべき時が来たようだ。
その時まで君たちが、何かしら第二診断を受ける時間を設けているのを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
【翻訳】Elegance――『端麗』
2015年5月8日 MTG翻訳:色の哲学 この記事に対してマロー本人は『二百回記念 / Two Hundred Counting』の回で、「星5つか星1つ」という自己評価を下しています。「私が書いた記事で、この記事以上に読者の反応を二極分解させたものはない」ということです。マジックそのものに対する直接的な言及がなく、抽象的で理論的な文章になっていますので、MTGプレイヤーに限らず有用な記事だと思います。
2017年2月追記――段落分けや本文の一部に変更を加えました。各段落は元記事のハイパーリンク1つに相当します。また、段落の冒頭にある【】で括られた英単語は、元記事の中でハイパーリンクとして掲げられている単語です。本文でも語られていることですが、ほとんどの各段落がリンク元の単語と関連するようになっているゆえ。
2017年2月追記――段落分けや本文の一部に変更を加えました。各段落は元記事のハイパーリンク1つに相当します。また、段落の冒頭にある【】で括られた英単語は、元記事の中でハイパーリンクとして掲げられている単語です。本文でも語られていることですが、ほとんどの各段落がリンク元の単語と関連するようになっているゆえ。
≪端麗――僅かな紙面で多きを語る≫
原題:Elegance ―― Saying a lot with a little space.
Mark Rosewater
2004年10月18日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr146
端麗【Elegance】
この話題は、私がかねてより書いてみたいと思っていたものだ。皮肉なことに、この概念を説明するのに必要な言葉が、この記事を端麗から程遠いものにしてしまっている。そこで私は、どの芸術家も行なっていることを踏襲した。
つまり、僅かな紙面で多きを語る方法を探したのだ。
楽しんでいただきたい。
――マーク・ローズウォーター
【Elegance】
メリアム・ウェブスター携帯版辞書は、「elegence」に対して以下五つの定義を示している。
1:洗練された気品、あるいは、品位ある作法
2:設計や図案、装飾における嗜好の凝らされた豪華さ
3:高貴な、優美な、落ち着いた表現方法の美しさ
4:厳正に精確であること、均整の取れていること、単純であること
5:elegantであるもの
共通している要素は、上品、簡潔、審美にあると言える。【よって、「優雅」でなく「端麗」と訳出した。】
【This】
この端麗という概念には考察が欠かせないが、同様に感性もまた欠かせない。端麗な散文への評価は、その文が読者にどんな思いを抱かせたかに左右される。散文は平穏な情感を生じさせる必要があり、そうして初めて読者は穏やかな気持ちになれる。文章を構成する全てのものは、適切な効果を創出するために入念に配置されている、あたかもそうであるかのように機能しなければならない。
【is】
これとは別に対照的なことだが、執筆者の最も有用な道具は、動詞である。名詞は実体を与え、形容詞は装飾を携えるが、動詞こそが文章を押し進めるものだ。力強い動詞を選べば、そうして記述された動詞や文は才気や意図を帯びるようになる。弱々しい動詞を選ぶと、その文からは戯曲の風味が完全に抜け落ちてしまう。
【a】
ここでちょっとした遊びを紹介しよう。端麗に関連した技術を推し量るためのもので、昔ながらのほのめかし遊びを基にしたものだ。手順は、まず無作為に名詞を一つ選ぶ。そしてその名詞を他の参加者に伝えるのだが、その際できるだけ少ない字句数に留めるよう心掛ける。試していただければおそらく、いかにごく僅かな字句で意思疎通が可能であるか、驚かれることだろう。
【topic】
端麗にとって最大の悩みの種の一つ、それは取り上げる話題を単一の焦点として選ばざるを得ない、という不可避性だ。端麗は単純の十分条件だ。単純は、思考が単一の目標に向かうことの十分条件だ。すなわち、端麗は何か一つの単語が書かれるよりも先んじて【思考の中に一つの目標として】存在していなければならない。優秀な彫刻家は鏨【たがね:彫刻用の道具】を手に取る前に、頭の中で具体的な絵柄が出来上がっているに違いないのだ。
【I’ve】
端麗に対する世間の誤謬の中に、書き手が空想力豊かでなければならない、というものがある。だが端麗とは形式尊重の堅苦しさよりも、むしろ熟知に基づく親しみだと言える。俗語や短縮形といった、どちらかと言えば友人向けの言葉、そういった言葉は怠惰な要素よりも気楽な要素を付け加えると推測されるので、それを使うのを恐れるべきではない。
【wanted】
端麗の重要な要素は、情熱という感覚である。簡潔は言葉から感情ではなく攻撃性が追い出された状態だ。もし書き手が何かを書く際、より少ない語数にしようと自分で制限を課したなら、実際に書かれる個々の言葉に対しては、剰余の感情的な迫力が詰め込まれるべきだ。削られるべきは所記【伝えたい内容】ではなく、能記【伝える手立て】の方だ。
【to】
端麗を理解するのに適した方途は、詩を学ぶことだ。詩は、執筆形態の芸術の中で最も単純なものだ。感化を最大限にしようと努めつつ、表現を最小限にしようと努める。各々の語が趣を伝え、それらの要旨が連なって、詩の伝えんとする内容の本質が想起される。もしある単語が自身の重みを伝えられないならば、その単語は取り除かれて然るべきだ。
【write】
端麗な執筆者になるには、散文の学徒にならなければならない。言語の構造を学べば、文章がいかに形作られうるかを理解できる。頭の中の感情を有意義な言葉に翻訳する術、それを習熟して晴れて、端麗への道を歩み始めることになる。
【about】
また、両義性のある曖昧な表現に心を奪われないよう注意しなければならない。その美には人を陶酔させる魅力があるが、端麗にとっては敵対するものだ。肝に銘じていただきたい、執筆者の目標は、読者を理解のために苦心させることではない。そうではなく、彼らを確然的に明らかな結論へと導くことだ。端麗は光明を投ずるものであるべきで、混乱させるものではないはずだ。
【for】
端麗な散文は読者との結びつきが不可欠だ。つまり、執筆者は読者が何者かを理解していなければならない。この手順より先に来るものは何もない。執筆が始まる前に、彼らへの理解が深まっている必要がある。私はこれを旅行の計画と比べるのが好きだ。つまり目的地として熟知した町を選べば、地図は無用になるということだ。
【a】
端麗へのもう一つの鍵は、重箱の隅の重要性を認識することだ。鎖の全体としての強度はその結び目の中で最も弱い部分であるが、同様に散文の断章の引き締まり具合も、文章全体の中で最も乱雑な部分によって決まってくる。優秀な執筆者は名詞や動詞や形容詞だけを選んで満足したりしないのだ。
【long】
端麗と簡潔を混同してはならない。端麗な文章は短いが、それはそうなるべくしてなったのではない。端麗な散文を綴るのは困難であり、また時間の限界も相まって、執筆者は手短に書かざるをえないからだ。例えば端麗な小説は確かに存在するが、その数は少なく、それらは互いに時と場所とも隔たっている。
【time】
古代ローマの雄弁家であり文筆家であったマルクス・トゥッリウス・キケロは、次のような言葉を残している。「もし私にもっと時間があれば、もっと短い文章が書けただろうに」
単純化のために費やされる時間は、短いのではなく、長いのだ。万言を尽くして論旨を述べるのは誰にでもできる。だが十や五十の単語でそれができるのは、本物の芸術家だけだ。【訳注:原文では五十の単語それぞれにハイパーリンクが貼られている】
【Ironically】
皮肉は論評にとって大きな武器だ。皮肉という機才が存するのは次のような事実、すなわち物事の実際の有り様には触れず、むしろ実際とは異なるように言及する、こういった事実にある。出来の良い頓知のように、皮肉は笑いをもたらす。だが最良の類にある頓知のように、皮肉は考察をももたらす。したがって皮肉は、滑稽という意味でおもしろくもあり、同時に楽しいという意味でおもしろくもあるのだ。
【the】
執筆における端麗は、なかんずく言葉に結びついている。等しく重要なのは、どれほど言葉が互いに編みこまれているかだ。速度、間隔、律動、これらは言葉を文章の一部に据えさせるための仕掛けだ。自分の書いた文章を声に出して読んでみていただきたい。言語の自然な脈拍は、目ではなく耳に適しているのだ。
【words】
言葉の力を認識するためには、まず言葉の仕組みを理解しなければならない。芸術とは表現であり、言葉とは意味を内包する暗示的なものである。言い換えれば、他人の考えを抽出するという機能、これを使って言葉は自らの力を汲み上げているのだ。円は誰が見ても円だが、「怖い」の概念は人によってそれぞれ異なる。
【needed】
端麗は、何か特定の性質に還元できるものではない。それは数多の要因が調和して生み出された化合物だ。ここに、端麗は習得するのが困難な技巧だ、ということの事情がある。ほとんどの人は自分の頭をポンとなでたり、お腹をさすったりすることができる。だがこれらを同時するとなると、それほどまで容易なことではなくなってくるはずだ。
【to】
散文の端麗な箇所は、読者の腑の底に響くものでなければならない。ほとんどの場合読者は、自分がその箇所を気に入った実際の理由、その理由を知らないでいるだろう。しかし彼らは、その箇所を読んだ時に何かを感じ揺さぶられた、とは自覚するはずだ。鋭敏や巧妙が見出されない文章には数多くの種類がある。端麗な文章は、それらから一線を画されたものだ。
【explain】
自分の発想を説明するには、いくつもの手段がある。やはり最も端麗な説明は、定義ではなく例示を通じて行なわれるものだ。説明する側は、受け手が既に持っている知識に自分の発想を結びつけることで、受け手を過去に学ばさせるという作業から自由になれる。教育は困難だが、比較対照は容易だ。
【the】
執筆を家屋の建築に喩えるなら、文章構造は土台ということになるだろう。設計図を描くのは、実際に家をどう建てるのかを決めるためだ。もし土台に欠陥があれば、どんなに機転を利かして煉瓦を積んだところで、損害的な結果を取り繕うことは決してできない。そうであるから、文章構造が自分の望む散文に適っていること、これを確実にするために時間を割くべきだ。
【concept】
概念の力を過小評価すべきではない。端麗の肝腎な点は、壮大な考えを僅かな言葉に濃縮することにある。これは簡単な作業とは程遠いものだ。往々にして、天才がその一生の時間を捧げて初めて、真に革新的な概念が創り出されるのだ。そうであるからには、先人たちの苦心と霊感の成果に預かって、その恩恵を享受すべきだろう。
【kept】
端麗に至る道でよく見られる障害は、有用な手法は一つだけだと思い込んでしまうことだ。往々にして執筆者は、一旦書いてしまった愛しい散文の綴りを放棄することができない。客観的状況が彼の意向の正反対を示している時でさえ、だ。もし散文の一部分が自身よりも大きな感覚を付与しないなら、執筆者はそれを諦めることを覚えるべきだ。
【the】
読者は分刻みの単位では、知性の解釈の能力を遥かに超えて、物事に気付くことができる。つまり、読者は文章の細部に意識的に注目することはないかもしれないが、無意識の内にその細部へ気が向くことになるだろう、ということだ。美学が教えるところによると、この無意識の構造こそが「適切だ【right】」と感じるか否かを決定付けている。
【column】
意思疎通を図る者は、演説と印刷物のどちらを通じてであれ、声を見出す必要がある。声は親しみを付加し、聞き手や読者に情報をより早く取り入れる手立てを教えるものだ。端麗とは、発想の保存だ。自分を導くための声を前もって習熟しておくことは、非常に貴重な武器になる。
【from】
ここまで幾ばくかの紙面を費やして、読者を理解することに関して述べてきた。だがもう一人、理解するのがより肝腎な人物が存在する。執筆者、自分自身だ。執筆は、自分の発想を他者と共有することだ。もし自分の考えを理解するための時間を持たなければ、どうやってそれを伝達することが可能だろうか?
【being】
「一枚の絵は千の言葉に相当する」といった言い習わしがある。この決まり文句が失念しているのは、単一の単語がどれほどの数の単語に相当するのか、という視座だ。例えば「存在【being】」という単語を取ってみよう。この「存在」が表象するものの本質を把握するためには、数万あるいはそれ以上の単語が必要だろう。
【elegant】
端麗であることの意義は何か? なぜこのことを気にかけるべきなのだろうか? 端麗は耽美を付加し、詩を喚起し、美を実現させる。端麗な散文は読者をより近くに引き込むが、それは文章が学ぶべきものだけでなく、感心に値するものをも提供するからだ。優良な散文は頭を活気付けるが、端麗な散文は心に響き渡る。
【So】
誰が、何を、何処で、何時、如何に――どれも重要な問いかけだ。だが執筆者にとってこれらは、何故に比べれば見劣りするものだ。もし自分が表面下の論理を理解できていなければ、他の細部は見当違いのものになるだろう。端麗の実践は、理由を強固に結びつけることだ。つまり意図を定め、文章の中に浸透させることだ。
【I】
端麗は非常に個人的なものだ。もしある物事が自分に共鳴していなければ、その物事を読者に共鳴させる手立ては全く存在しないのだ。執筆とは芸術であり、科学ではない。これこれのようでなければいけない、という規則書は存在しない。もし直観的に、文章で何かおかしなものがあると感じたなら、その直観の声に耳を傾けるべきだ。
【did】
道具箱の中の重要なもの、それは時間だ。端麗は大急ぎで達成できるものではない。知的な反復作業がより深まるのは、より徹底的にその作業に集中する場合に限られる。予定表の中に作業時間を確保して組み込めば、その時間外には執筆作業から逃れることができる。来週の一時間は、今日という一日に相当するものだ【――疲れ切った頭でその日の残りを無為に費やすよりも、日を改めて新鮮な頭で集中する方が有効だ】。
【what】
細部に注意を払うがために、文章全体が持つ大意を見失ってはいけない。この記事を例に取ってみよう。私は各々のハイパーリンクとなる見出し語やリンク先の文章に対して、多大な時間をかけて微調整を行なった。その際にも、それらの見出し語や文章を一同に並べた時に生じるであろう効果、つまり記事全体としての文意を念頭に置き続けていた。
【all】
端麗は、執筆の総体的な観点に着くことを要求する。全ての単語、全ての文章、全ての段落が、巨大な絵合わせの断片だと言える。どれか単一の要素がもたらす影響を理解しただけでは不十分だ。自分の書いた物の説得力を理解しようと思えば、全ての要素の相互作用をも、それもどの組み合わせについても、理解していなければならない。
【artists】
端麗と芸術は密接に絡み合っている。両方とも似たような目的に到達するのを目指している。すなわち、表現の対話を通じて、光明を投じ人々を鼓舞する、という目的だ。もし端麗であろうと努力するなら、私が思うにそれは、芸術家として自分を考えるのに役立つはずだ。芸術家としての直観は、端麗の必要事項を鏡のように写し出している。
【do】
いかなる執筆でも重要な作業は、自分が喚起させようとしている感性を理解すること、次に、その感性を喚起させるためにはどの機能的な技法を使えば良いか、これを認識すること、以上の作業だ。用語の選択、動詞の時制、文章の長さ、頭韻、言葉の流れ、音韻――これらはどれも、文の雰囲気や調子を制御しうる技法だ。
【I】
執筆者の人生こそ、究極の素材だ。自分自身の経験を測量することに恥じ入る必要はない。他の誰でもなく自分こそが、それらをより深く、より個人的に理解している。どの絵師も、自分の最高の塗料を使うことを拒絶したりしないだろう。また付随的な効用としてだが、自分の経験を使うことで、自分自身への理解がより深まることもありうる。
【found】
肝に銘じておくべきは、公開という行為は探究という行為でもある、ということだ。自分が果たして、想定する読者よりも多くを学んできたかどうか、といった恐れを抱く必要はない。執筆は厳正厳格な科学ではないし、厳正厳格な芸術でもない。往々にして、救済に至るまでの道のりは枝分かれしているのだ、と気付いていただけることだろう。
【a】
自分の未来には、自分の過去が敷かれている。執筆者になる手立てを学びたいなら、自分がこれまで書いてきた物を振り返る必要がある。時間をかけ、また私心無き視点を用いれば、自分の過去の失敗が明瞭になってくるはずだ。忘れてはならない、成功ではなく失敗こそが、学習へ突き動かされる最高の契機だということを。
【way】
単一の解決策を探すことの問題点は、二つ目以降を探そうとしなくなることだ。そして最初の案が必ずしも最良の案だとも限らない。だがもし、どんな問題にも無数の回答がありうる、という考えを受け容れれば、自分の望む解決策を選び抜く余地を確保できるだろう。
【to】
文章は居候で溢れかえっている。執筆者は過剰な書き込みを好む傾向にあるようだ。私もその類の者に含まれると自覚している。確実に行なっていただきたいのは、不要な言葉を刈り込むという編集者側の作業をこなす、そのための時間を設けることだ。もしある言葉が、文章に何の損害も残さずに取り除かれうるならば、それがそこに留まる権利は無いと言えるのだ。
【say】
私はここまで、散文における端麗について述べてきたが、この大部分は演説についても適用できる。鍵となる差異は、散文においては見た目や語調といった特性の果たす役割が演説におけるよりも小さいことだ。端麗な演説の鍵は、他の何でもなく言葉に、人々の関心を引き付けさせることだ。
【a】
皮肉なことだが、単純を極めようと設計されたものが複雑怪奇に仕上がりうる。だがそれは――あぁ、我が信愛なる読者諸賢よ――端麗の楽しみであり、謎であるのだ。ちょうど玉葱のように、端麗は無数の層から成っていて、慎重に剥がすことで初めてその姿を現すものだ。あぁ、そしてそれは、時として涙の出るような作業たりうる。
【lot】
おもしろい演習を紹介しよう――自分の使っている各単語を一瞥し、それらの中にどれほどの意味が込められているかを考える。そして、同様の役割を果たしつつ追加の意味をも含んでいる、そのような別の言葉が存在するかどうかを探してみる。もし置換に値する言葉が見つからなければ、次の単語へと作業を移す――こういう演習だ。
【in】
端麗の理解を深めるための良い方法は、日々の生活においてそれを見出そうとすることだ。私の予想ではあるが、意外な所で、またいかに頻繁にそれが見出されるか、諸君に喜びと驚きの念を生じさせることだろう。各々の事例を入念に考察し、それを端麗たらしめているものを指摘できるかどうか、試みていただきたい。
【a】
執筆とは、共有された心掛けだ。誰であろうとも、言葉を占有できない。もしある者が有効な技巧を駆使したなら、恥じることなくそれを借用すれば良い。科学と同様、執筆も技術を創り出す。技術は集団に立ち返り、更なる進展に拍車を駆ける。道具箱を駆使するのを拒絶しなかったとしても、端麗は実現するのが非常に困難なものだ。
【little】
端麗であるためには、文章のそれぞれの長さはどの程度であるべきか。その答えは、必要な分だけの長さであり、それより一単語も多くてはいけない。ジェンガを思い浮かべていただきたい。散文が崩壊する直前まで、言葉を慎重に引き抜いていくべきだ。
【space】
芸術における最重要項目のひとつは、控えめで消極的な【negative】空間の価値を学ぶことだ。つまり、何も無い場所にも視線は等しく注がれる、という考え方だ。散文にも非常に類似した性質がある。執筆の際には、自分が述べていないことに対して深長な配慮を払うべきだ。それは往々にして、大声で喋りたてているからだ。
【Enjoy】
どういったわけか、気品と真面目は同等視される傾向にある。そしてそこから、端麗には頓知を利かす余地が無い、という誤った結論が導かれる。頓知としての皮肉は、最も端麗な様式の一つだ。良質な冗談とは、その役割が全体にとって必要不可欠である限りにおいて、良質たりうるのだ。
【Mark】
【記事の結論部という】踏み鳴らされた道を進む時にはいつもそうだが、どんな反応が寄せられるか、非常に興味深く思っている。この記事について何を思ったのか? おもしろかっただろうか? 教育的だっただろうか? 五十余りの段落を本当に全て読んだのだろうか? もし読まなかったなら、その理由は?
是非、教えていただきたい。探究心が疼いてならない。
【Rosewater】
恒例の結びの言葉を無くしては、今週の記事を終えることはできない。そんなことをすればどれほど無粋【inelegant】だろうか。
来週もまた参加していただきたい。私は一介の文学青年【a letter man】から学校代表の運動選手【a Letterman】へと変貌を遂げているはずだ。
その時まで、「何を」だけでなく「どのように」「何故」についても価値を認めていることを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
【翻訳】The Troubled One――『気病める青』
2015年4月15日 MTG翻訳:色の哲学 前回投稿から間隔が空きましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
今回訳出したのは、二ページに分かれた原文の、そのまさに二ページ目に当たります。一ページ目と二ページ目で本文内容は大差なく、後者では一部の単語にハイライトされている程度なので、片方だけの訳出でも問題なかろうと思います。このハイライトは、太字として訳出してあります。
また、欄外の記述が多いのも二ページ目の方です。この記述は原文では円グラフや表になっていたりするのですが、文章でも差支えないと勝手に判断し、本文訳の後に配置しました。つまり厳密な意味では今回の訳文は、原文の二ページ目と形式と配置が変わっていることになります。
今回訳出したのは、二ページに分かれた原文の、そのまさに二ページ目に当たります。一ページ目と二ページ目で本文内容は大差なく、後者では一部の単語にハイライトされている程度なので、片方だけの訳出でも問題なかろうと思います。このハイライトは、太字として訳出してあります。
また、欄外の記述が多いのも二ページ目の方です。この記述は原文では円グラフや表になっていたりするのですが、文章でも差支えないと勝手に判断し、本文訳の後に配置しました。つまり厳密な意味では今回の訳文は、原文の二ページ目と形式と配置が変わっていることになります。
≪気病める青――問題児への接し方≫
原題:The Troubled One ―― Dealing with the problem child.
Mark Rosewater
2005年3月21日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr168私書箱707、レントン、ワシントン98057
ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社
研究デザイン部御中
2002年5月25日
拝啓、ローズウォーター様。【Dear Mr. Rosewater,】
非常に重々しい気持ちと、確かな良心を以ってして、貴方にこの手紙を送る次第であります。約12年前に私が子どもを授かった時には、彼らにどんな運命が降りかかるのか、それを想像し心配することなど思いもよりませんでした。貴方一人だけに彼らの幸福に対する責任があるわけではありません、そのことはよく分かっていますが、誰かが起きてしまったことへの責任を取るよう、特に気病める彼に対しては、歩み寄る必要があると思うのです。
親として私は、もう貴方の振る舞いに我慢することはできません。私が切に願うのは、この手紙が貴方にとって、ご自身の間違ったやり方を直視し、そして事が手遅れになる前に問題を改善するよう適切な対処をする、そうしたきっかけになることです。そのためには、どこから始めれば良いでしょうか。思うに、手始めに責任についていささかお話しするのが良さそうです。何にも増して子どもが必要とするのは、愛情、気配り、保護、そして手引きでしょう。一つ目の存在については私も異存ありませんが、残りの特質はすっかり欠け落ちているように思われます。
気病める彼の問題、そして同時に要件に関して、取り掛かっていきましょう。
●問題1:貴方があまりにも強い力を与えてしまったこと
子どもの天性は限界を試すことです。彼らは試みと失敗から学びます。自分たちが遠ざけておくのを許可されたものを以ってして、何が容認されているのかを見定めるのです。彼らは精神に願望を宿した存在でありますから、取れるだけの力を掴み取ることはまさに彼らの特権ということになります。そしてこのことこそ、親としては介入したいと思うところです。つまり貴方は、彼らがしても構わない物事とその手段、これらを制限する必要がある、私はこう言いたいのです。さもなければ、時間は歪曲するように流れ、子どもは支配下できりきり舞いになってしまうでしょう。
以上のことは現実に起きていることです。気病める彼はあまりに多くの力を溜め込んだので、鼻持ちならないような状態にあります。貴方が彼に最初にすべきことは、貴方自身や兄弟姉妹の全員の今までに関して、時間をかけて遡行させてあげること、これだと思います。別の言い方をしますと、例の問題児が力の配分において過剰の取り分を持っている、それが誰の目にも明らかな状態で、いかにして彼の兄弟姉妹は精神力でそういった状況を乗り越えようという気になるか【、これを一緒に考えていくべきです】。
貴方は気違い沙汰に終止符を打たなければいけません。気病める彼に、物事には限度があることを知らせてあげて下さい。そして彼らを正し、最後まで付き添い、守ってあげて下さい。どうか彼の兄弟姉妹を、彼らが皆、気病める彼と対等の地位に立つ日がともすればいつか来るかもしれない、という夢で包み込んであげて下さい。
●問題2:貴方が境界線を設けなかったこと
力の制限と同様に、容認される振る舞いについても親は境界線を設けなければいけません。子どもにとって行なうに相応しい物事もあれば、そうでない物事もあります。もし子どもが何でも自分の望み通りに振る舞えるような放任状態に置かれたりすれば、その子の親は非常に不安定で突然変異的な環境を作り出すことになり、種々様々の問題を引き起こすことになるでしょう。
私は何も、貴方に対して心理的な打撃を次から次へと浴びせたいのではありません。ですが、どうか聞いていただきたい。気病める彼はまるで、他の兄弟姉妹と同じ規則に従属していないかのように思われます。つまり兄弟姉妹が規則を破ったときは、貴方は特殊部隊のように厳重に処罰するのに、気病める彼が規則を破ったときは、貴方はまるで記憶喪失に罹ったかのような有り様です。貴方は首尾一貫した言行を取るべきです。これに応じないのは恥知らずな意思表現に他なりません。
どうか気病める彼を厳しく叱ってあげて下さい。ご自身が設けた規則を、彼に適用して下さい。生命を一歩ずつ全うすることは積み重ねられた先人の知恵に従うことだと、彼に説き聞かせてあげて下さい。これは穢れ役では決してありません。貴方は彼に貴重な道具を提供するのであって、喩えるならば、後々の大人世界で酸性雨から身を守るのに役立つ雨傘、これを与えてあげるようなものです。
●問題3:貴方がご自身の贔屓のものを使っていらっしゃること
子どもは大変注意深いものです。彼らは貴方がすることに注目しています。貴方ご自身がもうお忘れになったことであっても、彼らは貴方がなさったことを子々孫々に至るまで覚えているものです。彼らはあらゆる物事に絶えず注視し、意見を交換し合います。そうであるからには重要なのは、貴方がご自身の子どもをみな平等に扱うことです。彼らは意見を交換するほどの力強い意思を持っているのであって、それは必ず彼らに影響を与えるはずだからです。貴方は標準を設けて、彼らが自分自身をどのように考えるかを律しています。もし貴方が絶えず誰か一人を他の子から離れた場所に置き続ければ、貴方の意図がどうであれ、その子が他の子よりも優れていると彼らに間接的に言っているようなものです。
気病める彼に関して言いますと、私がこれほど露骨な依怙贔屓を目にしたのは学園にいた時以来のことになります。再三再四、貴方は気病める彼にだけ良い目に逢わせてあげようとしますが、それは往々にして歪んだ振る舞いでなされるので、兄弟姉妹に対する図々しい侮辱として受け取られています。これが深い確執を作るということには、貴方に緻密な配慮があれば了承していただけることと思います。関係者全員が貴方のこの偏見の存在を認めることでしょう。
私に言えることは、もうそんなことは終わりにしていただきたい、これだけです。彼がなぜあのような振る舞いをするのか、貴方は不思議に思っていらっしゃるんでしょう。原因は貴方にあって、貴方が許可しているからです。どうか終わりにして下さい。この点は完璧に貴方の責任です。
●問題4:貴方が気病める彼を駄目にしていること
寛容であることは価値ある特徴です。しかし空気や水がそうであるように、何事につけても過ぎたるは猶及ばざるが如しです。親としての貴方の芸術的な直観は子どもを養うためのものかもしれません。ですが彼らに多きを与え過ぎると、却って問題を引き起こし、貴方が意図している良き部分さえもすっかり打ち消してしまうことでしょう。
貴方は気病める彼を過剰な支配の下に置いてきました。このために兄弟姉妹の役割は育まれないままにあります。当然ながら彼らに対立は付き物ですが、言ってしまえば、貴方はクリスマスの贈り物の大半を一人の子にあげてきたようなものです。これは憤りの種となっていますし、現実味のない説明の寄り代になってもいます。力の問題とは必ずしも質的なものに限らないもので、時として単なる量的なものたりうるのです。
この状況をどのように変異させれば実利的になるか、正直に申し上げますと私には確信するところはありません。ですが思うに、唯一の回答は、振り出しに戻って最初からやり直すことではないでしょうか。どうか気病める彼を公平に扱い、終わりにしてあげて下さい。どうか過去に過ちがあったことを認め、それを正して下さい。それには、彼に事情は変わりつつあると知らせることが必要だと思います。
●問題5:貴方が規則に従っていないこと
力を制限することは重要です。境界線を設けることも重要です。公平な扱いも重要です。役割の適切な配分も重要です。しかしこのどれについても、貴方が約束を守らなければ何の効果もありません。貴方は一週間で全てを修繕することも、将来に先送りすることもできません。さもなければ【つまり貴方が規則や約束事を守らなければ】、貴方はご自身が思うところとは正反対の教訓を身をもって示すことになるでしょう。そして時間は螺旋状に円環を成して流れ、今のこの事態は貴方の手に負えないまま続いていくでしょう。教訓や規律は、言行一致でなければいけません。矛盾なく遂行される必要があるのです。
おそらくこれが貴方にとって、気病める彼の持つ最大の問題ではないでしょうか。貴方は確かに変化を作り出すとおっしゃったし、実際にそうなさった。ですが時間の流れは往々にして物事の歪みを引き起こすもので、事実貴方は物事が昔ながらのあり方に戻っていくのを追認し続けました。貴方はご自分のこの所業を無視したいところでしょうが、貴方は何が本当のことで何が間違っていることかに正面から向き合い、そして【ご自分の罪を】潔く白状するべきです。
一日で気病める彼を一変させることはできません。協調された努力が長い時間にかけて行なわれて初めて、誠実な変化は成し遂げられるものです。もし小手先の対応で済ますようなら、それは【湯船から】溢れ出て【排水溝に】吸い出されていくだけの水のように、無駄にしかならないでしょう。
私がこの手紙を書いたのは、建設的な意図があったからです。つまりそれは、貴方が気病める彼の問題をきっぱりと解決する様子を実際に目にしたい、というものでした。確かにこれは容易ならざることですし、却って内外に争いを引き起こす可能性もあります。ですが、やはりこれは解決すべき物事だと私は考えます。
全てが終われば私も、息子の「青色」【The Color Blue】のことを、気病める彼だなんて遠まわしに呼ばずに済むのですから。
――カラー・パイ、敬具。【Sincerely, The Color Pie】
●本題:研究デザイン部が青叩きをする理由
何たる強靭な愛情だろう!
研究デザイン部が最近数年間で試みてきたことはすべて、青を他の色と同じ水準に持っていくことだ。青を叩く、ないし苛める【Hosing Blue】というのは、我々の本来の意図ではない。しかしかつての青の立場から今後の青が向かうべき立場を見た場合、確かにカードパワーの点で凋落すると考えられるだろう。研究デザイン部がゲームの他の四色に十分な権能を与えていく、そういった過程を丸ごと想像するのが私は好きだ。よくできる子の「兄弟姉妹」が、彼の作る日陰で生きずに済む方法だ。だがこのことは単に、観点の相違という問題にしか過ぎない。
では、青のファンに対して、我々が青を叩く理由を説明しよう。それは、青は叩かれ、対策される必要があるからだ。もし心の底からこの理由に納得できない者がいるとすれば、そういった者はかつての青のパワー水準が他の色に対してどのような関係にあったのかを理解していないか、子どもを駄目にするようなゲームで喜んでいるだけ、つまり均衡が取れたカラーホイールの重要性を認めていないか、このどちらかであろう。
他の色のファンに対しては、以上の理由で納得していただけたと思う。
これにて、『アーティファクトだけを話して下さい、奥さん』で募集したリストAの話題は終了だ。来週もまた参加していただきたい。君たちが時として許可を貰わなければならないようなカード、それがいかにデザインされるのかを話す予定だ。
その時まで君たちが、マジックの小童と何かしらの楽しみが持てることを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター●注釈
【この項目自体は訳注ですが、項目の内容は原文で欄外に言及されています】
本文中で暗示されたカードは、以下の通り。精神の願望。時間の歪曲。時間遡行。精神力。ドリームホール。不安定性突然変異。心霊破。記憶喪失。生命のタップ。酸性雨。祖先の回想。意思の力。トレイリアのアカデミー。緻密な分析。不可思議。直観。対抗呪文。支配魔法。対立。変異種。修繕。時のらせん。時間のねじれ。嘘か真か。マナ吸収。
問題1「あまりにも大きな力を与えすぎたこと」。当時のヴィンテージの制限カードは、白2枚、青13枚、黒8枚、赤2枚、緑4枚だった。
問題2「境界線を与えなかったこと」。当時のヴィンテージ環境で使用可能なカードで、赤単色のカウンター呪文は5枚なのに対し、青単色の直接ダメージ呪文は28枚で、青の方に対して甘く見ている。
5枚の内訳。秘宝破。燃え尽き。紅蓮破。溶岩操作。赤霊破。
28枚の内訳。バキーの呪い。エネルギーの渦。遍歴の下僕。フィードバック。水門。錬金術の研究。大口獣。精神爆弾。海賊船。魔力漏出。放蕩魔術師。心霊破。超心霊体。霊力。精神アレルギー。精神放逐。地の毒。束縛された秘宝。碩学魔術師レヴェカ。反響。ルートウォーターのハンター。有刺障壁。有刺リシド。酸欠。スークアタの火歩き。ソーンウィンド・フェアリー。噴火。ズアーの投呪師。
問題3「贔屓のものを使っていること」。原文発表当時の数年間のセットにおいて、各セットのテーマ、そのテーマに触れる色が挙げられている。構築レベルかどうかはさておきデザインに限ると、青は優遇されていることになる。
インベイジョンブロックは多色に焦点を当てたが、パーマネントの色や土地タイプを操れるのは≪夢ツグミ≫≪無明の予見者≫≪変容する大空≫などを擁する青。
オデッセイブロックは墓地のカードに焦点を当てたが、共鳴者こそ各色にあるものの、墓地肥やしが得意なのは≪嘘か真か≫≪打開≫≪セファリッドの円形競技場≫などドローやルーターを擁する青。
オンスロートブロックはクリーチャータイプに焦点を当てたが、それに触れるのは≪標準化≫や霧衣クリーチャーなどを擁する青。
ミラディンブロックはアーティファクトを焦点に当て、どの色もアーティファクトとシナジーを持つカードを擁するが、青一色だけが格別良い能力である親和を持っている。
問題4「青を駄目にしていること」。原文発表当時の分析によれば、初期のカラーパイの配分は白10%、青40%、黒30%、赤5%、緑15%。パイの均等化のためには青から赤へと役割が移されなければならず、それは青の相対的地位の凋落と不可分だった。
問題5「規則に従わないこと」。当時のヴィンテージ環境で、3枚以上のドローが可能な青の制限カードは以下の通り。祖先の回想。嘘か真か。時のらせん。時間の歪曲。意外な授かり物。3枚以下のそれは以下の通り。大あわての捜索。噴出。時間遡行。また、コンボに組み込むことで無視できない量のドローをもたらす青の制限カードとして、以下の3枚が挙げられている。ドリームホール。精神力。精神の願望。
これらの初出は、アルファ版、テンペスト・ウルザ期、マスクス・インベイジョン期、デザイアはスカージといった具合に、長きに渡って散らばっている。「規則とは継続性のあるものでなければならない」とカラーパイが糾弾したのも妥当だろう。
今回訳出した記事にはre-giantさんによる比較的新しい翻訳が既にあります。(http://regiant.diarynote.jp/201405051312055720/)
私が原文を読む際には非常に参考になり、理解の助けになりました。今回は「色の哲学やカラーパイの記事のひとつ」として訳出し直しました。変更した箇所の中には、文章全体の理解には支障の無い程度の、用語選択のものも含まれます。また私の読みがより正確という保証もありません。是非併せて読むことでマローの言わんとするところを汲み取っていただければ幸いです。
私が原文を読む際には非常に参考になり、理解の助けになりました。今回は「色の哲学やカラーパイの記事のひとつ」として訳出し直しました。変更した箇所の中には、文章全体の理解には支障の無い程度の、用語選択のものも含まれます。また私の読みがより正確という保証もありません。是非併せて読むことでマローの言わんとするところを汲み取っていただければ幸いです。
≪アーティファクトだけを話してください、奥さん――アーティファクトの週間へようこそ!≫
原題:Just the Artifacts, Ma’ am ―― Welcome to Artifact Week!
Mark Rosewater
2005年2月28日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr165
【ドラマ『ドラグネット』シリーズのフライデー警部の台詞に「事実だけを話してください、奥さん / Just the facts ma’am」というものがある】
アーティファクトの週間へようこそ! 今週はmagicthegathering.comのコンテンツ管理人であるスコット・ジョーンズによって、この二年間に渡って連載された大きな色の週間の締め括りとして思い描かれたものだ。それぞれの色の週間で私は、『緑でいるのは楽じゃない』『白光満ちる大通り』『忠実なる青』『腹黒さの中に』『赤裸々な激情』といったように、色の哲学に関する記事を執筆してきた。したがって私がアーティファクトの哲学についての記事を書くことは、ただただ順当なことのように思われる。だが些細な問題が一つだけある。それは、アーティファクトは哲学を持っていない、というものだ。
●無に釣り合う何か
帝国は栄えては衰えるものだが、古代ローマ帝国は特に印象深いものだ。彼らが有していたのは車道、水路、建築様式、気の利いた暦、美味いサラダ、活き活きした娯楽、水道管――もっとも、彼らは鉛を使っていたので、水道管には改良の余地があるのだが――このように彼らは種々様々の近代的な利器を持っていた。そんなローマ帝国が持っていなかったものをご存知だろうか。ゼロの概念だ。既に気付いていた方がいるかもしれないが、ローマ数字には無を表現する術が用意されていない。それというのも彼らには発見できなかったからだ。なぜ私が古代史へと話の筋を逸らしているのかと言うと、二つの理由がある。第一は、私は執着心と強迫観念に囚われた執筆様式を取っていて、そのため行き当たりばったりで断片的な雑学へ向かって本題から外れるよう強いられているからだ。だがより肝腎なのは第二の方で、この言及によって無の価値を把握することがいかに困難であるか、それが要点として強調されるからだ。
だがリチャード・ガーフィールドは数学教授だったため、ゼロの概念に非常に精通していた。ついでながら私も同様に知っていた、それは教育アニメ『スクールハウス・ロック / Schoolhouse Rock!』の「My Hero Zero」の回のおかげではあるが。閑話休題、このためリチャードは最初にカラーパイを作った際、そのパイの中に当て嵌まらない何物かを作ることの意義を理解していた。その何物かは、カラーパイの反定立になるもので、いかなる色も宛がわれない仕掛けだ。留意すべきは、この最初の段階ではそれはアーティファクトではなかった、ということだ。それは無色マナだった。
なぜ無であることがそれほど重要だったのかと言うと、リチャードはコストの構成要素を全て色に連携させなければならないとは思っていなかったからだ。もし5マナの赤の呪文を唱えるためには5点の赤マナが必要だとされれば、プレイヤーは単色デッキを使うのを強いられることになるだろう。こういったわけで、リチャードは以下のことを明確に認識していた。つまり、プレイヤーを色の制約をかけさせないためのコストが部分として必要である、と。そこから不特定マナコストへと至るのは一足飛びだった。コストの一部を無色にできると言うのなら、全部をそうしたようなカードがあっても良いだろう。
だがこれらの無色の呪文は何を為すものだろうか。幸いにもかなり初期の段階から、リチャードは魔法の品目を含ませたいと思っていた。何と言っても『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ』やファンタジーの卓上演技遊戯【ロール・プレイング・ゲーム】で遊んだことのある者なら、魔法の品目の価値を知っているものだ。どの魔法使いも魔力を帯びた杖や兜や先住民の笛を買いに行くことができる。このことに色が重要であるようには考えられず、無色の呪文としては完璧に誂え向きだった。
それゆえ、アーティファクトは色ではなく、色の不在である。アーティファクトは特定の哲学を表象するのではなく、哲学の欠如を表象している。アーティファクトに専門特化した魔法使いは、処世の秘訣を見つけ出そうとしているのではなく、むしろ何に対しても執着しないようにしているのだ。
●まさに好みのタイプ
とはいえ、アーティファクトが哲学を持っていないからと言って、それがフレーバーをも持っていないということにはならない。その種と仕掛けは、カードのどこを見るかを知る必要がある、というものだ。アーティファクトはマナコストではなくカードタイプによって分類されなければならない。つまり、白、青、黒、赤、緑、そしてアーティファクト、ではない。クリーチャー、エンチャント、インスタント、土地、ソーサリー、そしてアーティファクト、だ。ちなみにかつてのインタラプトは系図から消し去られた【また、部族やプレインズウォーカーは当時まだ出ていない】。そしてこれらカードタイプのそれぞれは多分にフレーバーを有しているのだ。
アーティファクト――アーティファクトから始めよう。それには二つの理由がある。第一は、このコラムそして今週全体の主題だからだ。第二は、アルファベット順だと最初に位置するカードタイプだからだ。なんとまあご都合なことで。さて、アーティファクトは物体だ。物理的で、実体的で、手に持つことのできる物体だ。失礼、言い直そう。物理的で、実体的で、手に持つことのできる魔法の物体だ。この「魔法の」という一言は実は非常に重要だ。アーティファクトは単なる品目ではなく、魔法の特性を染められた品目なのだ。
神河救済には、椅子を表象するアーティファクトは収録されない予定だ。玉座のそれなら、骨か何かで作られたものなら、ありうるかもしれないが。あぁ、明日には噂が飛び交っているのが目に浮かぶ――≪骨の玉座 / Throne of Bone≫【ラッキーチャームという、非常に些細なライフ回復用アーティファクトのサイクルの一つ】の再録をマローが言っているらしい、という噂だ。この再録のくだりが冗談ではないとは、誰にも言えないことではある。閑話休題、アーティファクトは格別に希少な魔法の品目だ。このため、例えば、コモンのアーティファクトは滅多に見られないものだ。金属で作られた世界は例外であるが、アーティファクトは定義からしてコモン【ありふれたもの】ではない。そこで、私はここ「メイキング・マジック」の記事で難しい質問に回答しているのだが、アーティファクトでないものは何かという疑問が生じてこよう。それ以外のもの全てだ。何をもってしてそれ以外のもの全てと見なすのか。その答えは他の五つのカードタイプが伝えるものだ。
クリーチャー――クリーチャーは生きた、呼吸をする、感覚を持った有機体だ。もっとも、これは厳密には正しくない。ゾンビは実際に生きてはいないし、精霊が本当に呼吸をしているかどうか分からないし、突き詰めて考えると植物はそれほどまで感覚を持っているわけではない。とはいえ、彼らは有機体ではある。生きているもの、少なくともかつて生きていたもの、あるいはあたかも生きているかのように行動するものだ。クリーチャーでないものは、上記の生きた、呼吸をする、感覚を持つ、思考するといった要素をどれも持たない、そのような物理的物体であると言えよう。以上を根拠として、我々は意図的に無生物の物体をクリーチャーから除外してきた。例えば≪石の壁 / Wall of Stone≫【3マナ0/8の赤の壁】は創造的に話すようなクリーチャーではなく、煉瓦と漆喰の塊だ。煉瓦と漆喰が恐怖に駆られて急死するのを見たことがあるだろうか。これは、マジックのカードに石で出来た壁を設ける余地がない、と言っているのではない。それはクリーチャーであるべきではない、というだけだ。
エンチャント――ここから話がいささか曖昧になっていく。エンチャントとは、長続きする魔法の効果だ。それらは実体を持ちうるが、そうである場合もやはり魔法の力で作られた物という構想の下にある。例えばザ・ダークの、哀れな工匠長バールが閉じ込められた実体を持つ檻≪バールの檻 / Barl’s Cage≫【4マナのアーティファクト。3マナごとにクリーチャーのアンタップを阻害する】は、当然何らかの魔法の特性を宛がわれているだろうが、アーティファクトであるべきだろう。一方で神河物語の≪手の檻 / Cage of Hands≫【白のオーラ。クリーチャーに戦闘への参加を禁じる】は比喩としての檻であり、手の姿形を取って哀れな対象を絡め取る魔法の力だ。
エンチャントが物理的な特性を伴って現れうるからと言って、それらが常にそうあるべきだということにはならない。多くのエンチャントは魔法そのものよりもむしろ魔法の結果を表している。継続性の要素が重要なのも、エンチャントをインスタントやソーサリーと差別化させるためだ。
インスタントとソーサリー――手始めにカードの構想という観点から見ると、インスタントの絵とソーサリーの絵との間に違いはない。両方とも魔法の呪文が解決した結果を表現しているが、そもそも単一の静止した画像では、インスタントとソーサリーの時間上の契機の差異を伝達できない。インスタントとソーサリーとエンチャント、これらの描画方法で最も異なる点は、インスタントとソーサリーは詠唱中の様子を描かれることが多く、一方でエンチャントは効力を発揮した後の状況を描かれることが多い、というものだ。
土地――土地は、場所だ。物理的な場所だ。土地は何であるかよりも何処であるかを喚起させるべきだ。つまり土地は、建物や石の壁といった人工の建造物を表現する、そのようなカードタイプとしての役割を担うことになったのだ。土地とアーティファクトそれぞれに見られる人工の品目で最大の相違点は、以下のようなものになる。つまり、アーティファクトは本質が魔法であり、概して持ち運びが可能であるが、一方で土地に描かれる建物はそれ自体として魔法である必要はない、土地カードの着想はマナの豊富な場所に基づいているからだ。
●マークによる注釈
何百通ものお便りが来る前に強調させていただきたいのだが、私が説明しているのは現在我々がカードタイプをいかに定義しているかについてだ。この定義は常にそうだったわけではない。確かに過去には、≪城壁 / Castle≫【白のエンチャント。アンタップ状態のクリーチャーに+0/+2の修正。7EDまで収録】という名前のエンチャントや≪水銀の短剣 / Quicksilver Dagger≫【青赤のオーラ。タップで1点ダメージと1ドローを同時に引き起こせる。APC収録】という名前のエンチャントがある。土地の構想を伴ったアーティファクトがあれば【モックスなどの0マナのマナ・アーティファクト】、アーティファクトの構想を伴った土地もある【黎明期に多く存在した、マナを生み出す能力を持たない特殊地形】。また、当然ながら≪石の壁≫もある。我々は時にはこれらの指針を破るかもしれないが、もしそうするとすれば、我々に規則を破る目的があるからであって、我々が規則を理解していないからではないはずだ。
●命のアーティファクト
だがアーティファクトには、カードに印刷された構想以上のものが含まれている。事実、私がテイラー・ビールマン、マイク・エリオット、ブライアン・タインズマンらと共にミラディンのデザイン・チームを立ち上げた際、チームに私が提起した最初の質問は、アーティファクトの特性とは何か、というものだった。以下にチームが結論付けた答えを挙げていこう。
特性1:アーティファクトは不特定マナコストを持つ
何事につけても確然的に自明なことから始めるのが良い、というのもそれらがどれほど時に非自明たりうるか興味深いだからだ。アーティファクトが必ず不特定マナコストを持っているからと言って、規則がそうするように定めているわけではいない。例えば、我々は赤マナをコストにするようなアーティファクトを作ることが可能だ【有色アーティファクトは後のアラーラの断片ブロックで登場する】。このアーティファクトは、カードの色はマナコストの色マナによっても定義されるので、赤いカードということになるのだが、同時にアーティファクトでもあることは疎外されていない。ミラディン開発陣はアーティファクトの不特定マナコストを、他と差別化するのに必要な要素として強く感じていた。その理由のひとつはフレーバーにあるが、より肝腎なものは次の第二の特性にある。
特性2:どの魔道士も全てのアーティファクトを取り扱える
私はよく冗談交じりにアーティファクトを「万人のカードタイプ / the people’s card type」と呼ぶ。私とチームメンバーが感じていることだが、このアーティファクトの普遍的な性質こそが、それらを最も特徴付ける要素の一つだ。献血で比喩するならば、アーティファクトは万能ドナーだ。気に入ったアーティファクトを見つけたプレイヤーは、自分のデッキにそれを入れることができる。もっとも、そのアーティファクトがデッキの他のカードと相互作用をもたらすと言っているのではなく、マナコストが邪魔にならないと言っているのだ。
この特性こそ我々が、ミラディンの破片サイクルのように、切り替え可能な起動型能力コストをデザインする契機になったものだ。この発想は、ある種のアーティファクトは特定の色とより相性が良く、その色のプレイヤーのデッキではより効果が高まる、というものだ。そしてシールド戦などのように必要とあれば、いささかパワーの水準は低くなるものの、【たとえ色の合わなくても】どんなプレイヤーでもそのアーティファクトを使うことができる。我々は≪Gauntlet of Might≫【力の篭手。赤のクリーチャーを全体強化し、山の生むマナを倍加させるアーティファクト】や≪コーマスの鐘 / Kormus Bell≫【全ての沼を1/1のクリーチャーにさせるアーティファクト】のような、特定の一色に有用性を傾注させたアーティファクトを作っても良い、と思っている。これらは他の色でも利用可能なある種の汎用性を持っているからだ。例えば、沼が大量に並ぶデッキに対峙したときのために≪コーマスの鐘≫をサイドボードに潜ませるプレイヤーがいたことは特筆に値するだろう。
この特性が挙がったのを見て、特にミラディンの二枚のカードについて尋ねようと思った人が中にはいるだろう。つまり≪変幻の杖 / Proteus Staff≫【起動に青マナが必要なアーティファクト。クリーチャーを変身させられる】と≪レオニンの陽準器 / Leonin Sun Standard≫【起動に白マナが必要なアーティファクト。自軍全体強化】のことだ。ミラディンブロックには、プレイヤーが特定の色マナを利用できる場合に追加の価値をもたらすアーティファクトはいくつもあるが、プレイヤーが特定の色マナを利用できる場合に限って使えるアーティファクトは、先の二枚だけである。これらのカードは研究デザイン部に多大な議論を引き起こし、白熱した討論は幾度となく交わされた。個人的には私はこれらが間違っていると考えている。というのも、特定の色マナを排さなければアーティファクトは使用に適さなくなる、この点に私は限界線を引いているからだ。だが私の声は大勢の中の一つの意見であり、私のそれは通らなかった。私はこの判断は紙一重のものだと言おう。≪コーマスの鐘≫と≪変幻の杖≫の間には、二つを隔てる極細の一線がある。我々は【アーティファクトの領分の限界である】一線をどこかに引かなければならない、と私は考えているが、私が個人的に選んだ一線がこの二枚の間のそれだったということだ。とはいえ研究デザイン部での仕事は一人の人間の観点ではなく、集団として携わる努力の成果だ。よって私がこれらのカードを間違っていると言う際、私が真に言わんとしているのは、これらは私個人のアーティファクトに対する観方と少しばかり一致していない、ということだ。私ならば異なる選択をしたであろうが、≪変幻の杖≫と≪レオニンの陽準器≫が作られた過程に対して私は敬意を払っている。つまり、一色にしか扱えないアーティファクトはデザインの領域として余地のあるものであり、マジックは時折そこに到達しうる、ということだ。
特性3:アーティファクトはアーティファクト破壊に弱い
この特性も極めて自明なため、しばしば見落とされる。各パーマネントタイプは、それに対応した除去呪文を宛がわれている。これらの除去呪文のみが特定のカードタイプを追い払うことができ、そしてこの事実がゲームの言外の意味を大いに持たせている。例えば、大抵の環境でアーティファクト、エンチャントそして土地はクリーチャーに比べると長く持ち堪えるものだ。なぜならどのデッキもクリーチャーには対策を備えているが、必ずしもアーティファクトやエンチャントや土地にも対処できるよう準備しているわけではないからだ。実際、メタゲームが特定のカードタイプを排除するような場合、それを採用すれば対戦相手に非常な難題を突きつけることができる。
この特性は我々がアーティファクト・土地を作るという決定を下す際に、非常に重要な意義を担っていた。その時の我々は次のように考えていた。すなわちアーティファクト破壊の濃さを強くすることで、アーティファクトとしても勘定できる土地のアドバンテージを割り引けるはずだ、と。我々は間違っていたのだが、ともあれ以上が当時の判断過程だ。
特性4:アーティファクトのフレーバーは、非常に明確な着想に基づいている
この点に関しては、前項で既に説明した。
特性5:アーティファクトはその汎用性ゆえ最も包括的な能力を宛がわれる
この箇所に至ってカラーホイールが議論に戻ってくる。アーティファクトは不特定マナコストを持つため、カラーホイールを転覆させることなく作るのが非常に困難な存在だ。研究デザイン部で我々が好んで取る解釈は次のようなものだ。すなわち、何らかの能力をアーティファクトに与えることは、その能力を最も不得手とする色に与えるのと同じである、というものだ。例えばエンチャント破壊を見よう。黒と赤はエンチャント破壊が酷く苦手だ。もしエンチャント破壊がアーティファクトに宛がわれれば、それは本質的に黒や赤に宛がわれたのと何ら変りはない。このため、アーティファクトはエンチャント破壊能力を持たない傾向にあるのだ。
では、色の定義に使われるほど基本的な効果の多く、それをアーティファクトに使えないとすれば、何をすると言うのか。以下のように、基本を忠実に守ることだ。
第1、マナ生産――マナ以上に普遍的なものはない。どの色もマナを使わなければならない。アーティファクトが恨みがましくマナを生産しに取り掛かっているのもこのためだ。
第2、マナ調整【Mana Fixing:マナフィルターだけでなく、≪極楽鳥≫や≪タリスマン≫のような一部のマナ加速カード――緑マナから五色への飛躍、無色マナから有色マナへの飛躍――をも含む】――これは緑の取り分だが、プレイヤーが多くの色を使えれば使えるほどマジックはより楽しいものになる。研究デザイン部はこれを正当化の言い訳に使って、アーティファクトのマナ調整を他の能力よりもいささか強くしている。
第3、ドロー――マジックはカードゲームだ。そうであるからには、どの色もカードを引くことに関して多少は手を出している。こうしてアーティファクトにまた一つ、「とにかく皆がやってる」という効果が与えられた。
第4、パワー・タフネス増強――私が頻繁に言ってきたことだが、マジックは実際はクリーチャーのゲームだ。そうであるから、全ての色は自分のクリーチャーを増強する何らかの手段を持っているのだ。そしてこれはアーティファクトにとって格好の標的だ。
第5、クリーチャー――どの色もクリーチャーを持っている。一方でアーティファクト・クリーチャーは、有色のクリーチャーが手を付けずに置いていった何か深遠なものを、絶えず探し当てようとしている。
平均的な枚数のアーティファクトが収録されたカードセットを眺めれば、ほとんどのアンコモンのアーティファクトの能力は上記の五つの範疇に収まる、ということに気付いていただけるだろう。幸いにも、我々はレアを残している。
特性6:アーティファクトは珍妙だ
足を踏み外してはいないだろうか。言うならば君たちは違う太鼓の調子に合わせて踊っている。アーティファクトはカラーパイの問題を二つの方法で解決してきた。一つ目はどの色も守っているような基本に従うことで、二つ目はどの色もしていないような物事を探し出すことだ。この未知への冒険によって、アーティファクトは非常に風変わりであるという評価を得ることになった。そしてミラディンのデザインでは、チームは意識的な努力を行ない、単に一風変わっているだけのアーティファクトの多くをアンコモンに引き下げることで、「気違い染みたアーティファクト」のフレーバーをセット全体に浸透させようとしたのだ。ミラディンブロックのアンコモンのアーティファクトが、普段のセットならばレアでしか見られないようなもので埋め尽くされているのも、こういった理由があるからだ。
特性7:一度アーティファクトになったなら、ずっとそうしよう
アーティファクトは正式にはカラーパイの一部ではないが、いくつかのメカニクス上の適所を苦労して確立してきた。これらの中で最も有名なのが、ライブラリーから直接墓地へとカードを置かせるという石臼効果だろう。これは計画されていたのではなく、徐々に変遷していった結果なのだ。ご存知の通り、デザイナーがアーティファクトを作るとき、彼らは過去のお気に入りのアーティファクトを振り返って見る。そしてもしアーティファクトが新しいメカニクスに手を付けると、【その後もデザイナーは過去のアーティファクトを参照するため、】アーティファクトはその能力を自分のものとして獲得していくことになる。これは遅々とした過程だが、新しい発想を獲得するには長い時間がかかることをアーティファクトは分かっていたのだろう。思うにアーティファクトはここ一年の間、「対象のプレイヤー一人をコントロールする」【≪精神隷属器≫の能力。後に黒に何枚か見られるようになる】を虎視眈々と狙っているだろう。
特性8:アーティファクトは機械、つまりコンボの一部になりたがる
マジックのデザインには決まった解答はないので、カードの組み合わせが可能になっている。アーティファクトの不特定マナコストと風変わりな本質は、このコンボの潜在性を十二分に含めている。実際、アーティファクトは全てが互いに作用しあうような複雑なカードの集合体になりがちだ。フィフス・ドーンのデザインチーム、ランディ・ビューラー、アーロン・フォーサイス、グレッグ・マーカス、そして私は、機械デッキの大ファンだったので、フィフス・ドーンではこの主題を特に強く押し出した。
●アーティファクト鑑定
ここまで見てきたように、アーティファクトは多くの因習を抱え込んでいる。それは哲学的なものに限らないし、そもそもアーティファクトの哲学的な因習を監査するのは困難なことだ。本日の記事によって、研究デザイン部がメカニクスと創作の両面でアーティファクトをどのように見ているのか、それに対する読者諸兄の理解が少しでも深まったなら幸いだ。
来週もまた参加していただきたい。来週は……あぁ、何をするのかはまだ決まっていない。まだ君たちの誰一人として伝えていないからだ。
まずどのような仕掛けなのかを説明していこう。二つの投票先があり、一つ目はマジックのデザインに関連した題目のリストで、二つ目はそれ以外の題目の一覧だ。注意していただきたいのは、二つ目のリストの中にはマジックの詳細なものが含まれているが、それらはデザイン過程の具体的なものではない、ということだ。君たちはリストAとBから一つずつ選び、私はそれらを組み合わせて来週の面白いコラムに練り上げる。記事を書く時間を確保するために、三月一日、火曜日の正午を投票の締め切りとさせていただきたい。
さて、以下が君たち全員に示される選択肢だ。特筆しておくと、私が採用するのは寄せられた意見の一割程度だ。なぜそれほどの量が落とされてしまうのかと言うと、その第一の理由は、【諸君の要望するところが】私が既に書いた内容だからだ。私のコラムのファンは是非「メイキング・マジック」の文書保管庫を見ていただきたい。また私は『100回記念 / One Hundred and Counting』と題したコラムを書いたが、そこでは今までの100の記事それぞれに梗概と評定を与えている【記事選びの参考にしていただきたい】。なお、『200回記念』は今年の後期にお披露目する予定だ。題材として選ばれない第二の理由は、将来特定のセットが封切りになる時に書こうと考えているものだからだ。第三は、私がどうもそれを述べようという気にならないからだ。ともあれ以下に見るように、私はかなり奇妙な題目を大量に通過させた。リストA「マジックのデザインに関連した主題」(一つ選ぶこと)
・ワールド・エンチャント
・マジックでは実現不可能なこと
・マナコスト
・私生活がデザインに与える影響
・デザイン上の愚行(間違った方向に設計されたカードやメカニクス)
・≪焚きつけ / Kindle≫や≪集中砲火 / Flame Burst≫のメカニクス【共に赤のインスタント火力。墓地に同名カードがある場合、ダメージが増える】
・多人数戦用のデザイン
・パワーの進化、つまりマジックのカードパワーの水準がいかに発達したか
・アルファ版の「ブーン / Boon」サイクル
・マジック最大の変化で、未だに起きていないもの
・マジック外部の主題がマジックのデザインに与える影響
・研究デザイン部が青をいじめる理由
・種々様々なフォーマットに対するデザイン
・六番目の色の導入に対する賛否両論
・マジックにおける蛙の創造
・新たな種族と職業のシステム
・マジックが先駆的なのはどの点においてか
・シュッとしてないカード【Non-Elegant Cards】
・≪炎の嵐 / Firestorm≫のデザイン【赤1マナのインスタント。手札からカードをX枚捨てる追加コスト。Xの対象それぞれにXのダメージを与える】
・マジック初期の決断(なぜ五色なのか、なぜこれらの基本地形なのか、など)
・公衆がマジックに与える影響
・パワー2で1マナのクリーチャー
・タイミングとテンポとそのデザインに対する影響
・デザインの失敗に学ぶ
・稀少度をなくすとマジックはどうなるか
・「第2回カードを作るのは君だ!」のメカニクスの回で特に優秀だったもの
・青いカードのデザイン
・除去カードのデザイン
・クリーチャータイプの盛衰
・デザインしたカードのワースト10
・全てのカードが自分のカードパワーに釣り合ったマナコストを宛がわれること、それが不可能な理由
・マジックのデザインが紙飛行機の折り方にいかに似ているか
・手札破壊、土地破壊、パーミッションなど、警戒すべきアーキタイプのデッキを見据えたデザイン【これらは非インタラクティブになりがち】
・デザインにおける同時進行【juxtaposition:並列、並置】
・デザイン段階で没になったカード
・コスト軽減のメカニクスのデザイン
・リミテッド用のデザイン
・セットの主題の選択
・人気カードと優良カード、それぞれをどうデザインするか
・多色カードのデザイン
・エンチャントのデザイン
・混沌を生み出すカードの役割
・カラーホイールの変化
・クリーチャー奪取カードのデザイン
・色の展開
・第6版ルールがデザインに与えた影響【リンボ・連鎖がスタックになるなどの大規模なルール変更がなされた】
・アンティという賭けルールのカード、リシドというオーラになれるクリーチャー、≪Nettling Imp≫のように攻撃強制能力を与えるクリーチャー、これらのデザイン
・既存のカードの上位互換や下位互換が印刷される理由リストB「デザインでない主題」(一つ選ぶこと)
・ドラマ『ロザンヌ / Roseanne』
・マジックのデザインが私個人の人生に与えた影響
・スリヴァー
・苗木
・TRPG『Dune Chronicles』【SF小説『Dune』が題材】
・爬虫類
・女の子
・私が主題を選ぶ過程とコラムを作る過程
・私がマジックのデザイナーになった経緯
・ドローに依らないカードアドバンテージ
・新規プレイヤーのための10の必修課目
・ゲームを習う際の落とし穴
・マジックの「古参組【Old School】」
・数学とマジック
・自分のカードが禁止された時に思うこと
・家族関係とマジック(プロプレイヤー・ルーエル兄弟や、画家・フォグリオ夫妻など)
・≪霧衣の究極体≫【全てのクリーチャータイプである青のクリーチャー】
・時間旅行
・デザイナーに推薦したい本
・「マローは気違い」スレ
・イギリスの芸人、モンティ・パイソン
・ルアゴイフたち【墓地のカードタイプや枚数を参照するクリーチャー】
・いかにインターネットがマジックへ影響を与えたか
・TRPG『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ』
・お金
・恐竜
・愛
・マジックに有袋類がいないこと
・連続ホームコメディが幕間の役者をいかに変えたか
・ロック音楽
・≪強奪する悪魔 / Reiver Demon≫【条件付でクリーチャー破壊する黒のクリーチャー】
・グリーマックス
・不可視のバナナスプリット【バナナのデザート】
・空飛ぶ豚
君たちの選択を見るのが非常に楽しみだ。結果は次週お披露目するので、是非ご参加いただきたい。
その時まで君たちが、無の概念の価値を理解することを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
【翻訳】Enemy Mine――『わが友なる敵』
2015年3月23日 MTG翻訳:色の哲学白:神条紫杏――『パワポケ』シリーズ
青:一ノ瀬教授――『ネオファウスト』
黒:カラスミ――『コロッケ!』
赤:ラズミーヒン――『罪と罰』
緑:はらぺこあおむし――同名の絵本
茶:時計型麻酔銃――『名探偵コナン』
青:一ノ瀬教授――『ネオファウスト』
黒:カラスミ――『コロッケ!』
赤:ラズミーヒン――『罪と罰』
緑:はらぺこあおむし――同名の絵本
茶:時計型麻酔銃――『名探偵コナン』
≪わが友なる敵――色対策の規則≫
原題:Enemy Mine ―― The rules of hosing
Mark Rosewater
2002年2月18日
http://archive.wizards.com/Magic/magazine/article.aspx?x=mtgcom/daily/mr8
【映画『第5惑星』の原題・原作は『Enemy Mine / わが友なる敵』】
色対策の週間へようこそ。この用語に馴染みの無い人のために説明しておくと「色対策【Color Hoser】」カードは、特定の色を使用しているプレイヤーを酷い目に遭わせるものだ。色対策の具体例としては≪沸騰 / Boil≫【全ての島を破壊する赤のインスタント】や≪冬眠 / Hibernation≫【全ての緑のパーマネントをバウンスさせる青のインスタント】が挙げられるだろう。「メイキング・マジック」は設計に関するコラムなので、色対策がいかに作られるかを述べることはおそらく様になるのではないか、と思う。自明の理やもしれぬ。
色対策カードの設計を述べるに当たって、私は読者諸兄に嘆かわしい小さな秘密を打ち明かさなければならないと思われる。設計には規則がある。非常に多くの規則があり、絶えず発展している。それらはマジックの規則と非常に似通っているが、より多くの条項がある点、そして今まで一度も文章に書き下ろすように計らわれたことがない点、これらの点で異なっている。そこで、いかにして私は設計の規則を知りえたかが問題になってこよう。正直に言うと、真っ先に認めなければならないことだが、私とてこの規則すべてを知っているわけではない。だが私が現場の仕事から学んできた知識は、この六年間をかけてまさに血肉になっていると思う。
私はことあるごとに、設計者が規則を破るのがいかに好きかということに言及してきた。つまり規則が過剰にあるため、我々は次のことを身に染みて理解しているのだ。すなわち、研究デザイン室の中を少しの間走り回り、取り乱して笑って「今日はおさらばだ、我がちっぽけな規則よ! 今日はおさらばだ……!」と肺の中から金切り声を上げること、それが毎回どんなに楽しいかということを。
しかし、規則は理解されるまでは破られるべきではない。そこで今日は、発展規則について書くには今はいささか忙しいので、色対策カードの設計の基本規則を見ることから始めさせていただきたい。それぞれの規則を説明するに際して、その例外事項についても補足するつもりだ。おまけとして、我々がそれらの規則を遵守しなかった場合に研究デザイン部がどのような失敗をやらかしたか、その実例をもいくつか挙げていこう。
だがその前に、なぜ色対策カードが存在するかについて掻い摘んで説明させていただきたい。
●色対策カードが存在する理由
マジックのメカニクスはゲームにおいてある種の強制力を作り出す。例えば色マナの配分は非常に重要で、プレイヤーは単色のデッキを使うことで【色事故を起こさないという】見返りを受けることができる。しかし研究デザイン部は、プレイヤーに複数の色を使うよう奨励することで、マジックをより良いゲームにできる、そのように考えている。では我々はいかにしてそれを成し遂げようとしているのかと言うと、実際それは多岐に渡って行なわれている。色のフレーバーを厳格に分け隔て、各色に弱点を設けること。色同士に相乗効果を作ること。金色カードが最適な例だが、使うのに二色以上を必要とするカードを印刷すること【原文発表の02年当時、多色カードとしての分割カードや混成カードはなかった】。すべて一覧にすればかなり長いものになるだろう。
単色使いを懲らしめる最も簡単な方法の一つが、色対策カードを作ることだ。マジックにおいてはいかなる戦略に対しても対抗策が設けられているべきであり、これは単色デッキに対しても例外なく言えることだ。さらに色対策カードは、メタゲームの均衡を維持する一助になるという利点を持っている。例えば、もし黒があまりにも強力になったならば、対黒カードがそれを食い止めようとするというわけだ。
そうは言っても、これを規則にするとどうなるだろうか。
●規則1:色対策カードは対抗色を懲罰するべきだ
これは確然的に明らかなものだが、やはり最も基本の規則である。各色は二つの友好色と二つの対抗色を持っており、友好色を手助けし対抗色を痛めつける。単純なことだ。
規則1はしばしば破られる。第一にマジックは、色が自分自身を疎外するというフレーバーを持っている。例えば、黒のクリーチャー破壊呪文の多くは、黒いクリーチャーに対しては効かないようになっている。青は生息条件・島持ちのクリーチャーからの攻撃に晒されることを気にかけなければならない。森渡りや山渡りは、緑や赤めいめいの色にありふれた能力だ。
第二に、防御的な色として白は、白自身を含む全ての色に対して対策カードを有する傾向にある。代表例としては≪防御円 / Circle of Protection≫【白のエンチャント。各色に対応したダメージ軽減能力をもつ】が挙げられよう。
第三に研究デザイン部は、時として友好色を攻撃するようなカードを作ることがある。直近のカードで言うならば、トーメントの≪珊瑚の網 / Coral Net≫【青のオーラ。白か緑のクリーチャー専用だが、相手に維持費として手札一枚を要求させる】と≪抵抗の誇示 / Flash of Defiance≫【赤のソーサリー。そのターン白や緑のクリーチャーではブロックできない】ということになるだろう。これら二枚のカードは、セットの黒中心的な主題を強調するために、黒の対抗色である白と緑を攻撃しているのだ。トーメント以前の有名な例は、アポカリプスの一連のカード群が挙げられよう。アポカリプスでは普段の友好色が対抗色になり、普段の対抗色が友好色になり、つまり色の関係が逆さまになっていた。
●規則2:色対策カードは各色のフレーバーに適合しているべきだ
アルファ版でリチャード・ガーフィールドが行なった意欲的な試みの中に、色は敵の能力を利用し妨害できる、という発想がある。その代表例が≪青霊破 / Blue Elemental Blast≫と≪赤霊破 / Red Elemental Blast≫だ。どちらの波動【Blast】も相手側の色の呪文を打ち消すことや、既に場に出ている相手側の色のパーマネントを破壊することができる。打ち消しは青のもので、破壊は赤寄りのものだ【確かに相手の能力を利用し、相手を妨害している】。この発想の問題なのは、色のフレーバーを水で薄めている点にある。例えば赤は、白のエンチャントに対しては為す術を持たないが、青のエンチャントに対しては簡明な回答を持っている、ということになってしまう。
現代の設計では色対策カードは、その色の主題に生得的に反するようなことが、つまり研究デザイン部での用語で言うと他色からの「抜き取り【bleed】」が、もはやできなくなっている。色が対抗色を処罰する際には、その色のフレーバーに適うような方法で実施されなければならない。
過去これに関して研究デザイン部が台無しを引き起こした典型的な事例は、アイスエイジに収録された≪Anarchy≫【無秩序。赤のソーサリー。すべての白のパーマネントを破壊する】だ。確かに赤は白を懲らしめるのが当然だが、本来それは赤の関与するものから完璧にかけ離れた手法であってはいけないのだ。赤はクリーチャーを焼き、土地を削り、アーティファクトを砕く、これらのことは可能だが、しかしエンチャントは赤にとって苦悩を意味するものだ。エンチャント【enchantment、つまり魅力】は実体を持たない。赤がエンチャントを手に取れないのも、それらは赤がただ吹き飛ばせるようなものでないからだ。≪Anarchy≫は赤からこの素敵な性質を奪い取り、窓の外へと放り出してしまっている。
●規則3:色対策カードの有効性は逓増するべきだ
この規則の要点は、対戦相手がその対策されるべき色をより多く使っているほど、色対策カードはより大きな効果をもたらすべきだ、というものだ。例えば≪非業の死 / Perish≫【黒のソーサリー。すべての緑のクリーチャーを破壊する】が、緑を含む二色デッキよりも緑単色のデッキに対してよく効くといった具合にだ。また以下を指摘しておくのは意義あることと思われる。すなわち――≪殺戮 / Slay≫【黒のインスタント。白緑クリーチャー1体を破壊し、カードを1枚引ける呪文】のような単発の色対策カードであっても、やはりこの基準に適合している、というのも、対戦相手が緑を多く使うにつれて、実際に破壊するクリーチャーの頭数は変わらなくとも破壊できるクリーチャーの選択肢は増えるのだから、対策カードの有用性は増していると言えるからである――このことだ。
この規則から必然的に導き出される結論だが、一掃型の色対策カードもまた、該当する色を使っているプレイヤーが呪文を唱えにくくするようなものでなければならない。≪野火 / Flashfire≫【赤のソーサリー。全ての平地を破壊する】を例に挙げると、このカードの危険性は、白の入ってないデッキを使うプレイヤーよりも赤白デッキを使うプレイヤーにとっての方が遥かに大きい。
●規則4:色対策カードは対抗色の弱みに付け込むべきだ
最も良くできた色対策カードは、対抗色の弱点を探し当てそこを穿つようなものだ。例えば≪赤の防御円 / Circle of Protection: Red≫は赤にとって酷い頭痛の種だが、それというのも赤はエンチャントへの明確な対処法を持っていないからだ。≪たい肥 / Compost≫【緑のエンチャント。黒のカードが対戦相手の墓地に置かれるたびにカードを1枚引ける】が黒を苦しめるのも、破壊や捨て札を通じて墓地にカードを置くことこそが黒の十八番だからだ。
研究デザイン部の色対策カードに関する大失態の多くは、この規則4を我々が無視したときに起きている。その最たる例はおそらく、第6版に「対黒カード」として収録された緑の≪イボイノシシ / Warthog≫【緑の3マナダブルシンボル3/2沼渡り】だろう。第6版で黒は対緑カードとして何を得ていたかと言うと、≪非業の死≫である。そう、すべての緑のクリーチャーを破壊する≪非業の死≫だ。≪非業の死≫対≪イボイノシシ≫、これはさながらヘビー級プロボクサーのマイク・タイソンと『アーノルド坊やは人気者』の子役ゲイリー・コールマンを闘わせるようなものだ。≪イボイノシシ≫は規則4の要点を引き立てている。黒はクリーチャー殺しの色だ。黒へのプロテクションや対象に取られない能力を持たないものを別にすると、緑のクリーチャーでは黒にいかなる問題を生じさせることもできないのだ。
余談ながら、――余談の余談だが、私は余談が大好きなので、私のコラムを読む際には非常に多くの余談が出てくることを覚悟しておいていただきたい――研究デザイン部の過去の愚行をからかい尽くすのは楽しいことだが、どのように第6版の≪イボイノシシ≫の収録が最終的に決定されたのか、私はそれを説明する必要があると思う。第6版のチームが収録カード選びの作業に着いた際、彼らはアンコモンに一通りの色対策カードが必要だと認識していた。彼らが自由に使えたカードはウェザーライト以前のもので、テンペストブロックからは少量のコモンとアンコモンが再録されたに過ぎなかった。以下に挙げるのは、アンコモンで再録可能なもので、加えてそのどれもが黒対策としては効果覿面だったカードだ。
アルファ版より≪生の躍動 / Lifeforce≫【緑のエンチャント。2マナで黒の呪文を打ち消す使い回し可能な起動型能力を持つ】――数週間前の連載記事「Ask Wizards」で説明されたように、緑は打ち消しの色ではない。
レジェンドより≪疾風のデルヴィッシュ / Whirling Dervish≫【緑のクリーチャー。プロテクション黒とスリス能力を持つ】――プロテクションは基本セットには使われない。
フォールン・エンパイアより≪Thelon’s Chant≫【セロンの詠唱。緑のエンチャント。アップキープに緑1マナ支払わなければ生け贄に捧げられる。対戦相手が沼を置くたびに、3点ダメージか-1/-1カウンターを強要させる】――第6版のレアではいくつか例外が設けられたが、基本セットはアップキープに触れるカードやカウンターを用いるカードを扱わない。
アイスエイジより≪Freyalise’s Charm≫【フレイアリーズの魔除け。緑のエンチャント。対戦相手の黒の呪文に対応して2マナ支払えばカードを1枚引ける。手札に戻すこともできる】――カードを引くのは緑らしからぬことであり、またこれは基本セットに入れるにはいささか複雑なものだ。
ホームランドより≪Spectral Bears≫【幽体の熊。2マナ3/3。黒のパーマネントを持たない対戦相手を攻撃すると、次のターンはアンタップしない】――基本セットは非レアの開始フェイズ【原文:upkeep】を参照するカードを扱わない。
ミラージュより≪腐敗 / Decomposition≫【緑のオーラ。黒のクリーチャー専用。累加アップキープコストとして1点のライフ、さらに墓地に落ちたときに2点のライフを課す】――累加アップキープは基本セットでは使わない。
ミラージュより≪生命の根 / Roots of Life≫【緑のエンチャント。場に出るに際し島か沼を選び、対戦相手がそのタイプの土地をタップするたびに1点のライフを得る】――このカードは黒と同時に青をも対策してしまう。
ヴィジョンズより≪エレファント・グラス / Elephant Grass≫【緑のエンチャント。累加アップキープ。黒のクリーチャーに攻撃制限、それ以外のクリーチャーに通行税を課す】――累加アップキープは基本セットでは使わない。
テンペストより≪刈り取り / Reap≫【緑のインスタント。対戦相手の黒のパーマネントの数だけ、墓地からカードを手札へ回収できる】――基本セットは複数の対象を取るカードを避けている。このカードもまた、基本セットとしてはいささか複雑だと結論付けられた。
つまりアンコモンの緑の黒対策カードの中に、使えそうなものは一枚もなかったのだ。そこでチームはコモンの方へと目を向けた。一つだけ使えるものがあり、それがビジョンズの≪イボイノシシ≫だったというわけだ。こうして、なぜ≪イボイノシシ≫が選ばれたのかと言えば、他に選ばれたカードで妥当なものが一つもなかったからだというのが回答になる。
●規則5:色対策カードが自動的に勝利をもたらすべきではない
色対策カードは優良なものであるべきだ。すなわち「対戦相手がこれこれの色を使用しているならば、あなたはゲームに勝利する」と書かれていてはならないのだ。よくできた色対策カードは特定の色を使うプレイヤーに刺さるが、その使われるプレイヤーにも機能不全の中で立ち回れるくらいの余地は残されているべきだ。研究デザイン部の色対策カードに関する過去の失敗の中には、単に優秀に作りすぎたというものがある。例えば≪非業の死≫はすべての緑のクリーチャーを破壊するという効果に対して3マナは低すぎるコストだし、≪Dystopia≫【暗黒郷。黒のエンチャント。累加アップキープを持つが、対戦相手に白や緑のパーマネントの生け贄を強いる】は黒が普段ならば破壊するのに一手間も二手間もかかるエンチャントやプロテクション黒を持つクリーチャーにさえ手出しできる呪文だ。
●最後に一言
ここまで見てきたように、多くの思惑が色対策カードの製作に携わっている。そこで次に君がゲームで劣勢に立たされたときは、数秒の時間をかけて、君の頭を吹き飛ばそうとしてくるカードの美学や巧みさをまじまじと見て感じ取っていただきたい。
来週は、研究デザイン部がどのカードをレアに決定するか、その過程を述べるため火事場へ舞い戻ろうと思う。
その時まで、君のマナ・カーブが緩やかであることを願いつつ。
それではまた。
――マーク・ローズウォーター
【翻訳】Seeing Red――『赤裸々な激情』
2015年3月17日 MTG翻訳:色の哲学 コメント (2) 今回訳出した記事には、2ちゃんねるの有志による翻訳があります。http://blog.livedoor.jp/sideboard_online/archives/50007322.html
原文、翻訳ともに随分と昔の記事で、カラーパイの文献も当時に比べて増えましたので、新たに訳出しても了承していただけるだろうと思っています。
原文、翻訳ともに随分と昔の記事で、カラーパイの文献も当時に比べて増えましたので、新たに訳出しても了承していただけるだろうと思っています。
≪赤裸々な激情――今は行動! 考えるのは後で。≫
原題:Seeing Red ―― Act now! Think later.
Mark Rosewater
2004年7月19日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr133
【「see red」は赤い布を見た牛が暴れ出すことから「激怒する」を意味する】
赤の週間へようこそ! とうとう最終回だ。これはマジックの五つの色に専心する一連のテーマ週間、その五番目のものだ。過去の四週は『緑でいるのは楽じゃない』、『白光満ちる大通り』、『忠実なる青』、『腹黒さの中に』だ。これらの記事を未読の人は一瞥しておくことを強くお勧めする。
●もう一切れパイはいかがですか?
各々の色の週間で私は、コラムを通じて各色のフレーバーと哲学を解説してきた。それを行なうために私が取り上げたのは、カラーホイールを刷新する作業に際して研究デザイン部のフレーバー・グルが考案した一連の設問だ。すなわち次のようなものだ。
・その色の関心事は何か? その色にとっての最終目標は何か?
・その目標に到達するために、その色はどんな手段を用いるか?
・その色の関心事は何か? その色が表象するものは何か?
・その色が軽蔑するものは何か? その色を否定的な方向に駆り立てるのは何か?
・その色が友好色を好み対抗色を嫌うのはなぜか?
・その色の最高の長所と最大の欠点は何か?
●その色の関心事は何か? その色にとっての最終目標は何か?
各色の哲学はその色の世界観を中心に循環し展開されていく。そこで、赤は世界をどのように見ているのか、赤は何に価値を見出すのか、ということが問題になってくる。赤にとって人生は究極の冒険だ。赤が思うに、人生を最も満ち足りたものにすることは、あらゆる好機に乗じることを意味する。そしてこの目的に駆り立てられ至るための手法として、自分自身の感情よりも適切なものはないだろう。赤は腹を据えて行動し、心の赴くままに従う。嬉しいときは陽気に振る舞い、悲しいときは涙を流し、怒れるときは物を打ち砕く。人生は赤にとっては非常に単純明快なものだ。赤は感じるものをそのまま行なっている。
この目的に到達するために、赤は行動を用いる。もし何かが赤の行く手を阻むなら、それを吹き飛ばす。もしそれが舞い戻ってきたなら、爆破する。赤は物理的暴力【force】を強烈に支持する。何かを変えたいならば、それを引き起こさなければならない。後でではなく、今すぐにだ。
表面上は赤の目的は黒のそれと似通っているように見えるが、ここには肝腎な差異がいくつかある。黒が自分の欲する物事を行ないたいと渇望するのは、黒が権力の探求によって駆り立てられているからだ。黒は他人が制限されるかどうかは気にかけない。個人として欲する物事を行なえるなら、黒はそれで幸せなのだ。だが他方で赤は、すべての者は自分の欲する物事を行なう権利を持っている、と信じている。必ずしも赤その人に影響を与えるとは限らないような障壁であっても、ただそのような存在が好ましくないという理由から、赤はそれを取り壊そうと行動を起こすことがある。
さらに、黒は極めて孤独だが、赤は非常に社交的たりうる。赤は自分の感情に従う。これら感情には、愛情、色情や渇望、仲間意識、そして友情といったものも含まれる。すなわち赤は他者に、少なくとも何らかの感情的な繋がりを持つ者に対して、気を配るのだ。赤は愛する者を助けたり守ったりするためには、火の中水の底へ躊躇わずに飛び込むだろう。しかしこのことから、赤がいくらか自分勝手ではない、とは言えない。感情はまさにその本質からして自分自身の要求を最優先させるが、これが意味するのはすなわち、赤は時として他人を気にかけうるということだ。
結局のところ、赤の究極の目的は自由ということになる。誰もが、彼らがいかに望んでいようと、自由に行動できること、これが赤の願いだ。そしてこれを実現するためならば、赤はいかなる行動でも起こすつもりだ。
●その目標に到達するために、その色はどんな手段を用いるか?
各色は目的へ向けて自身の魔法を傾注する。赤は迅速かつ物理的な回答を求める。もし何かによって赤が求める物を得るのを妨げられているなら、赤はその障害を容易に取り除くための能力を欲するようになる。こういった理由で、赤の魔法は天性からして非常に破壊的なものだ。直接ダメージ、アーティファクト破壊、そして土地破壊、このすべてがくだんの主題に結びついている。これらの魔法は赤にとって行動手段としての鈍器のようなものだ。特筆すべきはこれが理由となって、赤はエンチャントに触れる能力を持っていないということだ。エンチャント【enchantment、すなわち魅力】は実体を持たないので、赤はそれを爆破する術を知らないのだ。
赤の魔法に見られる第二の主要な特色は、赤の短期的な思考だ。感情は本質からして衝動的なもので、まさに「たった今この瞬間」におけるものだ。だから赤には、行動を今起こすものの、後ほど結果として派生してくるであろう物事については考慮しない、このような傾向がある。つまり赤は長期的には弱みを抱え込むが、それを費用として短期的な利益を得ようという魂胆を持っている。例えば赤は、呪文をより素早く唱えるためならば資源を投げ出すのを厭わない、それが最も顕著な色だ。赤はファストマナという、≪煮えたぎる歌 / Seething Song≫のような一度限りのマナ加速を生み出すカードに最も長けているし、また軽いマナコストで大きな代償を持ったクリーチャーを有している。全ての色の中で赤は明白に、最も素早く勝利するように労力を傾けられた色だ。
第三は、赤は無作為性に喜んで応じる傾向があるというものだ。これはある点では組織に対する赤の憎悪から来る反応であり、また別の点では赤は大きな危険性を冒しやすいことの帰結でもある。こうした理由から、コイン投げや高い危険性のメカニクスが赤に見られるし、さらに、赤が混沌を生み出す呪文を好き好んでいるというわけだ。
最後に、赤には茶目っ気のある一面がある。他の色が自分の目的を達成するために非常に真剣になる傾向を持っている一方で、赤は楽しさを持つことの重要性を理解している。そこで赤は混沌を楽しむ。そして赤は他の魔道士の魔法を台無しにするような魔法を好んで使うし、また、魔法を想定されたものとは違ったように作用させるような魔法をも気に入っている。これは我々がカラーホイールの再分配を行なった際に、研究デザイン部によって取り入れられた領域だ。一時的に物事を台無しにするものは全て赤へと移植され、長期的な操作は青に留まった。例えば、対象を偏向させる呪文、青の≪偏向 / Deflection≫は赤の≪分流 / Shunt≫となり、一時的にクリーチャーを奪取する呪文、青の≪命令の光 / Ray of Command≫は赤の≪脅しつけ / Threaten≫となった。
数多くのカジュアルプレイヤーが赤に惹き寄せられるのも、赤が純粋に楽しもうとしている色だからだ。赤は深い思索や緻密な判断を過剰に要求するわけではない。クリーチャーを召喚し、攻撃し、相手を吹き飛ばす。これこそまさに赤の好きなやり方だ。
●その色の関心事は何か? その色が表象するものは何か?
赤が気にかけるのは、自分自身や自分の大切な人を幸福にすることだ。赤はいかなるものからも邪魔な干渉を受けることなく人生を過ごしたいと思っている。この責務を達成するためならば、赤とは異なった規制の下で抑制されている者なら気が進まないような物事であっても、感情の力を用いて赤は実行に移すことができる。こういった事情から、赤が表象するのは次のようなものになった。
感情(とりわけ非常に煽り立てられたもの。攻撃性、激怒、情熱、憤激など)。衝動。暴力。粗野。実力(問題を腕力で解決する)。破壊。混沌。四大元素の火と大地(またそれに関連した破壊的な自然の要素。稲妻、炎、地震、土崩瓦解、砂嵐など)。戦闘。軍隊。無作為性。自発性。博打。享楽主義。野蛮。
●その色が軽蔑するものは何か? その色を否定的な方向に駆り立てるのは何か?
赤は自分が望むことをしないよう命じるもの全てを嫌っている。特に規則だ。赤は規則を嫌っている。それはもう、とんでもないくらいに嫌っている。他の誰かがあることをしてはならないと赤に命じるのには、一体どういった根拠があるのだろうか。彼らの行ないは筆舌に尽くしたい暴挙だ。このことから赤は組織一般を嫌っているが、それと言うのも組織は規則をもたらすからだ。
加えて、赤は感情の重要性を損なわせるもの全てを嫌っている。赤の理解では、感性こそが存在の核心だ。これを放逐させるようなものは、赤からは個人への攻撃と見なされる。
●その色が友好色を好み対抗色を嫌うのはなぜか?
「喋るよりも吹っ飛ばすべきだ」
赤は規則と組織を嫌っている。だがそれは白が愛して止まないものだ。もし白が自分の手法を貫けば、赤はやりたいことを何もできなくなってしまうだろう。赤の出す回答は非常に簡明だ。馬鹿げた規則をこれ以上作る前に、白を破壊し尽くしてしまうのだ。
赤が規則と同じくらい嫌っているものを挙げるならば、それは思索というものになるだろう。思索は問題以外の何物をも生じさせ得ない。そして青は非常に深遠な思索に耽る色だ。だが更に悪いことに、青は思索を重視するだけでなく、感性を軽視している。仮に青が自分の手法を実現するようなことになれば、誰一人として感情を表現するためには声を上げなくなるだろう。幸運なことに青に対する解決策は白に対するものと同じであって、つまり、吹き飛ばしてしまうというものだ。
黒は赤と同じく、望むように振る舞える自由を持つことを楽しみ、また破壊に価値を見出してもいる。黒はもう少し衝動的になり、深く考え込まないようになるのが望ましい。
緑は衝動を理解している。もっとも緑はそれを本能だとか何だとか呼んでいるが。さて、緑は自分のやりたいように行動する。緑に玉に瑕なのは、時として自分自身よりも他人の要求を優先させようという気概を持っていることだ。友人や恋人が相手なら赤にも理解できるが、緑は見ず知らずの生き物に対してさえそれを行なおうとする。
●その色の最高の長所と最大の欠点は何か?
赤の最高の長所は、素早く行動し対戦相手を圧倒できるという能力にある。また【速攻クリーチャー、歩く火力、≪騙し討ち / Sneak Attack≫のように】「ひょっこり現れて引っ掻き回すこと」を得意とし、その予測不可能性が赤を危険な敵たらしめている。赤のやり方の短所は、その迅速な攻撃が首尾よく作用しなかった場合、赤自身が窮地に追いやられるという点にある。赤は「終盤戦」を見据えるような習慣を持っていない。もし対戦相手が最序盤の猛攻撃を凌ぐことができれば、赤は大抵の場合大いに悩まされることになる。
●火車の帳簿【In the Red:「赤字の」を意味する熟語。イギリスの作家マーク・タヴナー(Mark Tavener)による同名の小説がある】
各色を論じるに当たって、その色に最も密接な課題だと判断するものを私は取り上げてきた。赤に関して言うと、私は赤が最も誤解された色だと考えるのだが、その理由をいくらか述べていきたいと思う。赤に対する一般的な解釈は、間違っているわけではないにしても、あまりにも狭すぎる。確かに赤は破壊が好きで、物を吹き飛ばすのが好きで、それでいて激昂しかねないような色だ。だがこれは赤の一面でしかなく、いくらかの誤った憶説をもたらしさえするだろう。以下にそういった解釈の具体例をいくつか挙げていく。
赤は馬鹿だ――確かに、赤は思索の色ではない。だがこれは赤が知恵遅れだということにはならない。赤は感情的で、近視眼的で、衝動的だが、これらの中には知性と互いに相容れられないものは含まれていない。赤は非常に聡明な人物を擁することが可能であり、また実際に擁している。例えばウェザーライト・サーガ【WTH~APCの背景ストーリーの総称】のターンガースとスクイーは、二人とも知的な赤の登場人物だ。
赤はガキ大将だ――マジックは決闘のゲームなので、色が戦闘に対峙したときの様相をカードは際立たせがちだ。赤にとってそれは、怒りのようなより攻撃的な感情を取り扱うことを意味する。これが威張り散らしたガキ大将のように赤を見せてしまっている。しかし公平を期して述べると、確かに赤は往々にして攻撃的だと言えるが、そうでないような構成要素をも多く持っている。例えば赤は情熱と気力の色であるし、芸術や詩歌の大抵の様式の生まれ故郷でもあるし、また非常に紳士的な側面さえもある。これらは単純にマジックのカードで表現できるような類のものではないのだ。
赤は単純だ――赤が思索を好んでいないからと言って、それは赤の哲学が単純化されたものだという理由にはならない。例えば感情は極めて複雑なものだ。また、白の秩序や青の知性に対応する赤の二つの基本的な対立要素、つまり混沌と感情とを見れば、両方とも非常に入り組んで難解なものだと了承していただけるだろう。
私が気づいたのは、赤は探求するのが最も興味深い色の一つだということだ。赤の動機を理解するのは容易だが、解釈し説明するのは困難だ。さらに赤には、決闘の場ではあまり意義がないために、マジックのゲームでは見落とされてしまうような数多くの側面がある。本日のコラムを通じて君たちが、赤がどういった動機から行動するかに関して、これまでとは別の視点を持っていただければ幸いだ。
●レディ(アンド・マン)・イン・レッド【原文ではLady (and Men) In Red。クリス・デ・バー(Chris de Burgh)の音楽作品に『The Lady in Red』という題名のものがある】
私の「各色に登場人物を配属させる」実習を抜きにしては、おそらく色の哲学は成り立たないだろう。研究デザイン部がこの実験を行なったのは、我々がカラーパイの考察に取り掛かっている最中でのことだった。この項目は私が書いてきた色の記事で最も物議を醸している箇所だ。そうであるからには、今回で打ち切りにする理由はどこにもない。以下に私が赤に割り振った登場人物を数名紹介していこう。
ロミオとジュリエット【Romeo & Juliet:シェイクスピアの戯曲。宿敵同士でありながら恋に落ちた二人は、悲劇的な結末を迎える】――これはまさに、典型的な赤い物語だ。二人の少年少女が情熱に燃え上がり、自らの身を滅ぼしてしまう。もし彼らのどちらか一方がもう少し青ければ、このような悲劇にはならなかっただろう。
ホーマー・シンプソン【Homer Simpson:恒例の『ザ・シンプソンズ』枠。一家の父親】――シンプソン一家の五人はそれぞれ異なる色である、私はそういう主張をしてきた。注意深く『ザ・シンプソンズ』を見ると、ホーマーは一家の中では赤い人物だということに了承していただけるだろう。彼は感情的な要求や願望に非常に強く突き動かされている。彼が混沌を作り出すのは、黒い息子のバートのように他人が困るのを見て楽しみたいからではなく、彼の平常の振る舞いが有機的構造を分解させる作用を持っているからだ。またホーマーの冒険は権力のためのものでなく、むしろドーナッツのためのものだと言えよう。
放浪者グルー【Groo, the Wanderer:マーベル社の漫画作品】――ドーナッツではなくチーズディップのために動いているグルーは、ホーマーと多くの共通点を持っている。最大の相違点は、グルーはより大きな混沌を作り出すということ、そして彼の通った跡には破壊が残されるということだ。余白注記になるが、興味深いことに≪ラースのスターク / Starke of Rath≫【タップでアーティファクトかクリーチャーを破壊できるが、対戦相手にコントロールが移ってしまう赤の伝説のクリーチャー】の仮称は「放浪者グルー」だった。
ワイリー・コヨーテ【Wile E. Coyote:ワーナーブラザーズのアニメ映画「ルーニー・テューンズ」シリーズの聡明な犬。アクメ社をお気に入りとする。ロードランナーという鳥を捕食しようと八方手を尽くしている】――これほど情熱的なアニメキャラが、かつていただろうか。彼は【ロードランナーの生け捕り】たった一つだけ望んでいて、彼の冒険を何ものにも、冒険に付き物の巨石だろうと、列車だろうと、機能不全に陥ったアクメ社の製品だろうと、邪魔させまいとしている。ともすれば読者の中には、彼は思索家で青ではないか、と考える人がいるかもしれない。だが私が言及しているのは五〇年台の作品の彼であり、その時期彼は一度ロードランナーを捕獲できたのだ。そう、彼はあの鳥を生け捕りにしたことがあるのだ。彼は思索家と言うには【行動的すぎて】相応しくない。むしろ不合理で、執着心を持った、泥臭い、そんな赤い登場人物だと言えよう。
●激情の中で【原文は前出と同じくIn the Red。A Global Threatというパンクバンドが00年に同名の音楽作品を発表している】
読者諸兄、これで赤の記述は終わりだ。なんとまぁ、五色とも無事に終わることができたことよ。それも僅か22ヶ月で済ますことができた。
来週もまた参加していただきたい。プロツアー特集を行なう予定だ。
その時まで君たちが、感じるがままに行動することを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
【翻訳】Defining Black――『黒の定義』
2015年3月10日 MTG翻訳:色の哲学 今回訳出した記事の本文には、NPCさんによる翻訳が既に存在します。http://web.archive.org/web/20040820002426/members.at.infoseek.co.jp/braingeyser/04/0423.html
原文も翻訳も随分と昔の記事で、カラーパイの文献も当時から増えたので、新しく訳出してももう了承していただけるだろうと思っております。
原文も翻訳も随分と昔の記事で、カラーパイの文献も当時から増えたので、新しく訳出してももう了承していただけるだろうと思っております。
≪黒の定義――雰囲気、機能、ゲームバランスの調整≫
原題:Defining Black ―― Balancing Flavor, Function and Game Balance
Randy Buehler
2004年2月6日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/rb109
二年ほど前に研究デザイン部が「カラーパイ」の見直しを実施した際、我々はその作業を二つの段階に分けて行なった。第一段階はフレーバーの専門家が、各色は厳密には何を表象しているか、また各色はどのように他色と関わり合っているか、これらについて討論を通じ明確化させるというものだった。マークは月曜日の記事『腹黒さの中に』で、黒の背後にある哲学や黒のカードに与えられる予定のフレーバーを紹介することで、この第一段階の過程の成果を披露するという素晴らしい役目を果たしてくれた。【このマークの記事に関しては、記事の最後で欄外に言及するつもりだ。】カラーパイの議論の第二段階は、マジックのメカニクス全てを考察し、それらが五色の間で分配されている様相を分析する、というものだった。この第二段階には二つの大きな目的があり、一つ目は各色がメカニクスを公平に占めるよう計らうことで、二つ目は各色のメカニクスが新たに明確化されたフレーバー・パイと矛盾無く調和するよう計らうことだ。この記事で私が考察していこうと思うのは、これらの議論全体を黒のメカニクスは今どのように見ているかということだ。
我々が出発点として取り掛かったのは、これまでのマジックの歴史を通じて蓄積されてきた各色のメカニクスを合計すること、そしてそれらの割り振りがどれほど平等であったかを分析することだった。当然ながら、メカニクスを勘定するのに使えるような精確な尺度は実際には存在しない。いくつかのメカニクスは他のものに比べて非常に多大な量のカードを有していたので、我々の試みは次のようなものになった。つまり平均的なブロックで各メカニクスについて、適正と思われる枚数はいくらなのか、それを総計してみる、というものだった。この演習の真の論点は結局のところ、我々がこれからもマジックの新しいカードを創案し続けられるのだと確かめることだったが、それはつまり、各色は引き出されうる潜在性を同量に有さなければならないことを意味する。
過去のコラムで述べてきたことだが、我々が第一に出した結論は、メカニクスの公平な取り分に比して多くの要素を青が持っている、ということだった。よって我々はいくつかの物を青から移すことにした。メカニクス・パイの二割以上を占めるように思われたもう一つの色は、黒だった。メカニクスの一覧表を凝視すると、クリーチャー破壊、手札破壊、スーサイド・ブラックの小型クリーチャー、不利益持ちの大型クリーチャー、マナ加速など、黒には内容の非常に充実したメカニクスがいくつもあるように思われた。だがより肝腎だったのはデザイナー達の報告に、いつだって黒は設計するのが非常に簡単な色だ、とあったことだった。次のようなことは非常によく起こっていた。すなわち、企画書類が例によって、実に出来の良い黒のカードで所狭しという風に仕上げられ、一方でデザイナー達は、赤に入れられる他のカードを探し出すのに苦心していた、ということだ。
黒から移動させる要素を探した際に我々が気付いたのは、過去の歴史と新たに明確化されたフレーバー・パイ、その両方に対して充分な敬意を払わなければならないということだった。例えば≪生命吸収 / Drain Life≫【黒のソーサリー。支払った黒マナの点数だけ対象にダメージを与え、さらに自分は同じ点数のライフを得る】はライフ獲得のメカニクスを含んでいるが、ライフ獲得そのものは黒のメカニクスではない【白や緑のものだ】。しかしながら、生命を吸い取るというフレーバーは黒に対して完璧に一致するので、我々はこれを黒に残すことにした。もっとも我々は、これが黒に与えられた唯一のライフ獲得の手段であるべきだと、黒は他から奪ってこなければならないと、明白にすることも忘れなかった。同様に、緑は墓地を資源として使用するのを最も得意とする色だが、≪死者再生 / Raise Dead≫【黒のソーサリー。墓地のクリーチャー・カードを手札に戻す】も非常に黒のフレーバーと歴史に合致するので、やはり我々はこれを黒に残した。
我々が黒から移動させた最も大きな二つの物は、一時的なマナ加速すなわち≪暗黒の儀式 / Dark Ritual≫と【黒のインスタント。都合2マナ増やす呪文。赤版は≪煮えたぎる歌 / Seething Song≫】、一時的なパワー増強すなわち≪彼方からの雄叫び / Howl from Beyond≫だ【黒のインスタント。注ぎ込んだマナの点数だけクリーチャー1体のパワーを1ターン修正する。赤版は≪怒髪天 / Enrage≫】。≪暗黒の儀式≫が実際に行なっていることを見れば、このメカニクスは黒特有のものでないと了承していただけるだろう。リチャード・ガーフィールドはアルファ版を作るに際し、このメカニクスに非常に深い黒のフレーバーを宛がったが、もし悪魔の儀式によるものだというフレーバーを与えるならば、ほぼ全てのものを黒として見なすことができてしまうだろう。仮にいくつかの要素を動かす必要性を認識していなければ、我々はリチャードの最初の直観に喜んで従っていただろうが、しかし一度そのような必要性に結論付くと、これは【すぐ次で述べる理由から】良い選択のように思えたのだ。ついでながら、この判断にはリチャードも同意した。我々がフレーバー・パイとメカニクス・パイの両方を明確化する際に、彼は何度も相談に乗ってくれたのだ。さて、≪暗黒の儀式≫が移動する要素として特に良い選択だったのは、以下のような事情があったからだ。すなわち、赤はいくつかの要素を移入される必要のある色だと我々が認識していたこと、そしてフレーバー・パイの議論で浮かび上がった事実の一つに、非常に情熱的で「刹那的な」描写の赤があったこと、これらの事情だ。新たな赤は「今、今、今、それが欲しいんだ」と言う。カードアドバンテージが打ち棄てられようとも、今この瞬間により多く得るためならば、赤は申し分なく喜んで未来を投げ出すのだ。≪暗黒の儀式≫のメカニクスはこの哲学を完璧に体現しているので、我々はこれを黒から赤へと移すことにした。
同様に≪彼方からの雄叫び≫も、黒のフレーバーを持ってはいたが、黒に特有のメカニクスというわけではなかった。≪彼方からの雄叫び≫は実際のところ、まさに初期の頃から赤に代表されていた≪炎のブレス / Firebreathing≫【赤のオーラ。赤マナ1点につきパワーに1の修正を与える】の能力を、インスタントの速度に焼き直したものだ。このメカニクスもまた資源を使い果たしてまでして、未来に役立たないような現在のアドバンテージを得るものだ。よって、これは赤へと移された。
これらが黒に対して我々の行なった二つの大きな変更だ。しかし特に黒と赤の違いを整理する際、いくつかのメカニクスの明確化を試みることに我々はまた少なからぬ時間を費やした。例えば我々は長らく「攻撃強制」と「防御不可」を、赤のクリーチャーと黒のクリーチャーの両方の欠点として用いてきた。しかしながらこれらの欠点の表象を考察してみると、「可能ならば毎ターン攻撃する」ことは非常に赤に相応しい能力だと明らかになるだろう。赤のクリーチャーは自制できず、戦闘にひたすら突撃し、刹那の情熱に圧倒されてしまうので、戦場の反対側で≪トロールの苦行者 / Troll Ascetic≫【3マナ3/2で呪禁と再生を持つ緑のクリーチャー】が舌なめずりしているのも目に映らないのだ。他方で「ブロックに参加できない」ことは本質的に黒の態度だ。黒のクリーチャーはいかに状況が差し迫っていようとも、わざわざプレイヤーを守ろうとはしない。彼らは自分自身のことしか関心を持たないからだ。したがって我々はこの二つの欠点を相応しく分けることにした。それぞれの欠点を適切な色に限定することで、ゲームにはフレーバーを、各色には明確な個性を、幾ばくか取り入れることができると我々は考えている。
我々が黒と赤の間で注目したもう一つの類似点は、何らかの欠点を持つ代わりにマナコストに比して強大であるようなクリーチャーを有している、というものだった。これは削除される必要性を感じさせるものではなかった。なぜならば≪バルデュヴィアの大軍 / Balduvian Horde≫【赤のクリーチャー。戦場に出たとき無作為にカードを捨てなければならない。4マナ5/5】のようなカードは「今を得るために将来を投げ打つ」という赤のフレーバーに上手く一致するし、他方で≪にやにや笑いの悪魔 / Grinning Demon≫【黒のクリーチャー。アップキープ毎に2点ライフを失う。4マナ6/6】のようなカードは「悪魔との駆け引き」という黒のフレーバーに上手く一致するからだ。しかしながら我々は、二色の個性をより際立たせるためにこの類似点を明確化させるのは意義深いことだ、と判断した。我々が注目した点のひとつは、赤は既に大型クリーチャーの二番手だという点だ。すなわち、図体の大きなクリーチャーの頭数に関して赤が遅れを取るのは緑に対してだけであり、実際のところ赤には費用の割安な大型クリーチャーの色である必要性はなかった。転じて見れば黒こそが、こういった「高い危険性と大きな見返り」を持つ大型クリーチャーを最もよく扱えるべきだろう。我々は≪ファイレクシアの抹殺者 / Phyrexian Negator≫【旧枠時代の黒の代表的なクリーチャー。3マナ5/5トランプル】のようなカードを「スーサイド・ファッティ」と呼ぶことにし、今ではこれらを黒の為すことの本質的な部分だと見なしている。
一方で、いずれかの色がスーサイド・ウイニーに最も長けることになるのだが、我々は赤がその役割に最適な選択だと結論付けた。≪ジャッカルの仔 / Jackal Pup≫【赤のクリーチャー。自身へのダメージがコントローラーにも飛び火する。1マナ2/1】、≪はぐれ象 / Rogue Elephant≫【緑のクリーチャー。戦場に出たとき森を1つ生け贄に捧げなければならない。1マナ3/3】、≪ミノタウルスの探検者 / Minotaur Explorer≫【赤のクリーチャー。戦場に出たとき無作為にカードを捨てなければならない。2マナ3/3】、これらのカードはまさに赤に相応しい、というのも黒は小型クリーチャーの色だと見なされていないからだ。この判断を下しうる視点は二つある。第一は、非常にメカニクス寄りの視点だ。五色全てで、あるいは五色中四色で、優秀な小型クリーチャーのデッキを構築することがもし可能ならば、ゲームの楽しさは減じてしまうだろう。いずれかの色が四番手であるべきなのだ【四番手が不得手ならば、必然的に良質な単色ウイニーデッキは三色の内に留まりうる】。第二は、非常にフレーバー寄りの視点だ。邪悪と契約を結ぶのは容易ならない取引だ。代償は大きいが、報酬もまた大きい。「ゴブリン・ウイニーの大軍」という響きは聞こえが良いが、「デーモン・ウイニー」という響きは締まらない。マジックはフレーバーとメカニクスが共に並び補い合うとき円熟するのだが、それはまさにここで我々が行なったことだと考えている。
我々が黒に施した他の変更点は些細なものだ。全てのクリーチャーにダメージを与えるのは非常に赤の特性であるため、「疫病【pestilence】」というフレーバーの効果はメカニクスとしては-X/-X修正を与えるようにすべきだと決めた【≪黒死病 / Pestilence≫から≪紅蓮炎血 / Pyrohemia≫への移行】。クリーチャー蘇生の大部分は黒のメカニクスに留めたが、フレーバーと絶妙に合うならば、そのような白の復興呪文を臨時に作る可能性もある。「教示者」は引き続き、緑はクリーチャー、赤は運任せ、黒は悪魔との契約、【白はエンチャント、青はソーサリーやインスタントやアーティファクト】といったように、適性に照らして分散される。黒は飛行クリーチャーの三番手であり、再生クリーチャーの筆頭であり、アーティファクトやエンチャントを破壊できず、また当然ながら、クリーチャー破壊と手札破壊といった重要項目すべてを継承している。
以上が黒の現状だ。我々の考えでは、フレーバーとメカニクスのどちらの視点から見ても、黒は依然として多くの素敵な要素を有しているが、それはどのセットでも黒の良いカードで溢れてしまうほどの過剰な量ではないはずだ。
【以下は注釈的な記述】
マークの前回のコラム『腹黒さの中に』に呼応して立った掲示板は、私の見てきた中で最も魅了的な部類に入るものだった。記事でマークが展開した好奇心をそそる主張は、黒に関連しているような道徳についてだった。すなわち、黒は邪悪と同義でなく、また常に邪悪というわけでもない、そして邪悪になる潜在性はどの色にもある、という主張だ。そして記事の反響で掲示板は7ページにも達し、マジックに関連した道徳についての非常に知的な論戦で賑わっている。利口であることがいかに楽しいことか、それを思い出させてくれるような掲示板だ。さて私も自分の意見を少しばかり投げ込むために、演説台に上ってみようと思う。
私が思うに、君たちの中にはニーチェを誤読している者がいる。とはいえ何も私はニーチェを、道徳なんてものは無視するべきだとか、やりたいことは何でもすべきだとか、そのように示唆する者だ、と読解しているわけではない。そうではなく、ニーチェが我々各人へ熱心に説いているのは、道徳を自分自身に照らして吟味し、各人の精神を我々が従うべき倫理規定へと磨き上げることだ、と私は考えている。著書『善悪の彼岸』は道徳の歴史についての魅了的な研究で、特に詳細に論じているのは、キリスト教が外面的行動や内面的意図を本質的に測量する基準を「善良と邪悪【Good vs Evil】」から「善し悪し【Good vs Bad】」へと変えていった過程だ。さて私が下した結論は、我々が企てるべきは受け継いできた標語【label:レッテル】の向こう側に移動することだ、というものだ。「民衆【herd】」とは、親や宗教を通じて彼らに手渡されるあらゆる倫理的教義に盲目的に従う者たちのことだが、自分自身をこういった民衆から分け隔てる手段は倫理を無視することではない。そうではなく自分自身のために倫理を考え、それに対する理解と信仰を通じて、自分の人生を過ごすための倫理規定を見つけ出すこと、これが民衆と区別される方法である。ニーチェの言う「超人」は反道徳的ではないし、超道徳的ですらない。その代わり彼は「善良と邪悪」という道徳の彼岸を開拓したのだ。とは言っても、これでともすれば、ニーチェに関して私が言いたいことは全て言い切ってしまったかもしれない。
さて、私はニーチェが黒でないとは言っていない。彼の哲学はマジックの黒にかなり調和する。ただ私が思うに彼の見解は、彼に対する評判以上に名状しがたくかつ興味深いものだ。事実、私のニーチェに対する読解はマークの黒の心構えに対する説明と親和するものだ。「君の規則を押し付けないでくれ」とは、黒の魔術師が白の魔術師に対して言う台詞だ。私の読む限りではニーチェは青寄りの黒に配置されるが、やはり彼は本質的には自己中心的であり、それはまさに黒の本質とするところだ。
話は変わるが、バート・シンプソンは明らかに黒だと私は思う。バートには大混乱を引き起こす傾向があり、私も最初は彼を赤と考える理由を見出せたのだが、より綿密に観察すれば、彼は混乱を見て楽しむために、慎重かつ回りくどく計画を練っていることが分かるはずだ。ホーマーと比べてみよう。シンプトンの中では実に赤いホーマーは決まって、脈絡も理由も全く無い行動を取っている。ホーマーはいかなる時点においても、自身の激情が命ずるがままに従っているのだ。
最後に述べるのは、ただ単なる状況説明だ。行動と意図のどちらが道徳的な正しさを決定するのかという問いに対して、明解な回答が提出されることは決してないだろう。実際、この討論は何千年にも渡って紛糾してきたし、どちらの立場にも与しない非常に賢明な人もいる。しかしながら、過去の歴史全てがこの設問を、マジックの色に対する興味深いリトマス試験たらしめているのだ。マークが「邪悪とは信条ではなく行動の問題だ」と言うとき、当然彼は黒の声色で喋っている。そして白はちょうど正反対の見解を強調している。
最近、私がこのゲームをどれほど好いているか、言ったかしら?【原文:Have I mentioned lately how much I love this game?――『Have I Told You Lately That I Love You?』という名曲があり、そのフレーズに似ている?】
【翻訳】In the Black――『腹黒さの中に』
2015年3月3日 MTG翻訳:色の哲学 記事の連投になりますがご容赦願います。
今回訳出した記事には、o)nira.さんによる翻訳が既に存在します。http://web.archive.org/web/20070501130453/members.at.infoseek.co.jp/braingeyser/04/0612.html
原文も翻訳も随分と昔の記事で、カラーパイの文献も当時から随分と増えたので、新しく訳出してももう了承していただけるだろうと思っております。
今回訳出した記事には、o)nira.さんによる翻訳が既に存在します。http://web.archive.org/web/20070501130453/members.at.infoseek.co.jp/braingeyser/04/0612.html
原文も翻訳も随分と昔の記事で、カラーパイの文献も当時から随分と増えたので、新しく訳出してももう了承していただけるだろうと思っております。
≪腹黒さの中に――禁止領域は存在しない≫
原題:In the Black ―― Nothing is off limits
Mark Rosewater
2004年2月2日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr109
【原題の「in the black」は「黒字の」「利益の出ている」を意味する】
黒の週間へようこそ! これはマジックの五つの色に専心する一連のテーマ週間、その四番目のものだ。過去の三つは『緑でいるのは楽じゃない』、『白光満ちる大通り』、そして『忠実なる青』だ。この連載は厳密な構造をしているので、他の三つの記事のどれか一つでも読んだ人なら、今回もどのような流れで進んでいくのか見当が付くはずだ。
●今まで通り、パイの取り分は常にあるものだ
もし君が色の週間が初めてなら、何はともあれ、私のコラムへようこそ。過去記事を未読の人は、メイキング・マジックの文書保管室を照会することを強くお勧めする。各々の色の週間で私は、コラムを通じて各色のフレーバーと哲学を解説してきた。それを行なうために私が取り上げたのは、カラーホイールを刷新する作業に際して研究デザイン部が考案した一連の設問だ。マジックにはルール・グルが携わっているが、フレーバー・グルもまた同様に携わっているのだ。そしてその五つの問いかけは、次のようなものだ。
・その色の関心事は何か? その色にとっての最終目標は何か?
・その目標に到達するために、その色はどんな手段を用いるか?
・その色の関心事は何か? その色が表象するものは何か?
・その色が軽蔑するものは何か? その色を否定的な方向に駆り立てるのは何か?
・その色が友好色を好み対抗色を嫌うのはなぜか?
・その色の最高の長所と最大の欠点は何か?
●その色の関心事は何か? その色にとっての最終目標は何か?
各所で述べてきたが、色の哲学が循環し展開されていく、その中心にあるのは、その色が世界をどのように見るかということだ。黒の世界観は極めて自己本位【self-centered】だ。本質において黒は、どれほど自分へ影響があるかによって世界を定義付ける。したがって黒にとっては、各個人にはそれぞれ人生における自分の目的がある、ということになり、それはすなわち、自分の人生を可能な限り良いものにする、というものだ。そして黒が関心を持つ限りにおいては、これは公正【fair】なことだ。なぜならば誰もが誰かしらを、自分自身という最重要の関心事のために用心し見張っているからだ。さてこのような生き方は、何と言っても誰かが損をすることで初めて他の者が得をするのだから、多くの犠牲者を生み出すことになるのだが、黒はこれこそまさに世界が弱者を選別する在り方だと考えている。
この目的を完遂するために黒は権力【power】を求める。なぜか? 黒は他の色とは違って、自分が行なっても良いとされる行為に枷を嵌める必要性、そんな必要性を感じていないからだ。黒にして見れば、個人は欲しいものを得るために必要とあらばいかなる手段を用いることが許されるのだ。このことから黒にとって【個人の】成功を真に計る尺度は、自分の望むあらゆる物事を実行する能力だ、ということになる。もし他の誰かのせいで自分の欲求や願望が妨げられているならば、当然ながらそれでは至上の目的に達していないのだ。
黒は次のように考えている。すなわち、どの他の色も世界を変えようと欲している、そして今現実にある世界とは異なったものに仕立て上げようとしている、と。黒の持つ印象では、黒だけが世界をあるがままに受け容れている。人間は、そのことならついでながらヒト型の生き物もだが【humanoids】、本質的に自己中心的な【selfish】存在だ。これ以外の信条は真理に対する承認拒否でしかない。なるほど、もし世の中が現実とは違う仕組みで回るならば、それはとても素晴らしいことだろうが、だが実際はそうでない【世界は現実にある仕組みで回り続けるものだ】。そして黒はこの世界で生きていかなければならない以上、現に存在する掟に従っていくまでだ。その掟は単純で、より強い者に止められるまでやりたいことをせよ、というものだ。
黒の哲学はあからさまで単純だ。黒は欲しいものは欲しいと思うし、それを得るためには必要なあらゆる手段を使うだろう。黒の最終目標は何か? 究極の権力、すなわち全能の力【omnipotence】だ。
●その目標に到達するために、その色はどんな手段を用いるか?
この領域は黒が最も強みを持っていると自覚するところだ。他の色はどれも自身に制限を課している。ある色は肉体において、ある色は知性において、またある色は道徳において。黒はそのようなことはしない。黒は入手可能な道具なら何でも利用する。死、疫病、狂気。黒には禁止領域が存在しないのだ。メカニクスの点から見ると、このことが黒を破壊、とりわけ生物破壊、そして手札破壊の王者たらしめている。
次に、黒は魔法のためならどんな対価でも支払う意思を持っている。ライフの支払い、クリーチャーの生け贄、身体の一部を無作為に捧げること、黒はありとあらゆることをするつもりでいる。メカニクスの点から見るとこれが理由で、マナや起動型能力をより低い代替コストで活用することにおいて、黒の右に出る色はない。犠牲は見合うほど甚大であるが、それがために黒は何でもできるのだ。
また黒には、他者から搾取しようという意思が有り余っている。ある物を簡単に他人から流用できるという状況ならば、自分で労力を費やしてそれを作る理由などない。他人の所有物を横取りすることは、自分の力を証明する一つの手立てだ。これはメカニクスでは≪魂の消耗 / Consume Spirit≫【支払った黒マナの点数だけダメージを与え、自分はライフを獲得する、ドレイン呪文】や≪吸心 / Syphon Mind≫【各対戦相手は1枚手札を捨て、自分はその合計の枚数ドローできる、手札のドレイン呪文】などの効果に現れている。
暗黒陣営の同盟軍によって、黒は危険なクリーチャーの大軍を、そしてそれらは発狂していることも多いのだが、戦場に送り込み指揮することができる。このため黒は、危険性の高い、しかし強力な呪文を使えるのだ。黒はほとんど何でも利用することが可能だが、それには恐ろしい代償が常に要求されている。
これら闇の資源を掬い取ろうとする黒の意思は、それ自身を最も強力な色たらしめている。黒の最大の脅威は他の色からもたらされるのではなく、自身の内側から生じる。黒は最も内紛に陥りがちな色であり、比喩的にも逐語的にも両方の意味で、自分の悪魔に身を滅ぼされがちだ。
●その色の関心事は何か? その色が表象するものは何か?
黒は権力を獲得しようとしている。黒の現在進行中の目的は、欲するものを獲得するためならば必要な手段は何でも利用する、というものだ。このため黒の表象には、【病気や倫理的堕落といったような】人生の負の側面の要素が数多く含まれている。
死。超道徳性【Amorality】。闇。腐敗。疫病。堕落。不純(汚染)。減退。騙し。策略。権謀術数【Machevelian thinking:『君主論』のマキャベリのような思考】。個人主義。計画的な破壊。他者の生け贄。自身の一部の生け贄。恐怖。処刑。自己陶酔。不死。
●その色が軽蔑するものは何か? その色を否定的な方向に駆り立てるのは何か?
黒は自らの全ての注意関心を自分自身に対して集中させる。よって黒が憎むのは、またよりはっきり言えば全く理解できないのは、集団の要求を個人よりも優先させる者たちだ。自分自身のことを気にかけないような者を、いかにしてそうする気にさせることができるだろうか。彼らは脳足りんだが、それも非常に危険なものだ。
黒は次のように解釈している。道徳や精神性といったまやかしの産物によって動機付けられた生き物は、説得を受け容れることも正真正銘の苦悶を経験することもできない、と。したがって黒は、彼らが結束して黒の軍勢を圧倒する前に、先手を取って彼らを襲撃し滅ぼさなければならない。
●その色が友好色を好み対抗色を嫌うのはなぜか?
白の中には、白痴の究極に至った色を黒は見出す。馬鹿げた制約を自分に課さなくても、人生は充分に厳しいものだ。だが白の魔道士は厚かましくも、その馬鹿げた規則を他の全員にも押し付けようとしている。忌々しいことに白の規則は、強者の負担で弱者を守るというものだ。こういった発想は広まる前に抹殺されなければならない。
青の中には、大局を理解する色を黒は見出す。支配という地位を維持することの重要性を青は理解している。もし青が、行動により多くの時間を割き、物事の分析をより短い時間でできれば、なお良いのだが。
赤の中には、自分の最大の関心事を恐れずに実行する色を黒は見出す。強者が弱者を淘汰することの必要性を取り込んだ色だ。不幸なことに、赤の遂行ぶりはあまりにも出鱈目だが。
緑の中には、任務達成のために不可欠な段階を踏むことができない色を黒は見出す。白と同様、緑は無意味な資質に対して非常な価値を置いている。緑の最大の欠点は、生命の価値を盲信していることだ。確かに生命は便利なもので、と言うのも多くの強力な呪文は結局のところ生け贄が必要だからなのだが、しかし緑は度を越している。
●その色の最高の長所と最大の欠点は何か?
黒の最高の長所は、その目的に進むのに役立つあらゆる資源を利用しよう、という意思である。黒はいかなる方策も拒絶しないし、またいかなる機会も見送ろうとはしない。この行動指針の短所は、ともすれば干渉すべきでない物事にも黒はしばしば干渉してしまう、というものだ。黒は、赤が僅差の次点だとはいえ、自滅の可能性が最も高い色だ。さらに、黒の個人主義は他者との関係を疎かにするので、黒は最も孤立した色となっている。行く手に障害が立ちはだかっても、黒には他に頼る者がいないことが多いのだ。
●黒い罠【Touch of Evil:アメリカの映画】
この厄介な問題に言及するのを避けては、黒を論じることはできないだろう。すなわち、黒は邪悪【evil】と同義だろうか、という問いだ。私は否と考える。確かに黒に関連付いた人々は邪悪たりうる。黒は明らかに最も邪悪に陥る傾向を持つ色だ。ほとんどの伝統的なファンタジーの邪悪な悪役は暗黒に堕ちていく。初期のマジックのフレーバーは明瞭に黒の邪悪を強調していた。だが、邪悪に走る高い傾向を持つことと、邪悪であることとは同じではない。以下に説明を続けさせていただきたい。
カラーホイールはゲームのフレーバーに構造を与えるために使われる道具だ。ホイールの各部分は各色として捉えられ、それぞれ異なった哲学を表象している。ある色が何らかの感情や意見を具体的に表現するとき、それはその色に特有のものとして表れる。ともすれば友好色はその表現されたものに共感するかもしれないが、彼らとて自分の共感を公然と表現するわけではない。すなわち黒が邪悪と同義でありえない第一の理由は、邪悪は黒に限られたものではない、ということになろう。
カラーホイール上のどの色にも、各色の哲学の名の下で邪悪な行為を犯す可能性がある。白は国家全体主義を作り出しうる。赤は過失の殺人を犯しうる。緑は物を暴力的に破壊しうるし、青は放蕩な盗みをしうる。邪悪は信条ではなく行動に従事するものなのだ。そして五色すべてが邪悪な物事を行なう可能性を持っている。
第二の理由は、黒が具体的に表現するものの中にも、善良な使い道を見出せるものが多く存在する、というものだ。例えば、黒は個人の重要性を強調する色だ。この個人主義が土台となって、資本主義や合衆国憲法などが作られた。利己的な行動にはそれに見合った善良な用途がある。時として、人には自分自身を実際に最優先させるべき局面が訪れるのだ。
第三の理由は、超道徳性【amorality】つまり道徳とは無関係であることは、不道徳性【immorality】つまり道徳的に好ましくないことと往々にして混同されている、というものだ。黒は道徳に反対しているのではなく、単に道徳は何の意味もないと考えているだけだ。道徳と無関係な者は、道徳的な行為と同様に不道徳的な行為も行なう可能性がある。
確かに、黒の魔道士は邪悪にしばしばなりうる。しかし色としての黒は本質的には邪悪ではない。黒の哲学の影響を受けているからと言って、その者が邪悪な行動を犯すはずだとは必ずしも言えない。そうであるからには我々は、黒が邪悪を表象しているとは言えないのだ。黒は他の色に比べて邪悪と足並みを揃えやすいかと問えば、確かにそうだ。黒は邪悪の潜在性をより大きく含んでいるかと問えば、確かにそうだ。だが、黒は邪悪そのものかと問えば、それは否だ。そしてこれは非常に重要な区別だ。
●黒衣の男たち【Men In Black:アメリカ映画。黒衣の男たちは都市伝説的な陰謀団として暗躍している】
さて、以前から証明されてきたことだが、ここから続くのは色の哲学の記事で最も物議を醸す部分だ。実践演習として我々が行なったのは、まず研究デザイン部の壁に巨大なカラーホイールを設け、次に人物や特徴を示した絵を、フレーバーに合致すると感じる色の部分へ率先して各自貼りつけていく、というものだ。我々が黒だと判断した登場人物たちを数名紹介しよう。
レックス・ルーサー【Lex Luthor:映画『スーパーマン』シリーズの悪役。ある時は悪の天才科学者、ある時は野心的な実業家、またある時は合衆国大統領】――漫画ファンとして私は、黒には超人的なヴィランを含めなければならないと感じていた。私がレックスを選んだのは、彼が他のどの悪役よりも、権力に対する純粋な欲深と渇望そのものの典型を示しているからだ。
バート・シンプソン【Bart Simpson:『ザ・シンプソンズ』の長男坊】――私はシンプソン家から毎回選出してきたので、その実践を今回になって打ち切る理由はどこにもない。バートの動機は純粋で自発的なものであり、文字通り一家の問題児だと言える。
ダフィー・ダック【Daffy Duck:ワーナーブラザーズの映画『Looney Tunes(邦題:ルーニー・テューンズ)』に出てくる黒いアヒル】――ダフィーは自分の優先事項が全て彼自身であると極めて明確に表現している。彼はアニメの登場人物が持ちうる限りの貪欲さと自己本位性とを有している。余談だが、ドナルド・ダック【Donald Duck:ディズニーアニメのアヒル】は自身の抑え切れない激情のために黒赤に分類されたが、もしその赤の要素がなければこの枠にはドナルドが収まっていただろう。さて私がダフィーを黒に加えた理由は、黒の哲学の主唱者で好感の持てるような人物を作ることは可能だろうか、としばしば尋ねられるからだ。ダフィーが無数のアニメ作品の中で第一線級であり続けたように、それは可能なのだ。
ジョージ・コスタンザ【George Costanza:アメリカNBCのドラマ『Seinfeld(邦題:となりのサインフェルド)』の登場人物。Wikiによると「ハゲで短気で卑屈、仕事を始めてもすぐに問題を起こしてクビになってしまう」らしい】――『となりのサインフェルド』ファンなら全員が証言していただけるだろうが、ジョージの取る行動はすべてジョージに関することだ。献身的な婚約者を不慮の死に追いやることになろうと、贈り物を買わずに済ませるために偽の慈善活動を企てることになろうと、自分自身という目的を前進させる名目で、ジョージは大いなる深淵に転落していくわけだ。
●暗転【Fade to Black:映像が終わる際の暗転をそのまま意味している。またメタリカ(Metallica)の作品の中に「Fade To Black」という生死を歌ったものがある】
さて、我々は色の週間を完結させる道程の八分目に達したことになる。ここで言及しておくが赤の週間は、青と黒の間隔よりかはもう少し早く迎え入れられるようにする予定だ。
来週も参加していただきたい。インターネットの至る所に立っている「マローは気違い」スレにあつらえ向きの燃料を投下するつもりだ。
その時まで君たちが、自分を第一に優先させるのは時として良い考え方だ、と学んでいることを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
今回訳出した記事にも公式訳が存在します。http://web.archive.org/web/20040302110822/http://www.hobbyjapan.co.jp/magic/articles/files/20031126_01.html
原文も公式訳も随分と昔の記事ですので、新しく訳出してももう了承していただけるだろうと思っております。
原文も公式訳も随分と昔の記事ですので、新しく訳出してももう了承していただけるだろうと思っております。
≪ドモ、アリガト、ミスター・ロボット――「問題は簡易明白であって……」≫
原題:Domo Arigato, Mr. Roboto ―― "The problem’s plain to see..."
Mark Rosewater
2003年9月29日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr91
【原題はスティクスの歌「Mr. Roboto」の冒頭の歌詞である】
アーティファクト・クリーチャーの週へようこそ! ミラディンの封切りを記念して、今週我々は無色クリーチャーに関して話していこう――もっともミシュラランドは除くが。私はデザイン特集の執筆という光栄を授かっているので、今週の連載記事「メイキング・マジック」は次のような流れで展開していきたいと思う。すなわち、まずアーティファクト・クリーチャーやアーティファクト一般を設計することの困難さについて論じ、次にミラディンのアーティファクト・クリーチャー数体の図案を一瞥していく、という流れだ。
●ノームに勝る所はない【原文は「There’s No Place Like Gnome」で、慣用句「There’s no place like home(我が家に勝る所はない=住めば都)」の語感を真似ている】
私が思うに、企業秘密を打ち明けることから始めるのが良さそうだ。優秀なアーティファクトを設計するのは非常に、非常に困難だ。なぜか? 理由はいくつかある。
理由1:アーティファクトはカラーホイールと相性が良くない――アーティファクトの最も重要な面は、それらが携えていないものから生じてくる。すなわち私の言わんとしていることは、有色だ。カラーホイールがマジックにとっていかに決定的であるかについて、私は数多くのコラムを費やして説明してきた。アーティファクトはこれまでの説明に対して重大な懸案を投げかけてくる。カラーホイールは小さな仲間内の集まりであり、アーティファクトは招かれざる客にしか過ぎないのだ。
もっとも、研究デザイン部がアーティファクトをカラーホイールへ差し込もうと試みなかった、と言っているのではない。我々は≪石臼 / Millstone≫【ライブラリー破壊用のアーティファクト。現在では青黒にもしばしば現れる能力】や≪吠えたける鉱山 / Howling Mine≫【各プレイヤーに毎ターン追加ドローさせるアーティファクト。現在では有色の亜種も多い】等のいくつかの能力を、主としてアーティファクトに付託させようとさえしているくらいだ。だがこれは木に竹を接ぐようなものだ。アーティファクトの定義は、それらが全てをこなすことができるという点にある。無色であることがそれら自体を自由たらしめているのだ。昔の、本当に昔のサタデー・ナイト・ライブ【Saturday Night Live:アメリカNBCの長寿コメディバラエティ番組】から引用すると、「祝福であると同時に呪いでもある」ということだ。
祝福は、アーティファクトが持つ制限は非常に小さいということだ。呪いは、アーティファクトが持つ制限は非常に小さいということだ。これまでの数多くのコラムで説明してきたが、制約こそが創造性を育むのだ。広大に開けた領域は、むしろ人の気を折れさせるのだ。
加えて、アーティファクトは確かにカラーホイールを利用しないが、それらはやはりホイールの先端部分に踏み込まないよう距離を取って置かれなければならない。このことから研究デザイン部は、アーティファクトに関する包括的な規則を制定した。すなわち、アーティファクトは何をする際にも、その役割を最も苦手とする色よりも上手にすることはできない、という規則だ。例えばクリーチャー破壊のアーティファクトは、どんな緑デッキにも入るくらいにまで強力であってはいけないのだ。
公平を期して、特にセットの半分がアーティファクトのような場合には、研究デザイン部はこの規則に対して少し融通を利かせている。だが共通の精神はいずれの企画にも広大に行き渡っている。この問題が顕著なのはアーティファクト・クリーチャーにおいてだ。例えば、青のクリーチャーは明らかに緑や白よりも数段見劣りする。そしてアーティファクト・クリーチャーは青のそれに勝らないようになっている。
その上で、デザイナーは何をすべきか? 鍵は欄外の創造性に眠っている。有色の能力を横領させないようにする最善策は、特定の色に明らかに還元することができない、奇抜な能力を見つけ出すことだ。これは容易ではない。先に「非常に、非常に困難だ」と書いたのは、まさにこのことだ。
理由2:アーティファクトはフレーバーの犠牲者だ――私が思うに、プレイヤーがアーティファクトを好むということの重要な要因は、それらが概念からして非常に論理的だからという点にある。それらは物であり、魔法の道具であり、理屈の通るものだ。このことが発案に対して興味深い束縛をもたらす。アーティファクトが適正なものだと「感じる」ようにさせるために、そのフレーバーとメカニクスは明確に結びついている必要がある。エンチャントはどうか? 何なりと可能だ。それらは魔法だ。どんな風にでも取り繕える。プレイヤーは何の期待も持たない。だがアーティファクトはどうか? アーティファクトは現実味を帯びているため、厳密に理屈が通るべきだと言えるのだ。
もっとも、どのアーティファクトも完璧に理屈が通っている、とまで言っているのではない。実際のところ吠えたける鉱山とは何だろうか【という疑問を考えればよい】。だが最良のアーティファクトは首尾一貫した論理を含んだものだ、と言いたい。私の確信するところでは、これはほとんどのプレイヤーが考察する点ではないが、アーティファクトを聡明な作りで動作させる重要な点の一つだ。そして繰り返しになるが、これを的確に行なうのは「非常に、非常に困難」だ。
理由3:アーティファクトには「気違いじみた」という評判がある――理由1から設計者は、自分の手法から外れることでより革新的になる、そして、プレイヤーがアーティファクトに見出すような種類の効果を呈しうる、というわけだ。このことと以下の事実、すなわち、アーティファクトはレアに偏りがちだという事実、ついでながらコモンのものはほとんどのセットに存在せず、アンコモンのものは汎用性を重視しているのだが、この事実と君たちが、アーティファクトが他の普通のカードよりも「異様」だというような自己成就的な予言を作り出したと言えよう。
ミラディンでこの予言と対峙した我々は、意図的にアーティファクトの入る稀少度の閾値を引き下げた。すなわち、我々は普段ならアンコモンになるだろうものをコモンに指定し、普段ならレアになるだろうものをアンコモンに、そして残りの格別に複雑なものをレアにした。これが理由となって、例えば、ミラディンのアンコモンのアーティファクトが、普段のセットならばレアだったろうにと君たちの視点から見なされうるのだ。より風変わりな趣旨へと向けられたこのような期待感は、アーティファクトの企画をなおいっそう複雑にさせる重圧となっている。
理由4:ミラディンの半分はアーティファクトでできている――デザインチームが強く感じていた必要性は次のようなものだった。我々が望むような環境を作り出すためにも、ミラディンには多数のアーティファクトカードが収録されなければならない、と。平均的なセットには40枚のアーティファクトが収録される――ここ数年の貧弱なアーティファクトの水準は別の話だ。ミラディンには160枚以上のアーティファクトが収録されるのだ! これは四セット分のアーティファクトに相当する量だ。すなわち設計すべきアーティファクトが大量にあることを意味する。【訳注:350枚強のセットに限ってアーティファクトの数を見ると、ICE45枚、MIR39枚、TMP39枚、USG33枚、6ED48枚、MMQ30枚、INV22枚、7ED39枚、ODY15枚、ONS6枚となっている。ミラディンは142枚だが、親和や≪空僻地≫≪エイトグ≫等も足していくと160枚に達しそうではある】
事実、私ではないが研究デザイン部の中の数名は、興味深いアーティファクトをそれほどの量も作り出せるだろうか、と懐疑的だった。ご覧のとおり、我々は彼らの誤りを証明したわけだ。少なくとも私はそうできたと願いたい。
理由5:アーティファクト・クリーチャーは他のいかなる制限を持たない――全てのカードタイプの中では、研究デザイン部はクリーチャーを他の何よりも多く作っている。したがってクリーチャーは他のカードタイプよりも遥かに多く印刷されている。これはアーティファクト・クリーチャーの発案をいっそうさらに難しくしている。開拓すべき未踏の領域があまり残されていないからだ。
幸運にも、研究デザイン部には新鮮な挑戦を大好物とする面子が揃っている。そしてミラディンに、我々は手一杯に取り組んだ。
●クリーチャー特集
さて私の説教も充分だろうから、図案の話に進むとしよう。以下に紹介するミラディンのアーティファクト・クリーチャー数体は、どのように生まれてきたのだろうか?
≪銀のゴーレム、ボッシュ / Bosh, Iron Golem≫【8マナの伝説のアーティファクト・クリーチャー。トランプル持ちでゴーレムでもある。赤マナを支払ってアーティファクトをダメージ源に変換できる】――通常、クリエイティブチームはどんな伝説のクリーチャーが物語に登場するかをデザインチームに知らせる。その通達された情報を用いて、デザインチームはフレーバーに合致したカードを考案していく。これに関してボッシュは非常に率直だ。彼はアーティファクトを壊すのが好きな、畏怖の念を起こさせるゴーレムだ。企画者と開発者はいくつもの異なる草案を試してみた。最終的に開発チームが採用した能力は、デザインチームがレアの赤い「猿」――≪ゴリラのシャーマン / Gorilla Shaman≫【アーティファクト破壊能力を持つ赤のクリーチャー。ヴィンテージで軽量マナアーティファクトを次々割っていくため、別名はモックス・モンキー】――にかつて宛がったものだった。ご存知の通り、マジックの世界における猿は、どういった理由か定かでないが、確かにアーティファクトを酷く嫌っている。ともあれ、この掴んで投げ飛ばすというフレーバーが非常に赤らしいと感じられたので、このカードには赤い起動型能力が与えられることになった。
≪機械仕掛けのドラゴン / Clockwork Dragon≫【7マナのアーティファクト・クリーチャー。+1/+1カウンターが6個置かれて出てくる。戦闘の都度カウンターが取り除かれるが、マナを支払えば増強できる】――アルファ版が初めて世に出たとき、カードに熱中したりカードを分析したりするような集まりは、まだ作られていなかった。インターネットも初期の段階にあった。したがってマジック黎明期にいくつかあった「熱くて人気ある【"hot"】」カードは、試合での価値よりも見た目の価値の方を遥かに伴っているものだった。そういったカードのひとつが≪機械仕掛けの獣 / Clockwork Beast≫だった【機械仕掛けクリーチャーの元祖。+1/+0カウンターを用い、カウンター配置のタイミングがアップキープに制限され、カウンター配置の上限は7個までとなっている】。もし≪機械仕掛けの獣≫、あるいはこれまた怪しげな≪蜂の巣 / The Hive≫【5マナとタップで1/1飛行トークンを生み出す5マナのアーティファクト】が欲しいなら、ブースターパックを開封する必要があった。誰一人としてこれを交換に出すほど狂気沙汰ではなかったからだ。
私が記憶からこの情報を引っ張り出したのは、ミラディンには数体の機械仕掛けクリーチャーが収録される予定だと知らされたときだった。メカニクスは+1/+1カウンターを使用するように変更されるとも伝えられた。当然これが意味したのは、我々はレア枠に機械仕掛けクリーチャーを設けなければならない、ということだった。そして君たちがレアのクリーチャーと言われて思い浮かぶのは、おそらくドラゴンだろう。こうして≪機械仕掛けのドラゴン≫は生まれたのだ。また、セットを象徴するドラゴンがアーティファクト・ドラゴンになるということで、私は満足していた。
マナマイアのサイクル【2マナ1/1。各色に用意されたアーティファクトのマナクリーチャーたち】――すなわち緑の≪銅のマイア / Copper Myr≫、赤の≪鉄のマイア / Iron Myr≫、黒の≪鉛のマイア / Leaden Myr≫、青の≪銀のマイア / Silver Myr≫、白の≪金のマイア / Gold Myr≫は、ミラディンの企画のまさに初期段階で作られたものだ。その時から何一つとしてカードに変更は加えられていない。いや、なるほど確かに、これらはノームからマイアへと変わったが、その他のマナコストから能力やパワータフネスに至るあらゆる点は、実際のところ最初から変わっていない。
≪映し身人形 / Duplicant≫【戦場に出たときクリーチャー1体を追放し、それのパワー、タフネス、クリーチャータイプをコピーする。攻防一体のアーティファクト・クリーチャー】――このカードは開発の段階で作られた。インターネット上の多くのプレイヤーが惜しんだところによると、これがパワー、タフネス、クリーチャータイプだけでなく、完璧にクリーチャーをコピーできれば良かったのに、ということだった。なるほど、このカードは実際そのようになるはずだった。完璧なコピーこそが、このカードが作られたとき開発チームの念頭にあったものだった。しかし、そのようなメカニクスを【ミラディン発売当時の】ルールで支えることはできなかった。理由を知りたければ、≪Vesuvan Doppelganger≫【アップキープごとにコピー先を選びなおせる青のクリーチャー。ルールもさることながら、日本語オラクルが非常に難解】に関するルールを参照していただきたい。結果、開発がかなり後期に差し掛かってから、このカードに変更が施されたのだ。
≪金属カエル / Frogmite≫と≪マイアの処罰者 / Myr Enforcer≫【双方とも親和(アーティファクト)持ちのアーティファクト・クリーチャー】――私がこれらを考案したのは、一群の親和カード作成の第一段階だった。これらはファイルに入れられ、その後変更されることはなかった。私は親和(アーティファクト)を持つアーティファクトをいくつか収録させたいと思っていた、というのも潜在的に何のコストもかからないようなカードを作るには、これしか方法がなかったからだ。閑話休題、これらはかなり優秀だ。私が思うに君たちはこの2枚をトーナメントで見かけることになるだろうから、明確に調べ上げておくべきだ。
≪ゴブリンの戦闘車 / Goblin War Wagon≫【マナを支払わないとアンタップしない、中堅のアーティファクト・クリーチャー】――このカードの視線の先には、アラビアンナイトの≪真鍮人間 / Brass Man≫【マナを支払わないとアンタップしない、黎明期の小型アーティファクト・クリーチャー】がある。ゴブリンという単語は赤のような響きを持つので、この単語をアーティファクトに使うことの是非に関しては、いくらかの議論があった。
≪地ならし屋 / Leveler≫【5マナ10/10のアーティファクト・クリーチャーだが、戦場に出たとき自分のライブラリーをすべて追放しなければならない】――このカードは、私が5マナで10/10のアーティファクト・クリーチャーを欲しいと思ったこと、そこから始まった。なぜそう思ったのか、私にも分からない。あるいは小洒落ているように思えたのかもしれない。だがこれを実現するには何らかの代償が、それも取るに足らないものではなく、非常に現実的なものが必要だった。それでいて私は、その代償を単純なものにしたかった。自分のライブラリーをゲームから取り除く【追放する】ことには、どういった理由だろうか、非常に早く行き着いた。またマナマイアのサイクルと同様に、このカードは初期の発案で作られ、そのままの状態で実際の印刷に至った。
≪磁石マイア / Lodestone Myr≫【アーティファクト1つをタップするごとに+1/+1修正を得る、トランプル持ちのアーティファクト・クリーチャー】――このカードは草案ではマグネトロン【Magnetron:磁電管】として通っていたが、着想となったのはテンペストの≪リモコン飛行機械 / Telethopter≫だ【クリーチャー1体をタップすることで初めて飛行を得る、フレーバー溢れるアーティファクト・クリーチャー】。興味深いことに≪リモコン飛行機械≫は私の父ジーンの発想によるものだった。さて、他のアーティファクトをこのカードの糧にするという考えは、私のお気に入りだ。発案の段階では我々は【≪磁石マイア≫の起動コストに充てられる】アーティファクトを非装備品のものに限定していた。その理由は次のようなものだった。プレイヤーは装備品をオーラと同等に扱い、クリーチャーと一緒にタップしてしまう傾向があった、そのため、装備品のタップ状態やアンタップ状態を切り替えるのは混乱を招くと考えられた、というものだ。開発の過程で、この制限は洗練を欠くもので不必要に弱体化させるものだと判断され、どんなアーティファクトでも能力の起動に充てられるように戻された。
≪マイアの精神使い / Myr Mindservant≫【自分のライブラリーを切り直す起動型能力を持つ】――掲示板で数名の書き込みが尋ねていたことだが、なぜこのマイアは対戦相手のライブラリーを切り直させてはくれないのか。もしそれができれば≪心因検査器 / Psychogenic Probe≫【同ミラディンのアーティファクト。ライブラリーを切り直したプレイヤーに2点のダメージを与える】とコンボになったのに、と彼らは言うのだ。この書き込みに対しての回答は、次のようになる。このカードは当初はそうなっていたが、私が開発チームを説得して翻意させたのだ、と。ご存知、私は初めて開発チームに参加したアライアンスで、≪Soldier of Fortune≫【雇い兵。赤のクリーチャーで、こちらは対象のプレイヤーのライブラリーを切り直す起動型能力を持つ】というカードを創案した――少なくとも私の覚えでは、私がこれを作ったはずだ、もし私の記憶違いならアライアンスのチームの誰かが報せてくれるだろう。そして、私はこのカードは失敗だったと常々思っていた。対戦相手に継続的に切り直しを強いることは、迷惑で、さもしい行為だ。何らかの効果に達するまでの過程で、切り直しを一度要求するようなカード、そのようなものならば私は気にかけないが、反復可能な効果としての切り直し強制は粗野の極みだと言えよう。何らかの戦略的な優位性を得るため、自分のライブラリーを切り直したい、というのは結構だ。だが継続して対戦相手のライブラリーを切り直したい、というのはいただけない。私が関与する限り、そのような効果は制限するつもりだ。
≪ペンタバス / Pentavus≫【1マナごとの起動型能力で、自身の5つの+1/+1カウンターと1/1トークンを自在に変換できるアーティファクト・クリーチャー】――そもそもデザインチームは≪テトラバス / Tetravus≫【後述】をミラディンに再録するつもりだった。何と言っても、≪トリスケリオン / Triskleion≫【自身の3つの+1/+1カウンターを1点ダメージに変換できる、0/0のアーティファクト・クリーチャー】と≪テトラバス≫【アップキープ開始時の誘発型能力で、自身の3つの+1/+1カウンターと1/1トークンを変換できる、1/1のアーティファクト・クリーチャー】は私の中ではずっと一対だった【≪トリスケリオン≫≪テトラバス≫ともにアンティキティ初出で、揃って第4版に再録されている。ミラディンには≪トリスケリオン≫だけが再録されている】。ところが≪テトラバス≫には、それが生み出すテトラバイト・トークンにはエンチャントできない等、いささか無粋な要素があまりにも多かったので、我々はこれを作り直すことにしたのだ【他の問題点は、2つの機能の誘発型能力が1つにまとめられていること、名前は4を意味するテトラなのにカウンターとトークンは3つで紛らわしいということ】。作品を改良するために、我々は5つの+1/+1カウンターを用いることにした。カード名も論理的に対応するものになった。
≪白金の天使 / Platinum Angel≫【勝利条件に手を加えるアーティファクト・クリーチャー。自分は敗北できず、対戦相手は勝利できなくなる】――私は称賛が相応しいところに対しては、やはり称賛を贈りたいと思う。このカードはデザインチームが作ったのではない。これを作ったのは、開発チームのブランドン・ボッジ、ランディ・ビューラー、エレイン・チェイス、ブライアン・シュナイダー、ヘンリー・スターン、そしてブライアン・ティンズマンだ。私はこれは素晴らしい仕上がりだと思うし、この見事な仕事ぶりに敬意を表したい。
●それらを作れば……【原文「If You Buid Them...」は、「If you buid them, they will come.」の前半部。元々は映画「フィールド・オブ・ドリームス」内の台詞「If you buid it, he will come.」らしい。「それを作れば、彼が訪れるだろう」】
本日のコラムで、アーティファクト・クリーチャーの設計に対する理解が深まっていただけたなら幸いだ。ここまで見てきたように、これらを立案するのは、人が最初に思い浮かべるよりも少しばかり難しいことだ。
来週もまた参加していただきたい。ミラディンの企画の背後にある内情に関して、骨の折れる旅路を続けていくつもりだ。
その時まで、君のマイア軍団が対戦相手を蹂躙することを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
【翻訳】The Value of Pie――『カラーパイの価値』
2015年2月17日 MTG翻訳:色の哲学 櫻さんがとても綺麗なので、今度トリコロールのEDHデッキ組みます。
≪カラーパイの価値――色の定義の整備≫
原題:The Value of Pie ―― Maintaining the identity of colors
Mark Rosewater
2003年8月18日
http://archive.wizards.com/Magic/magazine/article.aspx?x=mtgcom/daily/mr85
先週私は『忠実なる青』でカラーパイにおける青の役割に関して述べた。『緑でいるのは楽じゃない』、『白光満ちる大通り』から続いてるが、このような色の記事を書くたびに、私の元には数多くのプレイヤーから意見が寄せられる。中には次のような、本質に関わる反応もあった。「もうカラーパイは飽きた。研究デザイン部はカラーパイという小さな箱に何もかも詰め込もうという妄執に囚われているが、それがまさにゲームを台無しにしているのだ」
さて今回は興味深い議題ではないだろうか。私はカラーパイがマジックのゲームの中心だと思っている。私の考えでは、カラーパイはマジックの動力の核心だ。「ゲームを台無しにする」と言われることもあるが、実際にはそこから程遠いものだ。私は今日のコラムで、なぜカラーパイがそれほどまで重要なのか、詳細に説明するのに専心しようと思う。願わくばこれが君たちの多くにとって、私の理解と同じ立場からカラーパイを見るのに役立たんことを。
それでは始めよう。カラーパイの素晴らしいのは何たる所以か?
●理由1――カラーパイは制約を課す
私がこれを第一に挙げたのは、次のような理由からだ。つまり、私が思うにカラーパイを誹謗中傷する者の多くは、カラーパイによって課された制約をその最も叩くべき点である、と見なしているのだ。何と言っても、制約のせいでプレイヤーは自分のやりたいことを思うがままにできない。これは悪いことだ、と。しかしそうだろうか? ゲーム設計者にとってはそうではない。周知のことだが我々の仕事は、君たちのライフを危うくすることだ。
説明を続けさせていただきたい。良いゲームを設計するには、対象とする購買層が遊びたいと思うのはなぜか、これを理解する必要がある。そして次は、その目標に合致するようにゲームを設計しなければならない。マジックは戦略ゲームである。戦略ゲームの目的は、プレイヤー同士の知的刺激だ。では我々はどのようにそれを実現していくと言うのか? 我々はまず明確な目的を設定し、次いでそこに至るまでの過程に障害物を投げ込んでいる。興味ある人のために付け加えておくと、もしこの「プレイヤー」を「主人公」に置き換えれば、物語に対する作家の手法と同じと言える。
さて、障害を乗り越えることが戦略ゲームの楽しみだ。――「あぁ神様、なんてことでしょう。私のライフは1まで減らされ、彼はクリーチャーを4体並べている、そして私の場には山が1つだけ……」「では、君の負けのようだね」「いいえ、私が勝つのよ。貴方はこれから何が起こるか、想像もつかないでしょうね」――このように制約は、短期では欲求不満を強めるが、長期では喜びにとって決定的なものだ。
「いやいや、ちょっと待てマロー」と君たちの多くは言っているだろう、「俺には対戦相手がいて、そいつが障害物なんだ。だからゲームそのものに邪魔物を入れる必要は感じられねぇな」と。私は君たちとは反対の立場から論じよう。戦略ゲーマーが欲するのは知的刺激だ。そのためにゲーム設計者は、問題解決を困難なものにしなければならない。そうでなければ充分な試練にならない。これを完遂するのに鍵となる要素は、課題を解決する際に利用可能な道具を制限しておくことだ。
説明のために私の経験談を引き合いに出すが、ご容赦願いたい。大学二回生のとき、私は寮の学生自治体に参加していた。そういった役職の人間として、多数の「建築精神」な活動に関与していた。その活動の一つに、帰郷パレードに向けて各寮が用意した水上フロート【float:いかだ?】建設というものがあった。さて寮自治体はすっかりこの発案に乗り気でなかったので、企画に対して非常に少量の予算しか投じなかった。私の記憶が正しければ、数百ドルだ。他の寮は数千ドル以上も費やしていたのに、我々は数百ドルだったのだ。
私は夜九時の会合に出席し、そこでチーム全員で六人だということを知った。フロートは来たる大イベントの日の前夜、夜通しで建設されるのだ。他のほとんどのフロートは五十人以上が携わっていた。フロートを作るために我々に与えられたのは、十二時間の時間と、八分の一ほどの人手と、そして十分の一ほどの予算だ。さて、我々は敗れただろうか? いや、我々は勝った。君たちにはどうしてそうなったのか、信じがたいことだろう。ともかく我々はその夜の内に、資材の不足を埋め合わせるような独特な発想を見出すことができた。その発明的な手法とは建設作業を見直すものであり、我々はむしろ印象的なフロートを組み立てたのだ。私にとっては楽しいものだった。
翌年になって大学に戻ると、我々の寮は他の寮と合同でイベントに参加することになっていた。つまり我々は、今度はうなるほどの資金と人手を企画につぎ込んだのだ。我々はあらゆる資源に対して精通し利用可能な立場にあった。分かるだろう? 私は戦略ゲーマーだ。私はこういった状況は嫌いだった。ただあらゆる物が与えられている、そういった状況を私は望んでいない。私は勝利を受け取るに値するような試練を乗り越えたいのだ。
これが、カラーパイが非常に重要であることの理由だ。ゲーム設計者として私は、プレイヤーが勝利へ向けて働きかけるように仕向けようと思っている。もし全ての色が全ての効果を使うことが可能ならば、ゲームがこれほど楽しいものには決してならなかっただろう。どの色にも弱点が設けられており、対戦相手はそこに付け入ることが可能だ。だがそれによって、君たちに創造的な解決策を見出す余地が残されていない、ということにはならない。事実、そういった解決策を探し出すことがマジックそのものだ。
●理由2――カラーパイはフレーバーを定義する
研究デザイン部はフレーバーを嫌っている……そんな神話がまことしやかに囁かれている。思うにこの神話が生まれたのは、いくつかの私の記事が原因だろう。あるとき機能と雰囲気が競合したが、研究デザイン部は機能の方を味方した、というような話題を私は書いたからだ。このことから一部のプレイヤーは、研究デザイン部は機能をより重要視している、という結論に一足飛びに行き着いた。だが私の推測では、フレーバー嫌いは軽々とした足取りで乗り越えられるものだ。
研究デザイン部はフレーバーを嫌ってはいない。実際、カラーパイは、研究デザイン部がフレーバーの価値をいかに強く認識しているか、その証拠だと私は考えている。先述したことだが、カラーパイがこのゲームの核心にあると私は確信している。そしてカラーパイは、雰囲気が機能に優越する事態の一例なのだ。雰囲気は実際のところ機能よりも僅かに厳密だ。カラーパイの中においては、雰囲気が機能を規定する。できることとできないこと、それは雰囲気が機能に対して命じるのだ。
これはカラーパイの最も重要な役割の一つだ。つまり各色の哲学を明確にし、次にメカニクスをそれに沿って引き曲げることで、フレーバーをゲームへと拡張するのだ。マジックにおける色が個性豊かな理由の一つは、ゲームのあらゆる側面に色が行き渡っているからだ。
【訳注:欄外の、追記的な記述である――】ちなみにカラーホイールは、各色のフレーバーや対立を説明する図表のことだが、カラーパイと同義に使われたり使われなかったりする。この二つは非常に紛らわしい。それも最もで、我々はウェブ上にこれらの差異に関して詳述した文章を公表したことがないのだ。【訳注:老婆心ながら訳者は、カラーパイは色の役割で、カラーホイールはカラーパイを円形に表現したもの、と理解している】
●理由3――カラーパイはゲームバランスを創る
ゲーム設計者のまた別の目的は、そしてそれはゲーム開発者にとっても重要なものだが、それはゲームバランスを保つことだ。マジックのデッキ構成を定義する特色の一つとして、常勝無敗の戦略は存在しない、という要素がある。いかなるデッキの元型であっても、弱点を持っている。もし対戦相手が何を使っているかを知れば、そのプレイヤーは彼を打ち破ることができるはずだ。
これをカラーパイに対して実現する手立ては何か? 実際のところ、かなりの道筋がある。先述したように、どのデッキにも勝ち目が見出されるようにするために、各デッキは弱点を持たなくてはならない。これがカラーパイの生じて来たる所以だ。カラーパイはその色のできることだけでなく、その色のできないことをも示す。こうして各色に組み込まれた弱点は、ゲームの根幹に位置する。例えばどの色にも、その色では対処方法が限られているようなカードタイプが存在する【黒にとってのアーティファクトやエンチャントであったり、緑にとってのクリーチャーであったり】、といったものだ――青はどんな呪文にも対抗できるので当てはまらないように見えるが、青はパーマネント一般を破壊する術は持っていない。
また各色には、色の特徴が活かされないようなプレイングのやり方が存在する。例えば赤は、長期的にカードを得られるような色ではない。赤はゲーム序盤における強さを持っているが、終盤でガス切れに陥る傾向にある。ここでもまた、設計者と開発者は、ゲームの形を整えるための道具として弱点を利用する。いかなる色であっても見境なく環境を荒らし尽くすことはできない、というのも、ゲームそのものの中に安全装置が組み込まれているからだ。実際に、過去に研究デザイン部が大きな問題をやらかした時は、ある色にその本来の役割を越えて能力が与えられた時でもあったのだ【アカデミーというマナ加速を与えられた青のように】。研究デザイン部がカラーパイを軽視すると、我々は後で必ず痛い目に遭わされているのだ。
●理由4――カラーパイは個性を加える
普段の私は【具体的な】話題について話しながら議論を進めていく。だがここでは趣向を変えて、私が意図するものを直接示す方が君たちにとって分かりやすいだろう。そこで尋ねるが、君たちはカラーパイの存在しない世界で暮らしたいだろうか? そういった世界では、全ての基本地形がどの色のマナでも生み出せる、という仮定の上でデッキを作ることになる。この一つだけを取っても、カラーパイのない世界がどんなものなのか、垣間見ていただけるだろう。しばし想像の中で、その世界のゲームを一通りプレイしていただきたい。その間私も待つとしよう。
さて、もう終わっただろうか? ゲームはどんなだっただろうか? 最初の内は、普段できないような目新しいことをしているために、楽しいと感じたかもしれない。だがしばらく経つと、それは少し単調なものになっていっただろう。なぜか? まず、【カラーパイがないために】カードの多様性が減る。そして各デッキは、利用可能なカードの中から最も効果的なものを選んだだけ、というものになる。間もなくデッキの元型論は総崩れになっていく。白ウイニーもなければ、緑ストンピィもない、ただ単に速攻クリーチャーデッキが残るだけだ。やがて、デッキが一つのまとまりとしては結びつきの無いものに見えてくる、というのも、デッキ内のカードには共通の主題が存在しないからだ。君たちが最後に行き着くのは、ごく少数の種類の、非常に能率的ではあるが雰囲気の薄い、そういうデッキだ。すなわち君たちは、個性の存在理由において能率性を得たのだ。
個性の根底、そこにカラーパイの最も重要な部分がある。そう、マジックを単色で作ることも可能だろうが、それだとゲームの幅は狭まってしまうだろう。五色を有していることは、各色がそれぞれ個性を持っていることを意味する。そうであるからには、カードがどのような見た目と響きを持っているか、カードがゲーム上でどのように作用するか、これら両方の点で各色は明白に異なったものでなければならないのだ。
私があまりにも頻繁に思い知らされることだが、世間一般では各色のできることを狭めるための手段としてカラーパイを捉えられているようだ。私はカラーパイを、各色の表象を浮き彫りにするための手段として理解している。カラーパイは色の価値を減じるのではなく、むしろ加えるのだ。黒が緑からかけ離れているほど、その良さは増すのだ。どの色も互いに他色の微細な影絵にしか過ぎない、私はそういった色にしたいと思わない。むしろ、各色が自分の表象に関して深刻なほどに独特で個性的であってほしい。以上が、カラーパイがゲームに付け加えるものだ。
●バイバイ、アメリカン・パイ【ドン・マクリーンの歌「American Pie」に「bye-bye, miss american pie」というフレーズがある】
私がカラーパイに対して非常に熱心に考えているのだと、分かっていただけただろう。マジックの成功は、それ自身の独自性の中に帰せられると私は思っている。本日の私のコラムが君たちに次のような見解、つまり研究デザイン部がカラーパイに行なった貢献に対してのより好意的な見解、を与えられたなら幸いだ。ご存知の通り、一瞥しただけでは見えないものが、カラーパイにはあるのだ。
来週もご覧いただきたい。何人かの個性溢れる人物を紹介するつもりだ。
その時まで君たちが、他人とは違うことの重要性を理解していることを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
【翻訳】True Blue――『忠実なる青』
2015年2月10日 MTG翻訳:色の哲学 ここに訳出した記事、『True Blue』は、既にタイ屋さんによって翻訳されています。http://web.archive.org/web/20070630051352/members.at.infoseek.co.jp/braingeyser/04/0412.html
原文、タイ屋さんの翻訳、ともに発表から長い年月が経っていますし、またカラーパイに関する文献も増えましたので、新たに訳出するのも了承していただけるだろうと期待する次第です。
原文、タイ屋さんの翻訳、ともに発表から長い年月が経っていますし、またカラーパイに関する文献も増えましたので、新たに訳出するのも了承していただけるだろうと期待する次第です。
≪忠実なる青――頭でっかちのモヤシ人間≫
原題:True Blue ―― All brains, no brawn
Mark Rosewater
2003年8月11日
http://archive.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtgcom/daily/mr84
【形容詞として「true blue」は「忠実」を意味する】
青の週間へようこそ! これはマジックの五つの色に専心する一連のテーマ週間の三番目のものだ。我々は既に、緑と白に関しての週間は設けた。各週を通じて私はコラムで、これまでの『緑でいるのは楽じゃない』と『白光満ちる大通り』のことだが、その週の色のフレーバーと哲学を説明してきた。今回私は青魔法の世界を考察していこう。
●パイの取り分は常にあるものだ
カラーホイール上での作業を通じて、我々はマジックの五つの色それぞれに関して以下の問いを設定した。
・その色の関心事は何か? その色にとっての最終目標は何か?
・その目標に到達するために、その色はどんな手段を用いるか?
・その色の関心事は何か? その色が表象するものは何か?
・その色が軽蔑するものは何か? その色を否定的な方向に駆り立てるのは何か?
・その色が友好色を好み対抗色を嫌うのはなぜか?
・その色の最高の長所と最大の欠点は何か?
●その色の関心事は何か? その色にとっての最終目標は何か?
各色の哲学は、その色の世界の見方に由来する。青が注視し見出すのは、機会だ。青にとって世界は資源の集まりであり、個人はそれを用いることで、自分が望むあらゆるものに変容することができる。各人は無地の粘板岩として生まれる。人生の目的とは、自分が何になりたいか、そしてそこに到達するためにはどうするか、それらを学ぶことだ。
これを完遂するために、青の魔道士は世界で最も重要な資源に価値を見出すようになる。すなわち情報という資源に、だ。世界における自分の居場所を見つけ出すために、魔法使いは可能な限り多くの知識を集めなければならない。情報という手段を自在に使いこなすことができれば、彼はありとあらゆる問題に対する回答を探し当てることだろう。こういった事情から、青の究極の目標は全知だということになる。青が望むのはあらゆる物事を知ることだ。なぜなら全てを知る者は弱点を持たないのだから。
こういった知識への渇望はメカニクスとしては、ドローカードやライブラリー操作といった青の能力において見出されるだろう。束縛を被った際には、青は新たな回答を見つけ出そうとする。他のどの魔道士と比べても、青こそが、魔術の決闘が情報戦だということを深く理解している。最も多く呪文を知る魔法使いは、大いに戦術上の優位を築くことができる。
●その目標に到達するために、その色はどんな手段を用いるか?
知識を得るという目的のために、青は知性の重要性を尊重するようになった。青は対戦相手の一枚上手を読み切ることで戦闘に勝利する。魔術の決闘においてこれが意味するのは、魔法がどのように作用するかを理解するということだ。そしてこれが所以で、青は《対抗呪文 / Counterspell》【青のインスタント。呪文一つを打ち消す】や《送還 / Unsummon》【青のインスタント。クリーチャー一体を手札に戻す】を会得しているのだ。青は魔法の技術に熟練しているので、刹那の瞬間に呪文を停止させたり反射させたりすることさえも可能だ。これがまた理由となって、青は《臨機応変 / Sleight of Mind》【青のインスタント。呪文やパーマネントの文章に書かれた色を別のものに置換する】や《魔法改竄 / Magical Hack》【青のインスタント。呪文やパーマネントの文章に書かれた基本土地タイプを別のものに置換する】といったような、呪文がどう作用するかを実際に書き換えてしまう呪文を有しているのだ。
また、青は知性を用いて対戦相手を欺く。混乱に乗じて勝ちをかっさらうことに対して、青は良心の咎めを全く感じない。青は《Illusions of Grandeur》【威厳の幻覚。青のエンチャント。戦場に出たとき20点ライフを得て、戦場から離れたとき20点ライフを失う。累加アップキープを持つ】のような幻覚や、《方向転換 / Divert》【青のインスタント。呪文の対象を変更させる】のような対戦相手の有する魔法を想定外な挙動で機能させる呪文、これらを利用する。同様に青は《説得 / Persuasion》【青のオーラ。そのクリーチャーをコントロールする】のような窃盗と《不可視 / Invisibility》【青のオーラ。壁以外にはブロックされなくなる】のような変装を効果的に利用する。青は自分が肉弾戦では勝ち目がないと力量を弁えているので、自分の能力を使って決闘を青のフレーバーへと傾けるのである。青は最も公正な色というわけではなく、また規則が許すならば、躊躇することなくその体系を食いつぶすのだ。
加えて青は次のことを積極的に擁護し肯定している。つまり自分の必需品を創り出すために、最初から組み立てるか、あるいは元々の設計に変更を加えるか、【そのどちらでもありうる】ということだ。したがって青は最も頻繁にテクノロジーを使う色であり、《修繕 / Tinker》【青のソーサリー。ライブラリーから直接アーティファクトを出せる。あらゆる構築環境を席巻した凶悪な呪文】のようにアーティファクトと最も強い相乗効果を持っているということだ。
●その色の関心事は何か? その色が表象するものは何か?
青の一部分は学生であり、また別の一部分は科学者だ。青が現在進行形で行なっている探求は、可能な限り多くの知識を集積させること、そしてその知識を応用する手立てを見つけ出すことだ。絶え間なく自身を改良することで自分の潜在能力を最大限に発揮させる、青はそのように望んでいる。これはつまり、青が表象するのは情報を集めて利用するという性質だ、ということを意味している。
知識。創造性。巧みさ。人造。知性。計略。狡猾。受動性。精神、思考。操作。幻覚。冷淡さ。碩学。制御。建築。四元素の水と風。
●その色が軽蔑するものは何か? その色を否定的な方向に駆り立てるのは何か?
青は自身の知性によって生きている。したがってそのように生きることができない者や、もっと悪ければ、物事を熟考する時間を取ろうとさえしない者、青はこういった者たちに対して虫唾が走る思いを抱く。青は緩やかで、規律正しい、受動的な色だ。今後の行動を考え抜くために充分見合った時間を設けることなく実行に移ってしまうような存在は、青のまさに核心を揺るがしている。
青がそのような生意気な行為に偶然にも居合わせたならば、良き親ならば誰もがするようなことを行なうだろう。すなわち彼らの企みとは、厄介事を引き起こすクリーチャーに対して、彼らの制御下に置かれたことを大々的に主張することで、そうすべきだと彼らが考えるような振る舞いをさせようとする、というものだ。
●その色が友好色を好み対抗色を嫌うのはなぜか?
白に対して青は、思考と計画の重要性を理解する色だと評価を与える。白は自制心を持っているため、一歩退いて距離を取ったり、自分の行動の成り行きを熟慮したりできる。
黒に対して青は、真実が時に見せる醜さから手を引いたりしない色だと評価を与える。黒は無知や自己欺瞞を装って自らを曖昧にしたりはしない。黒は弁解をしない、むしろ解答を探し求める。
緑に対して青は、過去に規定された色だと評価を与える。緑は古来からの慣習に従っているので、新奇であったり革新的であったりするようなものなら何でも遠ざけようとする。加えて緑は、非合理的な本能を取るために、合理的な知性を拒絶している。緑とは時代遅れの哲学であり、変化という不可欠な進歩を停滞させるものにしか過ぎない。もし青が自分の大義を押し進めるつもりならば、緑は除去されなければならない。
赤に対して青は、知性に向かって公然と唾棄する色だと評価を与える。赤は多元宇宙で最も混沌とした力【force】である感情に導かれている。赤は説得を受け付けないし、その破壊的な天性は目を光らせて、青が建立しようと願うものを片っ端から壊そうとしている。もし赤が野放しにされたままならば、それは青にとっては将来の頭痛の種にしかならないだろう。したがって赤は狂気に駆られる前に消去される必要がある。
●その色の最高の長所と最大の欠点は何か?
青の最高の長所は対戦相手の上手を行く思考力だ。無限の情報を取り扱う青は、回答をすべて手中に収めている。問題なのはこのやり方は非常に遅いということ、そして青は行動を起こすべき時においても受動的である傾向にあるということ、だ。青が状況を見極める前に、素早い対戦相手はしばしば青を打ち負かすことが可能だ。
●青い曲者たち【Blue Meanies:ザ・ビートルズのアニメ映画「イエロー・サブマリン」に登場する音楽嫌いの青鬼たち】
各色の哲学について、研究デザイン部が色のフレーバーに肉付けする際に活用した登場人物、私はその登場人物の実例をいくつか挙げてきた。我々は部屋の壁に巨大なカラーホイールを設け、絵や写真を任意の色にピンで留めるという作業を行なっていた。私の色の哲学のコラムにおいてはこの項目が最も物議を醸すものだと、これまでで明らかにされてきたので、天の主は私がここで筆を置くことを決してお許しにならないだろう。以下に挙げるのは我々が青の登場人物だとみなしたものだ。
マーリン【Merlin:伝説上の魔法使い。奥義を伝授した愛弟子に裏切られ、幽閉された】――塔に閉じ込められた孤高で聡明な魔法使い、彼はその典型の起源となった者だ。彼こそ青の権化だと言えよう。
スポック【Spock:「スタートレック」シリーズの登場人物。艦隊の技術主任】――鉄化面で、論理的で、「新たな世界と文明を探し求める」という任務に没頭する、そんなスポックが「スタートレック」の全登場人物の中で最も青だ。
ウィローとジャイルズ【ともに「バフィー」の登場人物。Willowはコンピュータが得意で、Gilesは図書館司書】――特に私が言及したいのは初期のウィローとジャイルズについてだ。闇堕ちしたウィローはいささか黒いと認めなければならないからだ。サニーデールの町で事件が発生したとき、この二人は本を広げて「大いなる災厄【the big bad】」の倒し方を調べ上げたのだった。勝利とは、彼らが証明したように、知識によってもたらされるのだ。
ミスター・ファンタスティック【Mr.Fantastic:本名リード・リチャーズ。マーベル・コミック社の「ファンタスティック・フォー(The Fantasitic Four)」というアメコミの登場人物。自身の体を自在に変形できる】――「ファンタスティック・フォー」のチームを牽引する彼は、心の奥底からして科学者だ。知っての通り彼は、暴虐な覆面の狂人や惑星食らいの天体生物と戦うのだが、しかし心の中では、むしろ宇宙の真理をただひたすら探究したいと考えているようだ。リード・リチャーズは、マーベル社作品のどの登場人物よりも、知識の渇望によって強く導かれている。
リサ・シンプソン【Lisa Simpson:「ザ・シンプトンズ」の登場人物】――リサは自分自身を知性によって定義する。彼女にとっては非常に重要なことは、彼女が他の誰よりも物知りだという事実だ。そして、各色の記事でシンプトン一家から一人ずつ表象させること、これがまた重要なのだ。
●何か一つ青い物【Something Blue:バフィーの映画版のサブタイトル。一般的には、結婚式で花嫁が身につけると幸せになれる四つの道具の一つ。ちなみに残りの三つは古い物、借りた物、新しい物】
これで我々は色の哲学の折り返し地点に到達したことになる。今後数ヶ月の内に残りの二色を、黒と赤を探求すると約束しておこう。
来週も参加していただければ、もう少しパイを並べるつもりだ。
その時まで君たちの問題が、行動を起こす前に考えることで解決されるのを願いつつ。
――マーク・ローズウォーター
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